第7話

(三)

 朱音はリビングのソファに投げてある兄・空(そら)のものである学生服に手を伸ばした。黒一色のそれを少しながめたあとなにげなく肩にかけて、窓を鏡にして学生服を羽織った自分の姿を見る。

(なんで男子と女子でこんなに制服が違うんだろ)

 男子の制服にはひらひらした襟はおろか、スカーフさえついていない。プリーツの乱れを気にする必要もなさそうで、なんだか楽そうにも見える。兄に合わせたサイズだから当然だがあきらかに大きい。そのせいなのかべつの要因なのか、好きな服を着ることができたことに対する喜びはあれど、同時にどこかちぐはぐで、似合っていないという話以前の奇妙な違和感があって、なんとなく残念な気持ちになる。

「あっ、おい、俺の制服」

 返せよ、と制服の襟を引っ張ってくる兄・空に「似合う?」と聞けば彼は襟を持ったまま答える。

「なんか応援団の女子みたい。ほら、はやく返せよ」

「応援団の女子はこういうの着るけど、男子はセーラー服着ないよね? なんで?」

 純粋に疑問に思ったのでたずねると、空は

「お前は俺みたいなののセーラー服姿が見たいか?」

と問うてきた。朱音は兄がセーラー服を着ているところを想像してみる。さきほど学生服を羽織った自分の姿を窓越しに見たときと同じような違和感がある。妹の沈黙を、「そんなもの見たくない」という意味ととったのか、空は

「ほら、そういうことだよ」

と言って朱音の手中から学生服を取り返した。そのまま床に放置してあった通学鞄を手に取って自室に引っ込もうとする兄に、朱音は「あっ」と思い出したように声を上げた。

「お兄ちゃん今日、テレビにジャニーズが出るって言ってたよね? テレビ始まるまえにお風呂入っちゃうでしょ?」

 ていうかママが入れって言ってたよと告げると空は動きを止め、苦々しげな顔で振り返ってくる。

「なあ、今日帰ってくるの何時くらいになるかな?」

「なにが? パパ?」

 主語をぼかして言ったことに対して首をかしげつつ朱音は「いつも通りじゃない?」と返し、それからあっと気づく。

「パパがいたらまた横からごちゃごちゃ言われちゃいそうだもんね」

「帰ってくるまでに出番終わってくれればいいけど……」

「人気なグループは最後の方じゃない?」

 そう言うと、空はため息を吐きながら自室へ入っていった。父が男性アイドル好きの空に対して苦言を呈するのはもういつものことだ。かくいう朱音も、女性アイドルが好きだと話したら変わったものを見るような目をされたのを忘れていない。

 母に関してもそうだ。朱音自身言わないから当然だが、朱音が真っ黒な学生服に憧れているとは夢にも思わないでいる。父のことも、当然母のことも大好きだが、ときどき、本当にときどき、苦しい。


「なんで言わないの?」

 言えばいいのに、と翠がノートの上で手を動かしながら言った。

 翠と朱音は、朱音の部屋で向かい合って教科書を開いていた。朱音の部屋は姉とたった一枚のふすまを隔てただけだった翠の和室とは違って、一人きりの洋間だ。朱音の部屋を出て奥の方に兄・空の部屋があるが音はほとんど聞こえてこない。

「あたし、べつにかわいい服が嫌いなわけでも着たくないわけでもないし、かわいい服着るとママがすごい喜ぶから、それ見るのわりと好きだし……。ねえ、ここ、わかんない」

 朱音は教科書に載っている例題を指さしながら翠の方に押し出した。

「なにがわかんないの」

「解き方」

「そのまま普通に解けばいいじゃん。公式にあてはめて……」

「それがわかんないんだけど」

「えっ」

「えっ」

 ふたりは顔を見合わせて、理解できないという顔でお互いを見た。やがて朱音が根負けして「もういい」と言って数学の教科書を閉じた。

「明日、佑人にでも聞こう……。翠ってさ、たまにうちらみたいな勉強できないやつらのこと馬鹿にしてるみたいな言い方するよね」

「…… そんなつもりはないけど」

 翠は問題を解いていた手を止めて、朱音に向き直る。

「でも、そんなふうに感じていたのなら直す。私、どうすればいい?」

 真剣な顔で問いかけてくる翠に朱音は「いいってば、もう」とテーブルに肘をつきながら言った。

「そういうのだるいよ、翠。みんなと話しててそんなこと、言ったことも言われたことも一回もないよ」

「…… 勉強しないの」

「するけど」

 朱音は本棚に数学の教科書を戻して、代わりに社会科の問題集を取り出すと翠の正面に座り直した。

「でもさあ、覚えても結局テスト終わったら全部忘れちゃうよね」

「一回覚えたら普通忘れないでしょ」

 翠がなにげなく言うと、朱音は顔を上げて彼女をにらんだ。朱音の鋭い目つきに翠は少しひるんだ様子を見せる。なに、と問えば朱音はべつにと返して反対に

「スカート慣れたの」

とたずねた。翠はまあ、とあいまいにうなずいて「下にジャージ履いてるしね」と続けた。こんなふうにけろりとした様子で言っているが、最初のときはひどかった。お互いの制服姿を見せ合おうと、朱音がほぼ一方的にだが約束した日も、翠はなかなか制服を着ようとしなかった。

『そんなんで四月からどうするの。ていうかそのまえに卒業式あるし』

『四月からは着るよ、そりゃ。卒業式も。みんなが着てるし、学校の制服って決まってるものだし、必要なものだし』

 翠は壁に掛けられたセーラー服から目をそらしながら言った。朱音は首をかしげて「意味わかんない」と口にした。

『今だってあたしが見たいって言ってるし。あたしも今着てるからひとりじゃないじゃん』

 説得するつもりで言うが、翠にはあまり響いていない様子だった。翠は長くため息を吐くと「説明しても朱音にはわかんないよ」と言った。

『それ、やだって言った』

『…………』

 翠はしばらくうつむいたままじっと黙っていたが、朱音が焦れて限界に達しかけたころようやく口を開いた。

『最終的にわかってもらえない可能性の方が高いのに、私ばかりが必死になって説明しなきゃならないのはつらい。一生懸命説明して…… 説明したのに、朱音にわかってもらえないことを思い知らされるのはいやなの』

 翠の言葉を最後まで聞いてから、朱音は立ち上がった。そして、部屋の壁にかけられたセーラー服をハンガーごと取り上げた。

『―― ちょっと、やだって……!』

『これ持って。こっち来て』

『あか……』

『よく見て、翠』

 朱音は抵抗する翠の肩をつかみ、上半身にセーラー服をあてながら言った。

『これ、上だけだよ。スカートの方はまだそこにかかってる。こんなの水兵さんが着てるのとおんなじだよ』

 自分で話していてとんでもない理屈でものを言っているんじゃないかと思ったが、翠の方はそれで納得したのか朱音の手から制服を受け取った。

『こっち来て』

 鏡のない和室のなかから出て、廊下の窓ガラスの方へと翠をみちびく。外はあいにくの天気で、朱音が来たときには今にも降り出しそうだった空の色は一層暗さを増している。国内で有数の降雪量を誇る県だからか、三月になっても空はこんなふうで、卒業式でさえも雨か雪が降る始末だ。でもきっとそのおかげで、二人の姿が暗い窓にうつる。

『…… かわいい』

『ねっ』

 翠の感想に朱音は賛同するように言って、襟にかかっている白い布をつまんだ。

『スカーフつける練習もする?』

『そんなに複雑じゃないでしょ』

『でもほら、ダサいつけ方とかしたくないじゃん』

 翠はどうでもいい、と返して身をひるがえした。本当にどうでもよさそうだ。部屋に戻った翠を追うと、彼女は壁にかかったままの制服のスカートを見上げていた。しばらく見ていたが、翠はハンガーを戻すとさっきと同じように床に座り込んだ。さっきよりはずいぶん晴れやかというか、すっきりしているように見える。

『―― スカートはさ、女の子が着るものじゃん?』

 これはついさっきまで言いたくないと言っていた「理由」だろうか? だとしたらなぜ今口に出したのか、自分が聞いていていいのだろうかと思いつつ朱音は隣に座る。

『制服だったらまあ…… 着なきゃいけない理由があるし、なんとか着られるけど、普段着るには勇気がいるっていうか……。スカートなんて、別段着ていく場所も機会もないし』

 ふーん、と間延びした相づちを打った朱音を、翠はじっと見つめた。鋭くにらみつけられると思ったが、そんなことはない。

『意味がわからないと思うでしょう』

 翠の言葉に、朱音は『うん、まあ』と濁して答えた。ふたりのあいだに沈黙が降りる。朱音がこんなふうに黙りこむのは初めてで、翠は困ったようにうつむいた。

『…… でも、わかるようになれたらなとは思うよ……』

 少しの沈黙のあと、朱音は自信なさげに言った。これもまた、らしくない。翠がなにか返すより早く、朱音は思い出したようにポケットに手を入れた。

『じゃーん、みてみて』

 そう言って彼女が取り出したのは音楽プレイヤーだった。手の中におさまっているそれはややメタリックなピンク色で、同じ色のイヤホンがつながっている。翠が「買ったの?」と問いかけると朱音は買ってもらったと答えた。

『入学祝い。おじいちゃんが…… あれ? まだ入学してないから、卒業祝い?』

『どっちでもよくない? 要するにお祝いでしょ』

 小さな機械についているさらに小さなボタンを操作している朱音の手元を、翠は隣に座ってのぞきこんだ。イヤホンの片方を渡されたので、翠は右耳に差し込んだ。

『なにが入ってんの?』

『AKB以外ないじゃん。…… あー、まだ全然操作方法とかわかんないや』

『説明書は?』

『読んでない』

 さもそれが当然だという様子で朱音が言ったので、翠は驚いて『じゃあどうやって曲入れたの』とたずねると『お兄ちゃんがやってくれた』とまたあたりまえのように返ってくる。自分が使うものの説明書を読まないなど、翠には理解ができない。朱音がこれかな、と言ってボタンを押すとようやく音楽が流れはじめる。しかし、正直に言って翠には曲の良さがわからない。

『全然興味なさそう』

『うん』

 朱音が不満そうに言うのに頷きながら、翠は朱音の肩にもたれた。いつも明るい色の服ばかり着ている朱音が紺一色のセーラー服を着るだなんてずいぶん地味にうつりそうだと思ったものだが、実際に着た姿を見てみれば予想に反して華やかに見える。よく似合っている。―― すごくうらやましい。

『…… 朱音はこういうのが好きなんだ、と思って聞いてる』

 目を閉じて五感に身をゆだねていると、朱音の指がなにげなく翠の髪をすくった。翠の短い襟足を、朱音は指先ですいたり、軽く引っ張ったりする。

『翠さあ、髪伸ばしなよ』

『…… 伸ばさない』

 野球やるとき邪魔だから、と言って翠は朱音の手を振り払った。

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