第9話
一時間目の体育は心身ともにこたえる。紫は初夏の風に打たれながら急な時間割の変更を恨んだ。体を動かすのも特に好きじゃないし、チームワークは苦手だった。野球はたぶんそれなりに楽しかったけれど、やめてよかったと今では思う。翠のように大して上手くもなれなかったし、そこまでの情熱もなかったから。当時から、素直に野球を好きでいる少年たちは紫にとってはとてもまぶしかったように思う。
「紫」
サッカーの試合中、得点板の横で得点係をこなしていると横から声をかけられた。ちらと視線をそちらへ送ると、空が昨日話したときのような真剣な顔つきでこちらを見ていた。紫はなに、と応じながら、近くにいた女子に得点を変える係を代わってもらった。
「あの…… きのうの」
空は言うべきか言うまいか、という顔をしながら集団から少し離れたところへ向かって歩き出した。
「べつに、だれにも言ってないよ。…… ほら、私、友達いないし」
「―― ああ…… うん、ありがと」
紫が言うと、空は微笑を唇に浮かべて言った。
「でも俺、紫に友達がいないから話したわけじゃないよ」
言葉の意味をはかりかねてなにも返せずにいる紫に、空は続けた。
「紫だから言ったんだよ、俺」
空との付き合いは、小学校四年生のときからになる。三年生のときのクラス替えで同じクラスではあったが、四年生から始まったクラブ活動で同じクラブを選択して、それから少しずつ話すようになった。とは言っても、お互いに深い話なんて一度だってしたことがなくて、いつも教室や帰り道でしていたのは他愛のない話ばかりだった。
それがまさか、あんな話をされるだなんて、紫としては思ってもみなかった。
なんだかたいへんな秘密を打ち明けられたようで―― 実際そうなのだろうが、自分一人で抱え込むにはあまりにも重すぎて、だれかに吐き出してしまいたいような気分だった。
(吐き出す相手なんてどこにもいないけど)
離れた場所で数人の男子がひそひそとなにか言葉を交わしているのが見える。彼らの視線はちらちらとこちらを見ては、再びお互いに向けられる。その口が「マジ?」と動くのがわかった。と、そこでだれかが空を呼んだ。
「次、俺たち試合だよ」
黒田は数メートル先から大きなよく通る声で叫んだ。空が立ち上がったので、紫も立ち上がった。じゃあ、と空が紫に断って、黒田の横に並んだ。黒田に肩を叩かれて、空が楽しそうに笑っている。…… 体育なんて、紫と同じで大して好きでもないのに。
…… もしかして、そうなのか。
もしそうだとすれば、自分はどうすればいいのだろうか。
空と同じクラスになったのは、小学校三年生のときだった。その時はまだ同じ班になったことも、隣の席になったことだってなくて、ほとんど関わりと呼ぶほどのものはなかった。初めてまともに会話をしたのは四年生になってからで、クラブ活動のときだった。たまたま隣同士の席に座って、それぞれ持ち寄った漫画や本から模写したい場面を選んでいるとき、空が声をかけてきた。
『それ、俺も知ってる』
会話のきっかけはそんなふうだった。ひどくありふれたものにも思えたし、ほかにはない、唯一無二のもののようにも思えた。ともかくそんなふうにして空と話すようになった紫だったが、共通点といえば最初のあの漫画くらいのものだった。好きな食べ物も、趣味も、得意科目も、なにもかもが違っていて、それがかえってお互いを引き寄せているようだと、紫は感じていた。
『…… ジャニーズ?』
なにげなく口に出された言葉を、紫は繰り返した。
当時、クラスの半数くらいの女子が夢中になって騒いでいたグループがある。紫はというと、自分の陰口をたたいたりしていた女子たちがそのグループを好きだと言っていたことが大きくはたらいて、あまり好きにはなれなかった。
『が、好きなの?』
たずねると、空はうん、とうなずき「変だよね」と続けた。
『妹が、俺とは逆にAKBとか女のアイドルが好きみたいなんだよね。それで親父におまえら普通逆だろとか言われてさ』
『…… ジャニーズの逆ってAKBなの?』
『え、そこ?』
ぽつりと紫がこぼした疑問に空が思わず突っ込む。
『私どっちも好きじゃないし詳しくないから、よくわかんないな……。自分が好きで楽しいなら、べつになんでも良いんじゃない。だれにも迷惑かけなければ』
紫が言うと、空はなんとも言えないような表情に、わずかに笑みをのせた。
『紫、実を言うとこの話題にあんまり興味ないでしょ』
『うん』
たちまち、空は笑い出した。
『俺、紫のそういうところがすごく好きだなあ!』
突然声を上げて笑い出したうえに意味のわからないことを言われて、紫はつい「はあ?」と言って眉を寄せた。そんな彼女の反応をよそに、空は紫に対して微笑みを浮かべたまま
『紫とずっと友達でいられたらなあ……』
とつぶやいた。
(私はあのとき、本当はひどく傷ついていたのかもしれない)
「これ、おまえ?」
体育の授業を終えて教室に戻ると、ひとりの男子が空に向けてスマートフォンをかかげていた。スマートフォンや携帯電話、音楽プレイヤーなどは校内に持ち込みを禁止されているはずだが、こっそり持ってきている生徒は何人かいる。特にこの彼は、買ってもらったばかりのスマートフォンを教師に隠れて持ち込んでいるのを、紫は何度も目撃していた。紫だけでなく、クラスのほとんどの人間はこのことを知っているだろう。
彼がかかげているスマートフォンの画面上には、あるSNSのアカウントが表示されている。あのアカウントだ。紫は体の内側がさあっと冷えていくのを感じた。
空は呆然とそこを見つめたあと、紫の方をぱっと振り向いた。紫が口を開くより先に、空は紫をにらみつけてくる。
「待って、ちが――」
弁明する暇はなかった。紫の声を聞かないまま、空は教室を飛び出していた。
「空!」
紫が柄にもない大声を出すが、空は止まってくれない。
「空っ!」
廊下を突き進んでいく背中にもう一度大きな声で強く呼びかけると、彼は勢いよくふりむいた。
「紫だから、紫だから言ったのに!」
その鬼気迫る形相に、紫は言葉をつまらせた。なにも言い返せない。
結局あのあと、空は具合が悪いと言って早退したと、後の授業で担任に知らされた。
どうしよう、のひとことが頭のなかでぐるぐると渦巻いて、紫はそのあとの授業には集中できなかった。午後の授業もたぶん集中できないだろう。試験前なのに、と思いつつ女子トイレのドアに手をかけると、中から声が聞こえてきた。
「あたし思うんだけどー、空さあ、さっきのが本当だとしたら、紫のことカモフラージュに使ってたんじゃない?」
自分の名が聞こえて、紫はドアを開ける手を止めた。わずかに空いたドアに気づかず、彼女たちのだれかが「どういうこと?」と問うた。
「だからさ、紫と一緒にいたら付き合ってると思われて『ソレ』のカモフラージュになるじゃん」
「あーなるほど。ていうかこれ、紫知ってたのかな」
「どうだろ? 知ってても言う相手いなさそー」
笑い声が起こったタイミングで、紫はドアを開けた。女子たちが一斉に笑うのをやめ、気まずい沈黙がおとずれるなかを、紫は無言で突き進むと奥の個室に入った。直後、女子たちが慌てて立ち去るような音がする。
個室の鍵を閉め、紫は便座にも座らずに立ちつくしていた。
カモフラージュ? だれが? 空が? だれに? 私に?
わからない。だってそれってつまり……。
(利用してたって、こと……)
―― 私はたぶん、傷ついたのだ。
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