第3話

 そのあとの授業だった。英語のプリントを各自でやっている最中に、なぜか女子を中心としていつもより少し騒がしく感じた。正確には、いつもの騒がしさとは種類の異なる、どこか不穏ともいえるものを感じて、拓はプリントから顔を上げた。一部の女子が、いつかの翠と朱音のように折りたたんだ紙切れを回しているのが見える。でも、それだけだった。男子の、それもこの土地に、このコミュニティに入ってきたばかりの自分が介入できることはないと思った。それでもあとで一応紺野に探りを入れようと思った矢先、授業が終わるとともに拓の目の前にクラスの女子がひとり、立ちはだかった。

「白川くん、桃香ってわかるよね」

 先ほど紺野にされたのに似た問いかけに、拓は言葉を詰まらせた。紺野のおかげでどうにかクラスと部活を知ることができたが、知っているかと言われると微妙だ。第一、拓はまだ彼女の顔すらわからない。

「ねえ、やめようよ、桃香に無断でそういうの……」

 拓が返答に困っていると、朱音が割って入った。が、その姿が余計にかんに障ったらしく、拓の前に立った女子は朱音の方に向き直った。

「そもそも朱音が全然話通してくれないのが悪いんじゃん。桃香はずっと言ってたのに…… どうせ、白川くんが自分のことかわいいって言ってたって聞いて調子乗ってたんでしょ。朱音、いつもうちらのこと見下してるもんね」

「そんなこと……。あたしだって桃香のこと応援したいし、翠に聞いてくれるようにちゃんとお願いしたもん。でも翠が――」

「ちょっと、巻き込まないでって言ったじゃん」

 朱音が弁明するなかで自分の名前が出てきて、面倒に巻き込まれてはたまらないと思ったのか翠が立ち上がった。

「翠が聞いてくれないのが悪いんじゃん」

「私のせいなの?」

 翠と朱音が言い合いになるそばでほかの女子も言い合いをはじめる。もうほとんど責任のなすりつけあいのようだが、拓にはこれがどういう状況なのかわからない。自分が原因らしいのはわかるが、それ以外はさっぱりだ。男子はみな遠巻きになって戸惑ったり面白がったりしている。

「だいたい、告白くらいちまちま探りなんて入れないで本人が直接白川くんに言いにくればいいだけの話でしょ。なにをわざわざ――」

 翠が焦れたように言い放った瞬間、場の空気が凍りついた。だれかが最低、となじる声がして、そこから火がついたように女子たちが口々に翠を責める言葉を口にした。

「ちょっと、ストップ、ストップ!」

 ふいに張り上げられた声に騒ぎが止んだのは、それが男子の声だったからだ。

「一旦落ち着けって。当事者がいないのに騒いだってしょうがないし、白川くんだって困ってるじゃん」

 ほら、と紺野は言って、彼女たちの視線をうながした。クラスのほとんどの人間の視線が集まるなか、朱音が拓を見つめながら素直に「ごめん」と謝罪した。それに感化されたのか、最初に拓に話しかけた女子が朱音と同じように「わたしもごめん」と謝った。

「でもこれだけ聞かせて。白川くん、朱音のこと好きなの?」

 ちょっと、と横から朱音がとがめるように言うが、彼女は撤回せず拓の返答を待った。

「…… そういう意味で言ったんじゃないよ」

「じゃあ、好きな人はいる? いないんだったら……」

「いる」

 続けて問いかけられ、思わず拓が答えた途端教室内がふたたびざわめいた。

「だれ? 前にいた学校のひと?」

 あとから思えば、ここでそうだと肯定するなり、彼女らの知らない人間の名前をでっちあげるなりすればよかったと思うのだが、このときはそこまで頭が回らず、いったいなにを思ったか、拓の唇はよりによって真実を口にした。

「紺野くん」

 教室内のざわめきが止まった。紺野の「え?」という声が教室のなかでいやに響いた。その声は、拓の答えに対するものというよりはまるで、そもそも拓の発した言葉が質問の答えであるということにすら気づいていないようだった。それは教室のなかにいる人々にとっても同じことで、紺野をふくめ、彼らが拓の言ったひとことを理解するにはしばらくの時間を要した。本当は、ほんの数秒かそれ以下の時間だったかもしれないが。けれども拓には、それが何十秒にも、あるいは永遠に続くかのようにすら感じられた。

 それを打ち破ったのは授業開始を知らせるチャイムと、それとともに教室に入ってきた教師の声だった。彼女が授業をはじめる旨と、生徒らに席に着くよう指示すると彼らは各々の席へと散っていった。

 学級委員が授業開始の号令を口にして、授業がはじまった。周囲が慌てて机やかばんから教科書やノート、辞書などを出すのが見える。拓自身もそうして授業を受ける準備をせねばと頭ではわかっているのだが、どういうわけか頭のなかと外、脳みそと手がばらばらになってしまったようにうまく動いてくれない。

 みんなが自分を見ているような気がして、指先が震えた。ひそひそと交わされる言葉が自分のことであるように聞こえる。この教室にいるだれもが、自分を奇異の目で見ているような気さえした。

「あっ……」

 下敷きに教科書、ノート、ノートに挟んだプリント類が次々と床に落ちた。あわてて伸ばした手がペンケースにぶつかって、中身が床に飛び散る。拾わなければと思うのに体が動かず中途半端に腰を浮かせたまま近くにいたものが拾って差し出してくれるのをぼんやり見つめる羽目になる。

「先生。白川くん、具合が悪そうです」

 自信の机のそばまで滑ってきた下敷きを拾い上げながら翠が言った。教師は手元の教科書をめくる手を止めて、「あら、本当?」と首をかしげた。

「たしかに、少し顔色が悪いわね。だれか、保健室に連れていってあげてくれる?」

 教師が教室のなかを見回すと、何人かが目をそらした。翠が「私、一緒に行きます」と言った。

「大丈夫? 歩ける? 保健室、すぐそこだから……」

「いいよ、べつに。途中までで」

 廊下に出て、保健室がある方向を指し示しながら言う翠をさえぎるように拓は言った。

「筒井さんも嫌でしょ。筒井さん、優しいから気にしてくれてたのかもしれないけど…… 正直、気持ち悪いでしょ。おかしいと思うでしょ? いくら授業で習っててもさ。俺は自分以外でこういう人間に会ったことがないし、自分でも自分のことを変だと思うよ。それが、俺に対する正常な反応だよ」

 拓は言うだけ言って口を閉ざした。そのまま保健室へ足を進めると、後ろから声がかかる。

「嫌だなんて思わないよ。変でもないし」

 拓はふりかえることができずに、背中で翠の声を聞いた。

「…… 白川くんさ、私と同じで本読むふりして周りのことよく見てるんだと思ってたけど、全然見てないんだね。…… みんなとは言わないけど、心配してるひともたくさんいたよ。―― ここまででいい? 保健室、そこのつきあたりだから」

 授業に戻るね、と言って翠は廊下を戻っていった。彼女が言ってしまうと、廊下が急に広くなったような気がした。広く長い廊下を見ていると、見知らぬ土地で迷子になってしまったような不安がどっと押し寄せてくるようだった。

 保健室に入ると、すぐに養護教諭がベッドを使わせてくれた。拓は横になると、毛布をかぶって目を閉じた。いくらなんでも卑怯だった。翠が―― 翠と朱音がそうだとわかっていて、あえてあんなことを言った。そんなことないよ、と言ってほしかったのかもしれない。きっと彼女を傷つけた。今度こそ、もう二度と話しかけてなどくれないだろう。紺野も、もう仲良くはしてくれない。気がつけばうとうととまどろんでいた。保健室のドアが開いて、控えめに抑えた声で失礼します、と言うのが聞こえた。拓は目を覚ました。

「ほら、桃香。先生いないから、今のうち」

 確かに紺野の声だった。拓は体を起こす。

 だめだ。いやだ。会いたくない。そんなわけにはいかない。

 自分の意思とはうらはらに、体は勝手に立ち上がり、声の方へと向かう。カーテンを開ける。

 紺野がいた。彼はすぐに気づいてそばにいた女子の腕を引いた。そうしてはじめて、拓は彼女に気がついた。彼女が桃香だろうか。彼女は緊張した面持ちで、拓を見るとぱあっと顔を赤らめた。

「あ―― あの、ごめんなさい。あの私知らなくて、緋奈子(ひなこ)たちが……」

「ごめん」

 彼女の姿を見ていると、自分の胸の内からすうっとなにかが引いていくような感じがした。

「俺、好きな人がいるから…… もういいかな。まだ気分悪くて」

 彼女の話をさえぎるようにそう言ったあと、カーテンを閉めようとして心配そうにこちらを見つめていた紺野と目が合う。彼はなにか言いたげに口を開きかけたが、拓は無視してカーテンを閉め切った。カーテンの向こうから駆け足で保健室を出ていく音がする。それから「桃香」と呼び止めようとする紺野の声がし、一旦は彼女を追って去ろうとした足音がためらいがちにこちらへ戻った。

「…… 面倒に巻き込んじゃってごめん。みんな悪気があったわけじゃないから…… 桃香も、純粋に白川くんのことが好きなだけだから、許してやって」

 足音が遠ざかっていく。拓はふたたびベッドに体を沈めた。

 ―― ああ。なんか。…… なんか。

 馬鹿みたいだ。自分ばかりが必死になって。紺野は拓のことを気にもしていなかった。彼は、もっとほかのことで頭がいっぱいだった。

 もう一度目を覚ますと体にも毛布がかかっていた。カーテンの外に出ると養護教諭に昼食は食べられるかと問われた。食欲がないと言ったら体温を測らされ、ありがたくも微熱があったため早退することにした。教室にかばんを取りに行く途中、廊下にたむろしている男子に出くわす。

「桃香、振られたって?」

「もったいねえ」

 桃香かわいいのに、などと交わしながら廊下の隅に溜まっているのは、同じクラスの男子たちだ。

「なあ、さっきのさ、佑人が好きって、マジかな?」

「え? あれってそれに対する答えなの?」

 だれかの問いかけにだれかが疑問形で返した。拓が身をこわばらせる間もなく、「それよりさ」と話題が移る。

「緋奈子たちなだめて、そんで桃香のこともなぐさめてさ、あいつめちゃくちゃ偉いよな」

 感心するように言っただれかに、また別のだれかが「なに言ってんだよ」と口にした。

「そんなん桃香が好きだからに決まってんじゃん。桃香、白川くんのこと入学式で見たときからかっこいいって言ってたしさ。なんだかんだずっとその話聞いてやってたの佑人だし」

「じゃあ、白川くんと仲良くしてたのも桃香のためだったのかな?」

「それはわかんないけどさ……」

 そばを通り過ぎようとする拓に気づいたのか、彼らの話す声が止まった。自分のうわさ話や陰口に対して知らないふりをするのは慣れているのでとくにどうも思わない。と、だれかの「あ」という声が聞こえて、拓はうつむきがちに歩いていた顔を上げた。だれかの、ではない。拓の顔が上がったのはまぎれもなくそれが、彼の声だったからである。

 紺野はちょうど教室の入り口に立っていた。

「大丈夫? 具合……」

「ちょっと熱っぽいから、早退することにしたよ。今日は五限までだし。よれよりさ、さっきはごめんね。気分が悪くて素っ気ない態度取っちゃって…… さっきのひとにも謝りに行かないと」

「そんなの、桃香だってたぶんわかってるし、気にしてないと思うよ。具合悪いってわかってるところに行かせたの俺だし」

 俺こそごめん、と謝る姿がまるで、桃香をかばっているように思えて、拓は奥歯をかみしめた。一刻も早くこの場から去りたいと思った。

「…… あと俺、変なこと……。…… 好きな人の名前言うのが恥ずかしくてさ、とっさに紺野くんの名前出しちゃった」

 あえて周りに聞こえるように言えば、紺野は短く笑い声をこぼした。その声が、目の前から立っているはずの彼から聞こえたはずのその声が、どこか遠い場所から聞こえた気がして拓は悲しくなった。拓の内心をおそらくは知らないまま、紺野は言った。

「そうなんじゃないかと思った。大丈夫、そんなことくらいみんなもきっとわかってるし、だれも気にしてないと思うから」

「…… うん」

 ありがとう、と言って拓は荷物を抱えると教室を去った。お大事に、と投げかけられた言葉がどうにも他人行儀で、拓の胸の内を寂しくさせた。

 保健室に戻ると、入り口の近くで翠が待っていた。

「今様子見に来たら早退するって先生が言ってたから……。ごめん、さっきは少し言い過ぎた」

 入り口からすぐのところにあるソファの背もたれをなでたりさすったりしながら、翠は居心地悪そうにしていたので、拓は「そんなことないよ」と口にした。

「筒井さんの言ったとおりだったよ。だれも俺の言ったことなんか本気にしてなかった」

「そういう意味で言ったんじゃ――」

 翠はあわてて、なかば食いつくように否定しようとしたが、途中で口を閉ざした。それから少し視線を下げて、迷うようにふたたび口を開く。

「気休めになんか、ならないかもしれないけど。…… 佑人と桃香は家も近くて、習い事も一緒だったから、小学校入る前からずっと家族ぐるみで仲良いんだよ。だから……」

「うん。ありがとう」

 積み重ねられていく翠の言葉を拓は礼を言ってさえぎった。

「今ので諦めがついた。つまり、俺が入る余地なんかはじめからなかったってことだ」

「そ……」

 そんなことない、と言いかけた翠の口は、なにか思い直したのか最後まで言い切ることなくふたたび閉ざされた。同級生のそんな様子を見ながら拓は言った。

「もう一回、聞いてもいいかな」

 翠の視線が上がる。

「筒井さんは、田島さんと付き合ってるの?」

「…………」

 翠は答えない。拓は質問を変えた。

「田島さんのこと好き?」

「………… うん」

 ためらうような、わずかな沈黙のあとに肯定する答えが返ってきて、拓はいつのまにか力んでいた自身の顔の緊張をほどいた。

「そうだと思った」

 そのときちょうど、養護教諭が戻ってきて母親が迎えに来た旨を告げた。拓は翠に答えてくれてありがとう、と礼を言ってから玄関へと向かった。

 翠はその後ろ姿を、たったひとりで見つめていた。

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