翠と朱音
水越ユタカ
第1話
(一)
この中学校の、一年二組には公認のカップルがいる。いったい誰の公認であるのかは知らないが、仲のいい女子二人だ。
白川拓(しらかわたく)は、自身の席から通路を挟んで斜め前の席に座る女子・筒井翠(つついみどり)と、そこから一人の男子を間に置いて前に座る女子・田島朱音(たじまあかね)を順に見た。今は国語の時間で、一人ずつ教科書の文章を読み上げている。田島朱音の声はよく通るはきはきとした声で、漢字の読み間違いさえなければ完璧だった。読み終えた彼女は座りながら教壇に立つ教師の目を盗んで、なにか小さな紙切れを後ろに渡す。渡された男子は教師の方を気にしながらもなにげないしぐさでそれを後ろに送った。
拓は親の転勤でこの町にやってきた。以前住んでいた横浜に比べると随分な田舎で、コンビニひとつ探すのも苦労するようなところだ。ちょうど進学するタイミングでやってきたこの中学校も、すぐ近くにある小学校から持ち上がりで入ってきた人間がほとんどで、すっかりコミュニティができあがってしまっている。
べつにいいけど、と思いつつ授業終了のあいさつとともに教室をあとにした教師を横目に、次の授業の準備をする。と、手元が狂って下敷きが床に落ちる。軽さのせいかわずかに空気の抵抗を受けながら地面をすべったそれは、斜め前の机へとぶつかる。その机に座っていた人物はすぐにこちらをふりかえって下敷きを拾い上げた。
「はい」
ありがとう、と礼を言うと筒井翠はそのまま話しかけてきた。
「次の授業、なんだっけ?」
「社会科」
教えてやればそうだった、と机の中から教科書を出そうとする背中に、「さっき、手紙まわしてたよね?」と問いかける。
「手紙でなんの話してたの?」
問いかけに対し、翠は眉尻を下げて困ったように言いよどんだ。
「内緒ー」
そこへ、朱音がやってきて翠の肩に後ろから手を回しながら言った。
「内緒だって」
ごめんね、と翠は言うと朱音の方に向き直ってふたりで話しはじめてしまった。あのふたりはああしてよくくっついてひそひそと話しては時折笑い合っている。
翠の笑い方は良く言えば大人しく控えめで、悪く言えばあまり楽しそうに見えない。
反対に朱音の方は、同じ歳の女子の間でよく見かける判を押したような笑い方で悪く言ってしまえば少しわざとらしい。
「白川くん、彼氏と何話してたの?」
小学校から変わらない顔ぶれの中、名字で呼ばれているのは拓のほかには数人しかいない。拓は横から話しかけてきた男子の問いには答えず、反対に
「彼氏って何?」
と聞き返す。彼はその質問を待っていたとでもいうようににやっと笑って周りと視線を交わした。そして声のトーンを彼女らに聞こえないように落とすと、翠の方を指さして「彼氏」。続いて朱音の方を指さして「彼女」と言った。拓がそれでもまだ首をかしげていると別の男子が口を出す。
「あいつらいつも一緒にいるしさ、翠は男子より背も高くて格好良いからって、誰かが言い出したんだよ」
「いや、本人が最初に言ったんだよ」
「六年の時の担任が言ったんじゃん?」
どうもいくつかの情報が入り乱れているようで、結局その時は事実がわからずじまいだった。…… そもそも、拓の求めているような事実はないのかもしれないが。
部活は美術部に入った。活動している部の数が想像していたよりもはるかに少なくて悩んでいたところ、同じクラスの男子に誘われたのと、担任に勧められたのもあって入部を決めた。年度初めはまだ応募できるコンクールや大会がないようで、デッサンやクロッキーなど基本的なことばかりしている。
美術部にあてがわれているのはどうしてか美術室ではなく、一階の隅にある多目的教室で、顧問も美術科の教師ではない。
教室の窓には後付けの耐震工事がされていて、斜めに鉄筋がかかっている。窓を開けるのに絶妙に邪魔な位置にあって、窓を開けるたびに指をはさみそうになる。拓が窓を開けると、ちょうど野球部がグラウンドに出てくるところだった。
そのなかに筒井翠の姿を認める。背が高く、同級生たちから頭ひとつぶんほど飛び出していたのですぐにわかった。彼女のショートカットの髪はぎりぎり女の子らしいと呼ばれるかどうかという長さで、帽子の下からはみ出しているのが見えた。拓は自分のクロッキー帳を窓際の席で開いた。美術部の部員数はやっと存続できるという人数しかおらず、たった数人しかいない部員が広い教室に散らばっていた。教室のなかには、紙の上を鉛筆が滑る音と、時おり交わされる短い会話が聞こえるだけだった。
女子テニス部の高い声と一緒に、野球部の低いかけ声が聞こえはじめた。そのなかでふと聞こえた声に、拓は顔を上げた。
高くもない、低くもない、どの定型にも当てはまらない彼女の声が、拓にはグラウンド上でひときわ輝いているかのように思えた。
守備練習中なのかレフト側で中腰になった翠が、一所懸命に声を張り上げているのが見える。カンと耳に響く音を立てて白球が空を走る。翠がグローブをはめた手を伸ばす姿に、拓はああ、なるほどと思った。長い手足はしなやかに、かつバランスよく体から伸びていて、見ていてほれぼれするようだった。「彼氏」というのは蔑称などでなく、彼女のこの造形的な美しさを指してのことなんだろうか?
ほかの部よりもわずかに早く終わった部活動の後片付けをして多目的教室を出ると、ちょうど近くの教室から吹奏楽部が出てくるところだった。楽器やパートごとに分かれて練習をしているらしく、教室の外にも音が漏れている。
「白川くん、佑人(ゆうと)、ばいばい」
拓の知らない楽器を持って出てきた田島朱音は、拓を見るとにこっと人懐こく笑って手を振ってきた。隣にいた同じ美術部の紺野佑人(こんのゆうと)がばいばい、とあいさつを返すと、ほかの部員たちと一緒に音楽室へ帰っていった。
「田島さんって」
ぼんやりと朱音が去っていった方を見つめてつぶやくと紺野がこちらを見ていたので、拓はあわてて目を逸らした。
「感じのいい人だよね。明るくて。クラスのみんなと仲が良くて……」
初めて声をかけてくれたのも朱音だった。拓の言葉に紺野は「たしかに」とうなずいた。
「朱音は小学校のときからあんな感じだよ。だれにでも人懐こく声かけてさ。壁がないっていうのかな。…… ほら、翠もさ、あんまり社交的な感じじゃないし休み時間も一人でいることが多いからクラスで少し浮いたりもしてたんだけど、朱音が熱心に話しかけてさ。翠も嫌がってないし。あいつがああやってつるむのは朱音だけだね」
俺の知っている限りはと付け足された説明を聞いて、拓はへえと相づちを打った。そして紺野の顔を見ながら、
「田島さん、かわいいよね。モテるでしょ?」
と言った。紺野は「いやー、どうだろう」と言いつつ首をひねる。
「俺、ていうかみんなそうだと思うけどちっちゃいときから一緒だからわからないな……。あいつ、あんまり他校にも知り合いいないみたいだし、そういうのも聞いたことないよ」
そんなふうに言ってから、紺野は「あ、でも」と思い出したように声を上げた。
「六年のときだっけな。修学旅行で他校の人に声かけられてた…… ような……」
「紺野くんも田島さんのことかわいいと思う?」
拓がたずねると紺野はまさかと言って笑った。
「さっきも言ったけど、俺なんてそれこそ幼稚園から一緒だから、今更そんなこと思わないよ。それに、もし思ってても、ほら、朱音には『彼氏』がいるじゃん」
紺野が冗談を言う調子で言ったので、拓は笑った。
田島朱音の「彼氏」たる彼女は、今日も美しかった。女子が甲高い声を上げながらおしゃべりしたり、男子がじゃれあっているなか、翠だけは静かに自分の席で本を開いていた。授業の予習をしているときもある。
拓も似たような過ごし方をしているが、これが翠がやっているとなかなかどうして、絵になるのである。ときおり朱音が話しかけにやってくる。とはいっても、見ている限りは朱音が一方的に話すだけで、翠は読書や予習を続けていることの方が多い。
よくもまあ一方的にあれだけ話すことがあるものだと思って本を読むふりをしながらこっそり見つめていると、ふと翠の顔が上がった。翠はついと自身の手を持ち上げて、指先で朱音の前髪の乱れた部分を直してからまた手元の本に戻った。
どきりとした。なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような。そんな気がして拓はふたりから視線を外した。それでもやっぱり気になって目をやれば、朱音が嬉しそうな、かつ楽しそうな笑みを浮かべている。なんなのだろう。ずっと見ているのは相手に失礼だとは思いつつもどうしても気になって、気づけば目で追っている。
昼休みになると紺野はクラスの男子たちと体育館に行ってしまった。図書室の開け放った窓から体育館で遊ぶ生徒たちの声が聞こえてくる。紺野の声は、たぶん聞こえない。図書室のカウンターで本を読みながら、ときどきぼんやりして時間が過ぎるのを待っていると、がたんと音がした。
「あれ、ひとり?」
ふりかえれば、図書室の建てつけの悪いドアが開いた音だとわかる。翠は図書室のなかを見渡しながらそう言って、首をかしげた。ひとりかというのは、本来図書委員が各クラスから男女各一人ずつ、つまり学年で四人選出されていて、学年ごとに週交替で昼休みの当番を受け持つことになっているからだ。今週は一年の担当で、今日の割り当ては男子。必ず毎日二人ずついるはずの図書委員なのに、今この場にいるのが拓ひとりであることに対する問いかけだった。拓がうなずくと、翠はドアにストッパーをかませながら「もう一人はだれだっけ?」と聞いてくる。拓は困った。一応初めの委員会の集まりでひととおり自己紹介はしたものの、クラスの人間の顔と名前もまだ一致していないうえに、もともと人の名前を覚えることに苦痛を覚える拓は、自身の相方の名前をすっかり忘れてしまっていた。拓は彼の姿を思い出しながら口を開く。
「えーっと…… 眼鏡かけてて、背が少し低めの……」
拓のあいまいな説明に翠が「青木かな?」と首をかしげる。
「あいつ絶対に忘れてるな……。―― おっと」
話しているあいだに再度閉まりそうになったドアを押さえて、翠はもう一度しっかりとドアストッパーを差し込んだ。そして、ドアを恨めしそうに見上げながら
「このドア、直してくれないかな」
とだれにともなく口にした。拓が少しかたいよね、と同意しつつ言うと、翠はまったくだというようにうなずいた。
「下の方に力を入れないといけないから、力の弱い、特に女子なんかだとなかなか開けられないんだよね」
「…… 筒井さんも女子でしょ?」
まるで自分はそうでないかのような言い方だったのでたずねると、翠は少し眉を下げて笑った。
「彼氏、なんて呼ばれてるやつのことなんか、だれも女扱いしないよ」
そういう彼女の表情は、なんとなく悲しそうだ。
「…… 彼氏なの?」
入学してひと月半、ずっと疑問だったことを聞けば、翠は少しだけ驚いたような顔をして、それからいやと否定した。
「彼氏ではないよ」
「―― じゃあ」
拓が続けて問いかけようとしたとき、翠が拓の読んでいる本を指して「それ、読んでるの?」と聞いてきた。
「どこまで読んだ?」
「あ、まだ読み始めたばっかりで」
「神父出てきた?」
「えっと…… 今、ちょうど脱獄したところ」
読み途中であるアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を閉じたり開いたりしながら、拓は答えた。と、そのとき、窓の向こう側から教師がだれかを大声で叱りとばすような声が聞こえてきて、拓と翠はそろって顔を上げた。「だれが怒られてるんだろう」と窓から体育館の方へと身を乗り出した翠は、数秒と待たずにその体を戻した。
「雨降ってきたかも」
「え? ―― あ、本当だ」
彼女の言葉に首をかしげたのとほぼ同時に小さな雨粒が窓ガラスに追突して弾けた。窓を閉めた方がいいだろうかと考えた一瞬のすきに雨の勢いが強くなる。拓は翠と、あわてて図書室の窓を閉めていった。
「…… 筒井さんて」
急いで閉めたせいですっかり疲れた様子で息をつく翠を見ながら、拓は言った。
「田島さんの、彼氏じゃないんだよね?」
「…… 彼氏では、ないよ」
拓の問いかけに、翠はもう一度さっきと同じ言葉を拓に告げた。昼休みの終わりをしらせるチャイムが鳴り響く。次は移動教室だから、早く図書室を閉めて、鍵を職員室に返してこなければいけないのだが、彼はどうしてもその問いかけを止められなかった。
「それなら、筒井さんは田島さんのなんなの?」
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