第6話
目が覚めると、まだ夜明け前だった。翠は腹の内側を絞られるような痛みに目を覚ました。目覚ましが鳴るまでまだ二時間もある。布団をめくって、敷き布団と掛け布団の両方を確認した。どちらも無事だ。翠はタンスからショーツを一枚取り出し、トイレに向かった。
下腹が引き絞られるように痛い。本来起きる時間よりもまだ早いのでふたたび布団にもぐりこむが、痛みで眠りにつけそうにない。痛み止めを飲もうか悩むが、飲むなら学校に行く直前がいいような気がする。母に意見を仰ぐのがいちばんいいのだが、毎朝早起きしている母の貴重な朝の時間にたたき起こすなどどうもしのびない。痛みと闘いながらあれこれ考えているうちに外が明るくなってくる。…… 起きよう。なにか無理にでも腹に入れて痛み止めを飲もう。幸い食事ができないほどの痛みではないので食パンを一枚トースターに入れて焼けるのを待っていると母が起きてくる。彼女がびっくりした、と一瞬娘の姿にびくりと肩を震わせたのち、
「どうしたの?」
寝起きのかすれた声でと問うてきた。お腹痛くて、と簡潔に答えると母は「ああ、始まったの」と納得したように言った。それから母はフライパンを出して目玉焼きを焼きはじめた。自分のぶんも焼かれているように見えるが、食べられる気がしない。いらない、と言うタイミングを見計らっているうちにトースターの音が鳴って、翠はトーストを皿に上げた。マーガリンを出そうと冷蔵庫を開けた瞬間、冷気が腹に地味に沁みてくる。食卓に戻ると目玉焼きも完成していた。トーストと目玉焼きを順に見つめ、腹の痛みと授業中に腹が鳴ることへの羞恥心を天秤にかけようとして、ふと、昨日の出来事を思い出した。
「学校行きたくない……」
思わずといった様子で口に出すと母が「ええ?」とけげんそうな声を出す。
「そんなに痛いなら、薬飲みなさい。あとで出してあげるから」
そうじゃないし、薬は最初から飲むつもりだった。言い返す気力もないまま、翠は目玉焼きをはさんだトーストにかじりついた。
「薬飲んだのー?」
朝食を腹の中に押し込んで、居間でぼんやりしていると母が洗濯物を手に聞いてくる。うーんと生返事で返しながら目元に手を当てる。なんだかすごく眠い。
「ねえ、今日学校休んでもいい?」
「だめよ」
即答だ。結局、腹痛が治ったら学校へ行くことを約束させられて、翠は薬を飲んでから自分の部屋に戻った。
もともと、歩けないほど痛いわけじゃない。さいわい、今日の合奏の練習は二時間目だから、二時間目が終わったころに登校すればいいか。そう考えて翠は、もう一度昨日のことを思い出していた。どうせわからない、それを口にした瞬間の朱音の悲しそうな顔が忘れられない。
「…………」
蒼汰も、友達に戻るときにそんなことを言った。
『背が高い翠には、俺のきもちなんてわからないかもしれないけどさ』――。
翠自身、そうだろうな、と思うし。自身の存在が、彼をきずつけていたのならそれは申し訳なく思う。
―― だけど。でも。だったら。
どうしてこんなに、自分の方が、ぶつけられた側の朱音ではなく、ぶつけた側である自分が、どうしてこんなにも傷ついているんだろう。
翠は重く息を吐きながら布団の中で体を丸めた。
朱音は翠の家の前に立ち尽くしたまま、自分に背を向けた佑人を引き留めたことを悔やんでいた。翠の家の玄関の前には、朱音の知らない花の植木鉢がいくつか置いてある。朱音はそれを横目に見ながら玄関に取り付けられたチャイムを鳴らす。しばらく待つが、だれも出てこない。留守なんだろうか? 翠も具合が悪くて寝ているのかもしれないしと思い数歩戻って部屋のあかりがどこかについていないかと窓を見上げる。すると、二階の窓からこちらを見る翠と目が合った。が、その瞬間翠は薄く開けていたカーテンを勢いよく閉めた。わかりやすい拒絶だった。配り物は郵便ポストにでも入れていこうと思ったその時、玄関の古そうな引き戸ががらりと開いた。
「…… あがりなよ」
短い言葉で促され、朱音は無言で家の中に入った。
「ごめん、今麦茶くらいしかなくて」
「や、あの、あたし、宿題とかプリント持ってきただけだから」
「え、なんで?」
首を傾げつつ封筒を受け取った翠に「佑人に押しつけられた」と答えると彼女はあからさまに動揺した様子で封筒を手から落とした。運悪くさかさまに落ちたので、中に入っていたプリント類が次々と床に散らばった。
「そ……」
落ちたプリントを拾うために朱音がしゃがみこむと、頭上から絞り出すような声が聞こえてくる。
「え、そ…… なんか言ってた? あいつ――」
「いや、べつになにも言われてないけど…… なにこのプリント」
朱音が拾い上げたプリントを片手に首をかしげたので、翠は彼女の方へ身を乗り出した。
「ああ、算数のやつだ」
「え? こんなパズルみたいなのやるの? あたしこんなの配られてないんだけど」
「そうなの? グループの違いかな。私、今Aグループだから」
現在算数は習熟度ごとにグループで分かれていて、Aグループが一番算数の得意な者、Cグループは苦手な者が集っている。翠の台詞に、朱音は「うわ、嫌味」と口にした。翠にすかさずなにがと問われて、朱音はだってと口を開く。
「あたしなんか一番下のCグループのなかでも全然できないし、算数だけじゃなくて理科も社会もできないし、体育も嫌いだし、中学入ったら絶対勉強についていけなくてべつに興味ない農業高校とか偏差値低い高校受けて適当な民間企業に就職すんだから」
「べつにそんな将来の展望まで聞いてはいないんだけど……。あと農業高校生だって将来のために真面目に勉強してると思うよ。偏差値だって県内のとこは普通科と大して変わんないし」
「えっ、そうなの」
「そうだよ。それに就職したって勉強しなきゃいけないこといっぱいあるだろうし、勉強からは逃げられないと思うけど」
「…… べつにサボりたいわけじゃないもん……」
むくれながら言う朱音の前で、翠はプリントをそろえた。
「まあ、みんなだれかにそういうものを押しつけると安心するのかもね。自分もふくめて」
「そういうもの……」
「レッテルっていうのかな。打楽器は男子、とか。木琴はクラスのかわいい系の女子、とか。あとピンクのランドセルはかわいい子しか持ってちゃだめみたいな……」
朱音の視線に気づいて、翠は言葉を止めた。
「…… いや、たとえね、たとえ」
「…… ふーん」
朱音が翠の顔をのぞきこむようなしぐさを見せたので、翠は顔をそむけた。
「あたしさ、本当は最初、黒いランドセルが欲しかった。…… 欲しかったっていうか、ずっとかっこいいなって思ってたんだけど、だれにも一言も言わなかった」
独白めいた口調で話し出した朱音に、翠はわずかに視線を戻した。
「べつに自分のこと男の子だと思ってるわけじゃないんだけどさ。…… 中学の制服もさ、好きな方選んでいいよって言われたら学生服の方がいいな、私……。セーラー服もそりゃかわいいけど、私服でかわいい服買ってもらうのもそれ着るのも好きだけど、やっぱ全身黒ってかっこいいし……」
「めちゃくちゃ自分のことしゃべるね」
苦笑交じりに言われて、今度は朱音の方が顔をそむけた。笑顔を見たのは初めてかもしれない。
「じゃあなんでピンクのランドセルなんて持ってるわけ?」
朱音は少し迷ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「ママがね、私が悩んでるの見てこれがいいんじゃないって言ってくれて。あたしはまあ、黒は男の子のものだからどうせ買ってもらえないし、あたしもなんだかんだ女の子は赤とかピンクのランドセル買うものって思い込んでたし、黒じゃないならなんでもいいやと思って」
今では気に入ってるしねと朱音が言って、しばらくの間翠は黙っていたが、
「私、スカート持ってないんだよね」
と口にした。
「保育園のときとか、小さいときは着てたけど。だからセーラー服が何年かぶりに買うスカートになると思う」
「え、本当に? ひとつも?」
朱音が驚いたように言うので、翠はうなずく。朱音はへえーと未知のものを見るような顔をしてからふと、思いついたように言った。
「あ、じゃあさ、制服買ったら見せ合いっこしようよ」
「は? なんで」
あまりに唐突な提案をされて翠は疑問というよりは抗議の意味で声を上げる。朱音は「いいじゃん」と言いながら翠の方に体を寄せた。
「あたしは着たくもないセーラー服姿を翠に一番最初に見せるから、翠も初めてのスカート姿あたしにだけ見せてよ」
ぐっと自分の方に身を乗り出した朱音に、翠は思わずのけぞった。
「い…… 意味がわからない。ていうか小さいときは着てたから初めてじゃないし」
「初めてと似たようなものじゃん」
詰め寄ってくる朱音の横で翠があきらめたように肩を落とすと、朱音は翠の腕を両腕でつかまえた。
「翠、背が高いから絶対に似合うよ」
「セーラー服はだれにでも似合うようにできてる」
翠が言うと、朱音は「そういうことじゃない」と肩をいからせて、翠は困惑した。
「最近よく一緒にいるよね」
緋奈子の言葉に、藍がたしかに、とうなずいた。
「このまえけんかしてたんでしょ? なのになんで?」
仲直りしたの? とたずねられ、朱音は「うん、まあ」と肯定する。緋奈子はへえーとどこかつまらなそうに口を開く。
「あたし保育園から一、二年のときまで同じクラスだったけど、あいつちょっと変わってるよね」
「でも、話すとけっこうおもしろいよ」
彼女の口調がからかいの意図をおびているような気がしたので、朱音は思わず翠をかばうように言った。すると緋奈子はまたしてもへえ、と言って笑った。
「ま、朱音も変わってるもんね。お似合いか」
「えっ……」
「黒のランドセルはいまだにほしいの?」
(―― いや、べつにいらないとは思ってないけど)
黒のランドセルや学生服に対するあこがれは、分類としてはファッションに近いもので、女子はセーラー服と校則などで決まっているのであればそれに対して反抗しようだとか、そんなことは思わない。
「朱音」
放課後、階段を下りている途中で振り返ると、ついさっきまで友人たちと話していた人間の姿が朱音は思わず「翠」とその名を呼んだ。向こうから声をかけてくれたのが嬉しくて翠の手を取ると、彼女は少し恥ずかしそうに顔をそむけた。
「ねえ、翠さ、学習発表会にお母さんとか来る?」
朱音が思い出したように聞けば、翠はいやと首を振った。
「仕事あるから、たぶん来ないんじゃないかな。どうして?」
「うちのママがね、翠と翠のお母さんに会いたがってて――」
話している途中でふと、朱音が足を止めた。下の階の踊り場から声が聞こえてくる。
「本当さあ、むかつくんだよね、朱音。みんなと違うこと言って注目されようっていうのがさあ」
続けてほかのだれかが「あー、わかる」と賛同するのが聞こえる。だれのことを話しているのか分かった瞬間、翠の体が動きそうになったが、朱音がすぐに気づき翠の肩をつかんで止めた。
「あたしはみんなと違うの、みたいなさ……。男子にモテたいのが見え見えっていうか」
朱音は最後まで聞かずに体を向きを変えながら「あっちの階段から帰ろ」と言って翠の手を引いた。ちょっと、と翠が声を上げるのも聞かずに朱音はどんどん歩いていく。翠が何度名前を呼んでも止まらない。
「朱音っ!」
もう一度、強めに呼んで手を引くとようやく止まった。朱音は肩で大きく息を吐くと、大丈夫、と口にした。
「大丈夫じゃないでしょ。…… 私、先生に――」
「やめて」
翠が言い終わる前に、朱音はその申し出を拒んだ。
「女子の間じゃ、よくあることだもん……。いつも男子とばっかりいる翠にはわからないことかもしれないけど」
朱音の声からは余裕のなさがにじみ出ていた。
「あたしだって、その場にいない子の悪口をみんなと一緒になって言ったことあるし」
「私には理解できない」
「しなくてもいい」
このまえ翠が同じようなことを言ったときには説明しろと詰め寄ったくせに、とは思いつつ翠はそっとため息を吐いた。それに気づいているのかいないのか、朱音はふたたび歩き出す。翠はあわてて追いかけて彼女の手をとった。
「…… 変だとだめかな」
「そんなことないよ」
朱音がらしくない声で言ったささやくようなつぶやきに翠がそう返すと、彼女は少しだけ安心したように笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます