第2話
透明な水と混ざり合って薄くなった絵の具の色が、ごぼごぼと音をたてて排水溝に吸い込まれていく。拓は昼休み中のことを思い出しては、後悔の色が多分に混じったため息をこぼした。
いくら気になったとしても、いや百歩譲って聞くとしてもあの聞き方はなかった。なぜもっと慎重になれなかったのだろう。向こうはこちらに話しかけたりと興味を示してくれていたのだから、もう少し親しくなってからでもよかったはずだ。今更悔やんでも仕方がないが、もう話しかけてくれないかもしれないなと思いながら拓は丁寧に筆を洗った。たまにはデッサン以外をと三年生が提案してくれて今日は絵の具を使った活動をしたが、拓は絵の具を使うのはどうも苦手だった。見たままを描けばいいデッサンだったりクロッキーとは違って、色を使うとなるとそうはいかない。見たままの色を作るのはそう簡単ではないうえに、その色を作れたとしても見たままの色を塗ったんでは絵全体が沈んだ空気になってしまったりする。反対に明るくしてみようとすれば全体がぼやけて切れのない絵になってしまったこともある。
パレットを洗い終わったところで尿意をもよおしたのでトイレに入った。ちょうど用を足して個室から出ようとしたそのとき、どこかから声が聞こえてくる。
「―― いいじゃん、ちょっと聞くくらい」
女子の声だ。
聞こえているのはどうやら隣の女子トイレではなく、男子トイレの上の方にある窓からのようだった。どこにつながっているのかはよくわからない。だが、たぶん校舎の裏手の、畑や花壇のあたりではないかと思う。
「ちょっと聞くくらいと思うんなら、朱音が聞いてあげたらいいでしょ」
「あたしが突然こんなこと聞いたら変じゃん。あたしより翠の方が白川くんと仲良いんだから聞いてきてくれたっていいでしょ」
だれが、なんの話をしているのかがすぐにわかって拓はだれに見られているわけでもないのに、なぜか緊張するように体がこわばった。
「そんなこと聞くために仲良くしてたんじゃないし……。だいたい、そんなに知りたいなら桃香が自分で聞けばいいのに」
「なんでそんなこと言うの? ひとこと聞くだけじゃん」
「やだって」
どうやら桃香という人物が自分になにか聞きたいことがあるらしいのはわかった。ただ問題なのは、拓自身がその人物を知らないということである。同じクラスなのか、はたまた隣のクラスなのか、それすらもわからない。とはいえ、彼女に関しては明日教室にある座席表を見ればわかる。この学年は二クラスしかないので、拓が在籍する一年二組の座席表にその名がなければ必然的に彼女は隣のクラスということになる。
「せっかく仲良くなれそうなのに、変なこと聞きたくないし」
「…… べつに仲良くなんてならなくてもいいじゃん」
少しの沈黙のあと、朱音のどこか拗ねたような声が聞こえて、それを翠は「なに言ってるの」とあしらった。
「そもそも朱音が先に白川くんに話しかけてみたらって言ったくせに。言ってることがめちゃくちゃだよ」
「言ったけど……」
翠がふうっと疲れの混じった吐息を漏らすのが聞こえる。
「とにかく私は絶対そんなこと白川くんに聞いたりしないから。ほかのだれかに頼むなり、桃香に自分で聞きに行かせるなり、私を巻き込まないでそっちでどうにかして。―― もう、困るよ。こっちが相談に乗ってほしいくらいなのに」
困り果てたような声に、朱音が顔色を変えて「なにかあったの?」と問いかける。翠は迷いつつ言った。
「白川くんが、私は朱音のなんなの、だって」
今度の沈黙はさっきよりも長かった。不安のあまりその場を立ち去ろうか去るまいか悩んでいる拓をよそに、朱音が口を開いた。
「付き合ってますってちゃんと言った?」
「言うわけないでしょ」
なかば冗談を言うような朱音の言葉を一蹴して翠がため息を吐くと、朱音は眉根を寄せた。
「なんで」
「なんでって…… ていうか私、朱音に付き合おうとかそういうの、言われてないし」
「なにそれ」
朱音の声は、さっきまでとは違ってどことなく余裕があって、むしろ機嫌が良いようにすら聞こえる。
「そんなこと言ったら翠だってあたしのこと好きって言ってくれないじゃん」
「…………」
「藍(あい)の彼氏はいつも好きだよって言ってくれるんだって。知ってる? 岡高の」
「…… 私高校生じゃないし―― ちょっと、やめて」
なにやらやりとりが続いているが、音しか聞こえない拓には具体的になにが起きているのか、その全貌がわかりにくい。ざり、とどちらかが、あるいは両方が土を踏みしめる音がした。同時に、翠が抑えぎみの、しかしきっぱりした声でなにかを拒んで声を上げる。
「学校で…… 家の外でそういうことしたくない」
「けち」
「けちじゃない」
「なんでそんなに恥ずかしがるの?」
「恥ずかしいんじゃない」
嫌なだけ、と翠が言いきったところで下校時間を知らせるチャイムが鳴る。ふたたび靴が地面と擦れる音がする。
「さっきの話、もう私のところに持ってこないでよ。何回言われても私は聞かないから」
「けち」
今度は否定しなかった。拓には聞こえないほどの小声でやりとりを交わしながら、二人分の足音が遠ざかっていく。拓はトイレを出た。
………… 果たしてこれは、自分が聞いてもいい会話だったのだろうか? 本を読むふりをしてこっそり眺めていたときなんかの比じゃないくらいの後ろめたさに襲われながら、拓は多目的教室に戻った。
今日から体育は跳び箱だった。女子は体育館の半分を使ってマット運動をしている。マットを二枚つなげて長い一本にして、向かって右端から前転、後転、開脚前転…… と習得したい技ごとに分かれて練習をしている。男子の方も同じで、列の後ろの方では生徒が溜まっておしゃべりをしていた。
ぼんやり女子のマット運動を見ながら自分の番を待っていると、ふとこちらをみて何事かひそひそと話し合っていた女子たちと目が合う。…… 昨日、翠と朱音が話していた件だろうか。もしかしてあのなかに例の、「桃香」という女子がいるのか? あいにくと今朝は寝坊してしまってチャイムが鳴るぎりぎりの登校だったし、二時間目がこの体育だったので着替えに時間を取られてまだ名簿は確認できていない。まあ、あのなかに「桃香」がいたとして、体育は二クラス合同だから結局どれが「桃香」なのかはわからないままなのは変わらないのだが。それでも見ていればわかるのかもと思い見つめていると、「どうかした?」と紺野が気づいて声をかけてくる。拓は「いや、なんでも」と否定したあとに思いついて、言った。
「男子はなんとか覚えられそうなんだけど、女子の顔と名前がなかなか一致しないなと思ってさ」
それを聞いた紺野は少し笑って、
「でも、翠と朱音はわかるでしょ?」
と聞いた。拓は「それは、うん。まあ」とうなずき、当人たちへ視線をずらす。翠はちょうど、きれいに技を決めて注目を浴びているところだった。翠は列の最後尾に戻って、そこで待っていた朱音と何か話している。相変わらず距離が近い。会話しか聞こえなかったが、昨日はずいぶん険悪な雰囲気で話し合っていたというのに今は親しげだ。
「白川くんさ、桃香ってわかる?」
すっかり思考があのふたりのところへ行っていたときにたずねられ、拓は現実に引き戻された。
「一組でさ、テニス部で、白川くんと同じ図書委員らしいんだけど」
こちらで情報を集めた方がいいかとすら思っていた人間の情報が、思わぬところから入ってきた。だがまさか、同じ委員会だったとは。委員会の集まりで二度三度顔を合わせているはずなのに、どういうわけか影もかたちも覚えていない。拓はごめん、と申し訳なさと自分に対する情けなさを感じつつ謝った。
「あまり、覚えてはいないんだけど……。そのひと、俺に対してなにか言ってた?」
「あ、なんだ。知ってんのか」
「いや知らない、知らないけど、風のうわさでこう…… 俺に話があるとかなんとか」
われながらひどいごまかし方だと思ったが、紺野はうまくごまかされてくれたようだった。昨日たまたま盗み聞きのようになってしまったことは話さない方がいいだろうかと思いつつ、拓はその内容を思い出していた。…… まるで、俗にいう痴話げんかみたいな……。でも、翠は自分に、彼氏ではないと言った……。
「や、なんか桃香がさ――」
紺野がなにか言いかけたそのとき、ちょうどチャイムが鳴った。彼は一旦開きかけた口を閉じ、教師の指示にしたがって跳び箱やらマットやらを片しはじめた。拓も周りの様子を見ながら同級生たちと協力して片付けをした。
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