第4話

(二)

 担任と生徒の一対一で行われている個人面談は、五月の連休前から続いていて、この放課後にようやく翠の順番がまわってきたところだった。

「筒井は――、うん、成績に関してはなにも言うことがないな。部活もがんばってるって聞いてるし。逆に筒井から俺に聞きたいことはある?」

「あ…… いや、とくには」

 べつだん後ろめたいことがあるわけではないのだが、翠は目の前に座る担任から視線をわずかに泳がせながら答えた。

「一番仲良い友達は、やっぱ田島?」

「友達……」

 なにげない教師の問いかけに、翠は答えに詰まる。その様子になにか気づいたのか担任は「ああ」と言った。

「彼氏なんだっけ? 聞いてる聞いてる」

 ははは、と軽快に笑いながら言われて、翠は黙った。悪意とか、そんなものが感じられないだけに、なにも言うことができない。担任は手元のファイルに視線を戻し、十日ほど後に控えた定期試験の勉強は早めにはじめておくことと、行きたい高校は今から考えておくようにという話を一方的にして面談を終わらせた。

 一年二組の教室を出ると、翠は廊下から窓の向こうの空を見上げた。日が暮れる時間帯のはずだが、雨が降っているせいでよくわからない。この雨で今日も野球部は屋内トレーニングを余儀なくされている。急いで練習に合流しようと思って廊下を進むと、中央階段から朱音が降りてくるのが見える。

「今面談終わったの?」

「うん。練習に戻るとこ」

「どこの教室でも面談してるから、練習に使える教室なくてさ。今吹部は練習場所難民になってるよ」

 なにそれ、と翠は難民と言う朱音の言葉のチョイスに笑ったつもりだったが、朱音はむっと眉を寄せて「大変なの」と肩をいからせた。ごめん、と素直に謝れば、いいけど、と返ってきてそれよりさと話を変えられる。

「なんか言われた?」

「なんかって」

「あたしたちのこと以外ないでしょ」

 主語のない問いかけに首をひねるとすぐに答えが返ってくる。

「全然。なにも。完全にネタ扱い。本気にしてないよ」

 不満気に言ってみせるも、朱音はおかしそうに笑った。

「まあ、いいじゃん。怒られるよりは」

 じゃあね、と言うと朱音は楽器と楽譜を持って去っていった。

(怒られるって、なに)

 怒られるときというのは、たとえば、悪いことをしたり、間違ったことをしたときであって、自分たちはべつになにも後ろめたいことはしていない――。いや、でも、と、そこまで考えて翠は考え直す。自分たちの関係をだれかや周囲にオープンにするということに対して消極的な態度をとり続けているのはずっと、翠の方なのだ。朱音はそんな自分に付き合ってくれているに過ぎない。

「翠」

 ふいに名前を呼ばれ、翠は我に返った。振り返ると、そこにいた翠よりいくらか背の高い男子は肩で息をつくとわずかに微笑んだ。

「面談、終わった?」

「あ…… はい。さっき」

「じゃあ練習戻ろうか。今ランニング中だから翠も準備して来な」

 彼は言って、また走り出した。彼、黒田啓介(くろだけいすけ)は野球部の部長で、野球部にひとりだけの女子である翠になにかと気を配ってくれている。部長という役割をまっとうしようとしているのだろうか、どの部員にも学年関係なく話しかけている。野球部の風通しの良さは間違いなく彼のおかげである。同じ三年の先輩たちによると、クラスのなかでもそんなふうらしく、同級生たちに親しまれているようだった。


「ふーん、それで?」

 部活動を終えて、玄関でちょうど帰るところに会った朱音は、翠の話を聞くや面白くないとでも言いたげな顔をした。先ほどまで降っていた雨は少しだけ勢いが収まって、小雨と呼べるほどになっている。

「翠、黒田先輩のこと好きなの?」

 朱音の脈絡のない問いかけに、下駄箱から靴を取り出した翠は「は?」と首をかしげた。朱音はどこかふてくされたような顔で話し続ける。

「先輩、吹部でもよく話題になってる。優しくてかっこよくて面白くて、勉強もできてすごいって」

「なんの話……」

 さっさと靴を履きかえて生徒玄関を出た朱音を追いかけようとした翠の肩を、だれかがぽんと叩いた。

「おつかれ」

 顔をあげると、黒田の姿があって翠は居住まいを正した。

「おつかれさまです」

「もうそろそろ暗くなるから、早めに……」

 と、黒田の声が途中で不自然に途切れた。彼はどうしてか、今まさに玄関を出ようとしていた朱音を見つめたまま動かない。

「…… 先輩?」

 突然動作を停止した彼が心配になって翠が声をかけると、ようやく黒田は我に返った。

「あ、いや、帰り、気をつけてな、暗いから」

 彼はさっきと同じことを繰り返すと、駆け足で帰っていった。途中、門のところでつまづくのが見える。…… 大丈夫だろうか? 翠は心配になった。

「どうしたんだろ……。急いでたのにわざわざ声かけてくれたのかな」

「違うと思うけど」

 隣でまた朱音が面白くなさそうな顔をしていたが、翠は気づかない。

「黒田先輩って、小学校のとき委員会とかどこに入ってた? 私全然会うどころか、見かけた記憶もないんだけど」

 黒田はいつもかならず友人たちや同級生と一緒にいてかなり目立つので、まるきり気づかなかっただなんて思えないのだが。そう思って翠が聞くと、朱音が教えてくれる。

「あのひと、中学からこっちに来たんだよ」

「あ、へえ、そうなんだ」

「そんなに気になる?」

 白川拓と一緒だなと思っているとそうたずねられ、翠は不思議そうな顔でまばたきした。

「そりゃ……。すごくいいひとだと思うし、守備もバッティングも上手いから、一年はみんな気になってると思うよ」

「そういう話じゃない」

「なに? どういう話……」

 首をかしげながら先を行く朱音についていくと、もういいとあしらわれる。取り付く島もなくいつもより足早に門へと向かった朱音は、門の近くで聞こえた声に足を止めた。話し声の主たちは歩いてきたのが朱音と翠だと気づくと話すのを中断してこちらを見た。

「なに話してたの?」

「早く帰りなよ。下校時間過ぎてる」

 朱音は人懐こい笑みを浮かべながら首をかしげ、対称的に翠は眉間に皺を寄せながらたしなめた。

「だって、桃香むかつくんだもん」

 緋奈子は言うと、隣にいた女子、藍に向かってねえ、と同意を求めた。彼女たちは門のそばで傘を差したまま、しばらくそうしていたようだった。

「人のことさんざん利用しといてさ、自分が振られたらさっさと別の男のところって、都合よすぎじゃない?」

 藍が否定とも肯定ともつかないあいまいな笑いをもらすなか、緋奈子は桃香の悪口を続けている。そばで翠が苛立ちを募らせているのをひしひしと感じながら、朱音は口を開いた。

「で――、でもさ、佑人は昔から桃香のこと好きだったから、それは良かったよね」

 朱音の言葉に、まあね、とは言いつつも緋奈子は納得いかなそうに鼻を鳴らした。

「それにしたって、こっちはずっと親身になって話聞いてあげたのにさあ……」

「はっ、親身?」

 ついに翠が言って、朱音はぞわりと背筋が震えた。短く吐息で嘲笑するように言ったので緋奈子が眉根を寄せたがかまわず翠は続ける。

「桃香の話一番親身に聞いてたのは佑人でしょ。あんたらは一緒になって騒いでただけじゃん。だいたい利用されてたとか言うけどさ、自分だって白川くんかっこいいって浮かれてたじゃん。おたがいさまなんじゃないの」

「―― なにが言いたいの」

 横で朱音が翠にやめなよ、といさめてくるが翠は聞こえないふりをした。

「利用してたのはそっちなんじゃないの。桃香に付き合って協力してあげてるふりすれば白川くんからもほかの男子からも印象が良くなるもんね」

 図星だったのか、緋奈子の顔がかあっと赤く染まった。

「翠!」

 朱音がふたたび、今度は先ほどよりも強い調子で翠を制した。そこで翠はようやく朱音を横目で見た。そして、ふいと緋奈子たちから目をそらして踵を返した。どうにかこれ以上つっかかるのを踏みとどまってくれたかと朱音がほっとしたのもつかの間、

「さっさと帰って試験勉強したら? 普段授業聞いてないんだから…… まあ、テスト範囲がどこかすらわかってないだろうから大変だと思うけど」

 たたみかけるように言い捨てて行って、朱音は叫びそうになった。どうしてわざわざ相手の神経を逆なでするようなことを言うのか理解できない。朱音はおそるおそる緋奈子の顔色をうかがって翠の代わりに謝ることにする。

「ご――、ごめんね、ほんと、翠が……」

 まったくフォローの言葉が浮かんでこない朱音の前で、緋奈子はさほど気分を害していない様子で「べつにいいけどね」と言って立ち上がった。

「授業全然聞いてないのは本当だし、翠が私に突っかかってくるのはいつものことだし……。私も帰ろうかな。勉強するかどうかはべつとして」

「しなよ。あんた馬鹿なんだから」

「うるさいなあ」

 緋奈子が藍と笑い合っているのを見て、朱音はひとまずほっとした。緋奈子の怒りが再燃しないよう祈りつつ一緒に歩きだすと、前を歩く藍が「それにしてもさあ」と口を開く。

「朱音は大変だよねえ。気難しい彼氏の面倒見てさ」

 すかさず緋奈子がうける、と笑って朱音も笑ってみせる。

「そんなことないよ。あたし翠のこと好きだし、みんなにも翠のいいところもっと知ってほしいもん」

「良妻だ」

 笑いながら指さされて、朱音は頬をひくりと動かした。緋奈子も藍も、それには気づかない。

「…… 緋奈子だってべつに、翠のこと嫌いじゃないんでしょ」

 そう言えば、緋奈子は前を向いたまままあね、と答えた。

「勉強だってわかんないところは聞けばわかるまで教えてくれるし、体育の時だってできない子にできるまで付き合ってるじゃん。なんでもできるのはずるいって思うけど……。ていうかそうだ、朱音だって昔は全然仲良くなんてなかったじゃん」

「あ、私覚えてる」

 緋奈子のそばで藍が思い出したように言った。

「六年のときさあ、なんかふたりけんかしてなかった?」

「してた、してた。そもそもふたり、あんまり仲良くもなかったじゃん。なんでそんなに仲良くなったの?」

 緋奈子が便乗するようにたずねてきて、朱音は返答に困った。そしてどうごまかすべきか考えるかたわら、さっさと帰った翠を恨みつつ、朱音は去年のことを思い出していた。

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