第8話

「なんで髪伸ばさないの」

 手元の問題が一区切りついたのか、一旦シャープペンシルを置いた翠に朱音が問いかけた。

「あたし去年からずっと言ってるよ」

「私も伸ばさないってずっと言ってる」

 翠は朱音をあしらいながら、教科書と問題集を交互にながめている。何度も同じページをめくったり戻したりしているので「どうしたの」と朱音がたずねると、うーんと翠は悩むような声を出した。

「ここ苦手なんだよね……。何回やっても答えが合わない」

「どこ?」

 翠にしてはめずらしい言葉に、朱音は教科書をのぞきこんだ。

「時差計算のところ。考えてると頭のなかごちゃごちゃしてくる」

「あたし、緯度と経度も正直まだよくわかってないよ」

「…………」

 さすがにそれはわかってくれ。そう言いかけたのを飲み込んで、翠はもう一度問題に取り組むことにする。

「またそういう顔であたしのこと見るー!」

「えっ」

「今なんでそんなこともわからないんだって思ったでしょ」

 まさか顔に出ていたとは。馬鹿にするつもりはけっしてなかったのだが、朱音が傷ついていたのなら話はべつだ。翠は反省しつつ弁明する。

「いや、得意不得意は人それぞれだと思うし」

「あたしの得意なことってなに」

 えーっと、と翠は必死に頭を回転させる。

「…… あ、そうだ、ほら、朱音は朝強いって言ってたじゃん。私は朝弱いからうらやま……」

「勉強は」

 じゃあないよ、とうっかり言いそうになるのを翠はまた飲み込む。

「あの…… 朱音は…… テストの点数はそんなに良くないかもしれないけど、授業中に私語はしないし、居眠りもしないし」

「そういう気の使い方、逆に疲れる」

 ではどうしろというのか。テーブルに潰れる朱音になかば呆れながら翠は「ちゃんと長所だよ」と返して勉強を再開させた。


 定期試験の一週間前は、部活動が禁止になる。空は美術部の部室として使っている多目的教室に置きっぱなしだったスケッチブックをかばんに入れてから生徒玄関に向かった。下駄箱の前で、空は足を止めた。空の真下の下駄箱から靴を出し入れしていた彼女は、空に気づくと彼の邪魔にならないように少し場所をずれて靴を地面に投げた。

「どうも」

「いいえ。勉強してる?」

 空が軽く礼を言うと、彼女―― 筒井紫(つついゆかり)はそんなふうに返してくるとともに空にたずねた。それが雑談とはまったくもって違う、説教、あるいは脅迫にも似た響きを帯びていたので空はややひきつった笑みを浮かべた。

「あー…… うん、まあ、ぼちぼち?」

 そう、と紫は目をすがめ、「ならいいけど」と口にした。

「テスト直前になって助けてくれって泣きつかれてもこっちもこっちで手いっぱいだから、頼ってこないでね」

 事前に釘を刺されてしまえば空もなすすべがない。

「うちの妹もね、最近たまにわからないところがあるみたいで私に聞いてくるんだけど、全部にうまく答えられるわけじゃないから、ときどき困る。…… なんか、たまにだれかさんの妹に勉強教えてるみたいだし」

 横目でにらまれて、空は申し訳なさそうに苦笑いした。

「うちの子がご迷惑を……。それで、紫の妹はなにがわかんないの?」

「地理。特に時差の計算が苦手みたいで。私も説明するの苦手だから、あの子もあんまりわかってくれなくて」

「紫の妹、野球部だよね? 黒田に教えてもらったりしないのかな」

 生徒玄関を出ると、何人かの同級生たちが空に声をかけた。空が手を振って応える横で、同級生たちはついでのように紫にも声をかけてから帰っていく。

「後輩からは聞きにくいんじゃないの。…… 翠、野球部に女子一人だし」

「それじゃあ、俺から黒田にちょっと聞いてみようか? 俺もよく教えてもらうんだけど、すごくわかりやすくて――」

「え、あんた黒田くんに勉強教わってたの? 教えてもらってその…… あの成績なの?」

「う…… うるさいな」

 空は指摘されて自身の成績の悪さを思い出したのか、顔をしかめた。紫も黒田ほどではないが成績は良い方なので空の勉強を見ることが過去に何度かあったが、びっくりするほど理解できていないので教えるのにひどく疲れてしまった。そもそも紫自身教えるのがあまり得意ではない。黒田は得意なんだろう。

 風が吹いた。校舎の周りに植えられた松の木がざわざわと震えた。

「髪、ずいぶん伸びたよね」

 紫が乱れた髪を押さえて木を見上げていると、横で空が言った。

「紫、前は髪すごい短かったじゃん。なんで伸ばしたの? 野球やめたから?」

「…… 関係ないでしょ」

「いや、なんか涼とかが話してたよ。なんでかなって」

「…………」

 紫が野球をやっていたのは、もう三年も前の話になる。野球は大好きだったし、今でもテレビで高校野球を観るくらいには好きだが、もう一度プレイヤーになろうとは思わない。

 六年生になってすぐのことだった。親戚同士で集まったときに、偶然会ったはとこが紫と翠に言ったのだ。「なんだか男の子みたいだね」と。野球をはじめたときあたりから何回も言われた言葉だったし、翠の方は気にしていないようだったが、紫にとってはひどく破壊力のある言葉であった。

(私はあのとき失恋したのかもしれない)

 その事実に気づいたのは野球をやめようと決めてしばらく経ったあとだった。

「それこそあんたらには関係ない」

 そっけなく言い放つと、空が「関係ない、ねえ」と妙に含みのある口調で言った。かんに障る。鋭い視線でもってにらみつけると、空は少しだけひるんだ様子で口を開く。

「あいつ、たぶん紫のこと気になってるんだと思うけどなあ」

 紫は眉間にしわを寄せ、あからさまに不快だという顔を隠さずにしてみせた。

「あまりいい気分じゃない」

「どうして?」

 小学校のころから合わせて、自分に対して好意を持ってくれている人物がいる、という話は何度か耳にしたことがある。そのいずれもが、周囲になじめない紫をミステリアスだとかほかと違って大人っぽいだとかいうものだった。

「…… あいつはたぶん、周りから浮いてて、ほかと違う私が目についてしょうがないってだけ。べつに本当に好きとかじゃない」

 きっぱり言い切ると空は「ふうん」とつぶやく。

「それでも気になってることに違いはないんじゃない?」

「うれしくない」

 もう一度はっきり言うと、空は口を閉ざした。

「あんただって、女子が顔だけは良いって話してたけど」

 紫の皮肉っぽい言葉に空は「なんだそれ」と言って笑った。ちょうど小学生たちが下校するのと同じ時間帯なのか、ふたりのすぐ近くをランドセルを背負った小学生たちが駆け抜けていく。

「―― 俺、べつに女子は好きじゃないからなあ……」

「なにそれ」

 今度は紫が笑った。

「じゃあ男子が好きなの?」

 空が女子は、などと言ったのがおかしくて、からかうつもりで言いながら彼の顔を見ると、空の表情は思っていたようなものではなかった。苦々しげとでも言おうか、まるでなにか言いたいことがあるのにそれを我慢しているかのような顔だった。

「―― そうだよ、って言ったら紫はどうする?」

 思いもかけない空の言葉に、紫は一瞬、意味をはかりかねて黙った。空は紫の反応にふっと微笑を浮かべると、「ごめん、やっぱりなんでもないや」と口にした。


(―― たぶんこのアカウントだ)

 家にある家族共用のノートパソコンのブラウザから、紫はあるSNSをながめていた。「そら」とひらがなで記載されたアカウント名に続いてある四桁の数字は、彼の誕生日だ。アカウントは非公開になっていて、ツイートは見ることができない。しかしプロフィールには、自身が学生であることと、同性愛者であることが書かれている。紫は少し悩んでからフォローのボタンを押した。すると向こうもちょうどログインしていたタイミングだったのかすぐにフォローの許可が下りる。彼のツイートをさかのぼっていくと、その日の出来事がぽつりぽつりと記されていて、それらは紫たちの通う中学校の行事日程と一致した。

 なんだか少し、不用心なんじゃないかと思ってしまう。

 アカウントこそ非公開になっているが、フォロワーのなかに同級生が絶対にいないとは限らない。同級生でなくても、彼らの知り合いとか、そういう人がいて、その人物が同級生のだれかに漏らすことだってありえる。

 紫はそれが怖くて、非公開アカウントを持ってはいるがだれのフォローも許可していない。

(ていうか、男子が好きって、つまりどういう……)

 ぼんやりと居間でテレビのチャンネルを回していると、画面に女装家の男性タレントが映った。彼らは女性の使うような言葉で話しているだけでなく、仕草にいたるまでまさに女性のそれのようだ。

 空はいわゆる〈そっちの人〉なんだろうか? 紫は空がああいう女性のような格好をしているところはおろか、女性のような話し方をしているところなんて見たことがない。ましてそれらを望んでいるというような話すら聞いたことがない。試しに空がセーラー服を着たり、女子っぽい言葉を使うところを想像してみようと試みるが、うまくいかない。

 紫は自分のそばでテスト勉強なのか教科書をながめている翠を見た。開いているのは地理の教科書で、彼女のポリシーなのかなんなのか、マーカーなどで線は引かれていない。彼女が帰ってきたのは門限ぎりぎり、ちょうど夕食の直前だった。

「今日もふたりで勉強してたの?」

 妹がこのごろ親しくしている様子の空の妹、朱音のことを指して言うと、翠は「うん、まあね」と肯定した。

「ふたりでって言っても、私教えるの下手だから本当に向かい合って一緒に勉強してるだけなんだけど」

「けっこうさ、女の子らしい子だよね?」

 何度か学校で見かけただけの姿を思い出して聞けば「そうだね」とあまり関心のなさそうな声が返ってくる。

「でも、けっこう変わってるところもあるよ。前に学ランが着てみたいとか言ってたし……」

「それにしたって、翠が女の子の友達ってめずらしいじゃん」

 紫の言葉に、翠が「あ、いや」と目を泳がせる。

「友達っていうか――」

「仲良くなったきっかけってなんなの?」

 間違った情報を訂正しようとした翠に気づかずに、紫は立て続けに問いかける。

「…… きっかけ、とかは、ない。これといって」

「いやあるでしょ。あんなめちゃくちゃ女の子女の子した子とさあ」

「だからべつに見た目ほどじゃないんだって」

 翠は言いながら教科書に視線を戻した。勉強の邪魔をするつもりはないので紫もテレビに視線を戻す。画面の中では変わらず、女装したタレントがMCに鋭いひとことを放ってその場を沸かせていた。

「だいたい、紫の言う女の子らしいってどういうの?」

 ふいに妹からたずねられ、紫は言いよどんだ。テレビなんかによく出ている、いわゆる〈そっち系〉とか呼ばれている人々はこぞって女性的な言葉を用いるが、実際には同級生も学校の教師も、母親でさえあそこまで徹底して女性的な話し方はしない。じゃあ見た目? …… いや、朱音も、ほかの、同じクラスの女の子らしいと紫が思う女子も、普段はみんなと同じ制服だし、さして違いはない。違うところは髪型くらいなもので、では長い方が女性らしいかと言われればそうではない気がする。学校にもテレビのなかにも、ショートヘアの女性にだって女性らしいと思う人はいる。

「…… まあ、あんたと違うのはたしかだよね」

 そう言うと、翠がテーブルの下で足を蹴ってきたので、紫も軽く蹴り返した。

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