第5話

 小学生のころは、同じクラスになったことすらなかった。ただ、隣のクラスに背の高い、男子よりは女子の方に人気がありそうな女子がいるなとは思っていた。

「蒼汰(そうた)、翠に告ったってマジ?」

 あるときふいに友人の女子が言って、朱音は思わず「え、そうなの?」と声を上げた。蒼汰というのは、男子のなかでも大人しめのグループに所属している、ややいじられ体質の男子だった。

「しかも翠、付き合うことにしたらしいよ」

 その情報が落とされた瞬間、その場が一気に沸いた。なんか意外、と女子たちが口々に好き勝手なことを言うなかで、朱音は翠がどんな人物だったか思い出そうとしていた。

 このころはまだ翠とはほとんど話したこともなく、共通の友人もいなかった。一学年で二クラスしかないので顔は知っているが、それくらいだ。なんどか話したことくらいはあるけれど、そもそもこの六年間で同じクラスになったことがなく家の方向も違うのでなかなかゆっくりふたりで話す機会もない。

 翠は当時から背が高く、服装もいわゆるボーイッシュな雰囲気で、少年野球をやっていたこともあってか男子の友人の方が多かったように思う。だからこそ、そんな彼女が男子に告白されたのも、翠がそれを受け入れたのも当時はだれもが意外だと言っていた。

 夏休みが明けて、文化祭の準備がはじまった。それは朱音が三年のころくらいから「学習発表会」とか呼ばれるものになっていて、全学年がステージ上で合奏や合唱、ときにはダンス、朗読などを披露する。六年生はたいていそのときに放送している大河ドラマや朝の連続テレビ小説の主題歌なんかを演奏する。半数以上の生徒がリコーダーや鍵盤ハーモニカを演奏するなか、半分にも満たない人数の生徒は打楽器やらアコーディオンやら―― ある意味特別な楽器を演奏することが許される。今回はめずらしく、オーディション形式で希望者を募って決定した。そのなかでも男子がやることが多い楽器と、女子がやるものと思われているような楽器があって、そのなかでも大太鼓なんかは特に男子がやるイメージが強く、実際これまで上級生たちも大太鼓というと大柄な男子生徒がやることが多かったのだが。

 朱音は、音楽室の隅に置かれた大太鼓の前に立つ翠の姿をじっと見つめた。すると当然、翠がいぶかしげな表情で「なに?」と聞いてくる。

「太鼓楽しい?」

 簡潔に問えば、翠は「わかんない」と少し悩んでから答えた。

「まだ全体で合わせてないし、叩いてるだけだし」

「でも太鼓目立つじゃん、センターだよ」

「木琴も目立つでしょ、ソロあるし」

 うらやむように言うと、そんなふうに返される。それから翠は楽譜に視線を落とす。朱音が持っている木琴パートのそれとはずいぶん違っていた。

「蒼汰と付き合ってるって本当?」

「話の飛躍についていけない」

 翠は軽くあしらうように言ったあと、ちらりと音楽室の外に出ていった教師を見た。

「…… もう別れた」

 ぽつりと言われて、さすがに朱音も言葉を失った。なにも言えずにいる朱音に、翠は続けて言う。

「私が蒼汰の背を越したからね」

 ふうん、と朱音は相づちを打つと、小首をかしげて聞いた。

「蒼汰よりも大きくなっちゃったから振られたってこと?」

「…………」

「じゃあ翠はまだ蒼汰のこと好き?」

「知らない、あんなチビ」

 チビって、と朱音は笑いながら言った。蒼汰の背の順で並んだ時の立ち位置はせいぜい真ん中よりも少し後ろか、後ろから数えた方が早いくらいで、さして小さくもない。実際女子の平均的な身長である朱音よりも大きいので、女子の大半から見ても小さくなどないはずだ。と、そこまで考えた朱音は翠に目をやってふと気づいた。

「今身長いくつなの?」

 翠は鋭い目つきで朱音をにらんでから、「春に測ったときは一六〇もなかった」と口にした。彼女の口ぶりから察するに、そこからまた伸びたのだろう。振られたときのことでも思い出したのか、徐々に険しい顔になっていく翠がおかしくて朱音はくすりと笑った。が、またじろりとにらまれて朱音はあわてて口元を押さえうつむいた。

「でも、みんな意外って言ってたよ。翠が男子と付き合うとは思わなかったって」

 同じクラスの女子たちが言っていたことを伝えると、翠はしばらく黙ったのちゆっくりと口を開いた。

「―― 背の高い女子が好きって言われたから」

「え? それおかしくない?」

 背が高いことを理由に交際を申し入れた人物が、背が高いことを言い訳にして別れを告げる。これほどおかしな話はあるだろうかと思わず眉をひそめた朱音に翠は

「私は蒼汰の気持ちが少しわかる」

と言った。

「木琴叩いたり、ピンクのランドセル背負ってるひとにはわからないだろうけど」

「え?」

 翠の言葉があまりにも唐突で、朱音は首をかしげた。

「木琴? ランドセル? なんの話?」

「べつにわからなくていいよ」

 そう言うと、翠は背を向けてしまった。まるで、もう練習に戻れとでも言うように。

「どうせわからないだろうし」

「ばかにしてるの?」

「してないし、わからなくていいって言った。だれが悪いって話じゃないし、だれが悪いって言いたいわけでもないし…… けど、あなたにはずっとわからないと思う。…… そういう話」

 そうこうしているうちに教師が戻ってきて、朱音は持ち場を戻らざるをえなくなった。そのあと教師の指導を受けながらも、朱音の脳裏には翠の言われたことが張り付いて消えなかった。どうしてあんな、人が怒ったり傷ついたりするような言葉が言えたんだろう。どうせわからない、だなんて、どうしてそんなふうに突き放すようなことを言ったのか。言ってもわからないなら、わかるまで話せばいい。そう思うのは、間違っているんだろうか?

 チャイムが鳴る。次の授業までの短い休み時間を使って各々楽器を片付ける。大太鼓と木琴は、ほかの学年も使うので最後。同級生が順に楽器を片付けていく中、朱音はふたたび翠に近づいていった。

「さっきのどういう意味」

 たずねると翠は不意打ちに驚いたのか「え?」と言ってふりかえってきた。

「木琴とか、ランドセルとか」

 朱音が続けて言えば、翠はようやくわかったのかあからさまに面倒くさそうな顔をした。

「あの話はもういいよ」

「あたしはよくない」

「いいってば!」

 翠が声を張り上げた。いつも落ち着いた雰囲気の彼女がただならない様子で大きな声を出したので、周りにいた同級生たちも驚いてこちらを見ていた。

「あたりまえの顔して木琴のオーディション受けて、合格して、ピンクのランドセル背負って登下校してる人に私の気持ちなんかわかるはずないしわかってほしくもない」

 朱音は言葉を失った。なにも言い返せずにいるとだれかが呼んだのか、もしくは騒ぎを聞きつけてきたのか教師が飛び込んでくる。そのあと、双方教師に事情を聞かれて、結局放課後になっても翠とは話せなかった。


「翠とけんかしたって?」

 翌朝、登校中に佑人が話しかけてきて、朱音は眉根を寄せた。それぞれ後ろには町内の小学生たちで組まれた登校班の下級生たちを引き連れている。班長には横断歩道を渡るときのための黄色い旗が持たされているが朱音の班では出番は一回しかない。

「それ、昨日から百回は聞かれてる」

 うんざりしているといったふうに言えば、佑人は素直にごめんと謝ってきた。佑人は面倒見がよく話しやすいので、必要ないと思ってもついついいろんなことを話してしまう。

「でも、あの翠がけんかになるほど怒ることってめずらしいなと思って」

「仲良いの?」

 二人とも朱音とはべつのクラスだが、佑人が翠と親しげな口ぶりなのが気になって聞くと、佑人は「係が同じで」と答えた。

「ときどき話すんだけど、翠、すごい勉強できるし頭もいいんだよね。回転が速いっていうか…… そうだ、朱音、最近理科が難しいって言ってたじゃん。教えてもらいなよ」

「なんでよ。ていうかあたし嫌われてるっぽいから、たぶん無理」

 佑人の提案に首を振って答えると、彼は「嫌いって言われたの?」と問うてきた。朱音は違うけど、と言いつつ昨日翠に言われたことを思い出す。

「でも、ぜったいそう」

 へえ、と佑人は相づちを打ちとそれから小さく笑い声をもらした。

「嫌い―― じゃないと、俺は思うけど」

 含みのある言い方をしながら、佑人は一方的に別れを告げて朱音のクラスの隣にある教室へ入っていった。

(嫌いじゃないわけ、ないじゃん)

 昨日と同じように合奏の練習の時間が来て音楽室に行くと、翠はいつものところにいなかった。いつもならだれより早く来て太鼓からなにから合奏で使うすべての楽器を出すのを手伝っているというのに。

「翠、今日休みだって」

「―― そうなんだ……」

 ほっとしたような、残念なようなきもちで朱音は練習の準備をはじめた。

 木琴をやるのも、ピンクのランドセルを背負わされるのも大して疑問を持ったことがない。合奏の担当楽器をオーディションで決めるなんて今回がはじめての試みで、親にその話をしてみたところ木琴なんてどうかと言われて、そこまで興味はなかったくせに簡単にその気になった。クラスメイトや友人もいいじゃん、似合うじゃんと応援してくれたし、オーディションでも先生に褒められて悪い気はしなかった。

「朱音、これ」

 放課後、帰宅しようとする直前に廊下で呼び止められる。ふりかえると、佑人が駆け寄ってきてA4大の封筒を差し出した。

「今日金曜だから、翠に宿題とお便り。朱音持っていってやってよ」

「なんで。佑人が持っていけばいいじゃん」

「いや、朱音が持っていくとたぶん翠が喜ぶから」

「そんなわけないじゃん」

 昨日の出来事を思い出して、朱音は渋い顔をした。

「あたし嫌われてるんだよ。こっちだって、あんなこと言ってきた人の家行きたくないし」

 朱音のかたくなな態度が伝わったのか、佑人はなんとも言えない表情で封筒をひっこめた。

「…… 翠はさ、ああいう奴だから。自分のことちょっと変わってるってわかってるし、わかってもらえないことで傷つくのも慣れてるけど……。昨日朱音とは絶対にわかりあえないって思って悲しかったんだと思うよ」

 そう言うと佑人は「ま、いいや」と言ってその身をひるがえした。

「朱音が嫌なら、無理強いしてもしょうがないし、もともと俺が行こうと思ってたから。じゃ、ばいばい」


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