第12話


 翠と紫は生徒玄関でおたがいの顔を見るや、あ、とそろって声を上げた。先日のことがあるので一瞬気まずい雰囲気が漂ったが、なにぶん帰る場所が同じなのでそれぞれいつも通りをよそおって、一緒に校門を出た。一緒に帰っているとぎりぎりいえるような、そうでもないような距離で帰途についているとふと、紫が口を開く。

「授業中キレたんだって?」

「なんで知ってんの」

「竹田とかが話してた。一年のだれかがこっちまで回したんじゃない」

「盗み聞きですか。趣味悪い」

「趣味悪いのはわざわざこっちまで話を回しに来たあんたのクラスメイトでしょ。八つ当たりしないでくんない」

 そもそも普段から明るくにこやかにやりとりを交わしたことなどないが、日ごろの会話に険悪さなどみじんもなかった。

「一緒に帰る友達いないの」

「それはおたがいさまだし私の交友関係はあんたには関係ない」

 苛立ちを姉にぶつける翠に紫はすっぱりと言い返し、「ていうか」と斜め後ろを歩いていた妹をふりかえる。

「そういえばこのまえ黒田くんが、あんたとあんたの好きな子のこと聞いてきたけど」

「ああ…… あの人、朱音のこと好きなんだって」

 思ったよりもさらりとした翠の態度に、紫は「それだけ?」とたずねる。

「部活の先輩でしょ?」

「本当にね」

 翠がなにかを思い出したようにいらだった声を出すが、それは姉に向けられたものではない。

「朱音が私と付き合ってること先輩にばらしたから、先輩とも気まずい。どうせけんかの腹いせだと思うけど。…… 先輩、いい人なのに」

 妹の言葉に、紫は「いい人ね」とつぶやいた。

「本当にそう思ってる?」

「…… どういう意味」

「黒田くんはその子が好きなんでしょ? だったら、仲良くなるためにいつも一緒にいて自分と部活も同じあんたに近づいて優しくして、外堀から埋めようとしてたのかもしれないじゃん」

「な……」

 姉の言葉を聞くや、翠はあからさまに憤慨したような様子を見せた。

「そんな…… そんなわけないじゃん。先輩はそんな人じゃないし、部活で女子が私だけで肩身が狭いと思って気を遣ってくれてて、それで……」

 それだけだ。それしか知らない。黒田にとって翠は部活の後輩に過ぎなくて、それすらもたぶん彼の姿のほんの、ほんの一部にすら満たない少しの部分でしかきっとなくて。

 先輩が本当はどんなひとなのか、翠はまったく知らない。

「じゃあね」

「…… どっか寄っていくの」

「ノートなくなったから、買ってくる」

 道の途中で方向転換した姉に問いかければ、彼女はそれだけ言って翠とは別の道を歩いていった。


 空の家を見ると、いつも自分の家とは真逆だなと思う。空の家に限った話じゃなく、古い木造建築でない、引き戸以外のドアが玄関に取り付けられている家にはそう思う。

(…… 空は)

 自分を利用していたのだろうか、と紫は思った。空がそうだと知ったときから考えていたことだ。空がそんな器用なやつじゃないのはわかっているけれど自分といるせいでクラスメイトたちから勘違いを受けたのは事実だし。それにもしそうだとして、なんとなく傷ついたような気もするがべつにそれでもいいような気もする。よくわからない。

 紫はドアの前に立つとインターホンを押した。はい、と空の母親らしき女性の声が聞こえてくる。

「あの、空さんと同じクラスの筒井です。空さんに授業のプリントを届けに来ました」

 要件を伝えるとすぐにドアが開いた。空の母親はとくに変わった様子などはなく、自然に紫を迎え入れてくれたように見えた。どうぞ、とうながされて二階に上がってすぐのところにある彼の部屋の前まで行った。母親は紫を部屋の前まで案内するとすぐに下がってしまった。

 紫は空の部屋のドアの前に立って、ごくりと息をのんだ。まるで、目の前のドアが何十センチもある分厚い鉄扉のように感じる。ひとつ息を吐いて、おそるおそるドアをノックする。返事はない。

「…… 空、私。授業のプリント持ってきた」

 しばらく待つが、やはり返事はない。

「空、学校に来て。…… 空はなにも悪いことをしてないのに、空だけが学校に来られないのは私はおかしいと思う。たしかに、空がいないあいだもひどいこというやつがいたけど、…… 空に直接、言ってくるやつもいるかもしれないけど、そういうときは私が――」

 守るから、と言いかけて彼に伝えたい気持ちと違うような気がして、紫は言いよどむ。少し思案して、そして、ふたたび口を開く。

「私が絶対にそばにいるから、空も負けないで。私は空のことが大好きだから、そんなことに空が屈するなんておかしいし悔しいと思ってる。…… これ、プリント、ドアの前に置いておくから。明日からテストだから、来ないと後からめんどくさいよ」

 がらにもない言葉を放ったことで急に襲ってきた恥ずかしさを隠すように、手にしたプリントを床に置きながら紫は言った。

「あと、これも……。絶対テスト勉強うまくいってないと思ったから、教科ごとに要点まとめてある。私なりにまとめただけだから、わかりにくいかもしれないけど……」

 返事や空が出てくるような気配がないので、紫はルーズリーフの束をプリントに重ねて置いてから田島家をあとにすることにした。階段を降りている途中で、玄関のドアが開いた。

「あ、こ…… こんばんは」

 空にそっくりだったので、すぐにわかった。空の父親だ。あわててあいさつをすると、

「空の友達?」

とたずねられる。紫ははい、とうなずきながら、

「休んでいるときの、授業のプリントを届けに……」

と説明した。父親はそうかと言うと、なにか言いたそうに何度か口を開いたり閉じたりする。

「その…… 空は男のアイドルが好きみたいなんだが、どうしてか知っているかな? 学校で流行っているとか…… もしくは君も好きとか」

「いや、べつに……」

 紫は否定しようとして、思い出す。アイドルが好きなのを、父親がよく思っていないとか、なんとか。

「…… 私は好きではないですけど、そういうのが好きな空は好きです。いちばん楽しそうで、その話をしている空はいきいきしてるので」

 それだけ言うと紫は田島家を出た。


 紫は夜に近い時間になってから帰ってきて、母に叱られていた。

「…………」

 その晩、翠は試験勉強をしながらふと、となりの部屋をふりかえった。勉強机のちょうど真後ろには先日紫と言葉を交わしたふすまがある。紫の部屋と翠の部屋は続き間で、ふすまを開け放つとひとつの部屋になる。翠は勉強机のキャスター付き椅子に座ったままごろごろと音を立ててふすまの前まで転がっていった。

「勝手に開けないでよ」

 なんの予告もなくふすまを開けると畳の上に寝転がった姉が眉間にしわをよせてにらみつけてきた。

「勉強してないじゃん」

「忙しいの」

「ひまそうじゃん。…… ねえ、なんで今日帰り遅かったの?」

 たずねると、紫は翠に背を向けた状態のまま起き上がって、

「ノート買いに行くって言ったじゃん」と口にした。

「ノートなんかそこの商店街で買えるじゃん」

「ほしいやつがなくてスーパーまで行ってたの」

「いやスーパーの方が品数少ないでしょ……」

 疑問に思う部分はあったが、深くは突っ込まないでおくことにする。

「用がないなら閉めて」と鋭い口調で言われて、翠はあわてて口を開く。

「このまえさ、紫、私に傷つくよって言ったじゃん」

「…… うん」

「あと黒田先輩に利用されてるんじゃないかって」

 紫はひとつうなずいただけでなにか反応を返してくることはなく、黙ったまま変わらず後ろを向いている。聞いているのかと問いかけたくなるのをぐっとおさえて翠は続ける。

「…… もしかしたら、そうなのかもしれないと思って……。そうだったら、どうしたらいいのかなって……」

 黒田の気持ちに全然気がつかなくて、あんなタイミングでようやく気づいて……。それだけじゃない。気づいて、黒田や朱音と向き合おうとしないでなあなあにことを済ませようとして。

「気まずいなら、もう話さなければいいんじゃない」

 姉が非情にもきっぱりと言った。

「…… それはやだ……」

「じゃあどうしたいの、あんたは」

 紫の手は問題集のページをぱらぱらとめくっている。

「…… 黒田先輩のことは尊敬してるし、また前みたいに話しかけてくれたらすごく嬉しい、けど……。私は朱音のことも大好きだから、どっちかを選ぶなんてことできない」

「選ぶ?」

 翠の言葉に、紫が首をひねる。

「どっちか選ばないといけないの?」

「そりゃ…… そうでしょ。先輩はだって、朱音が好きだし――」

「いや、だから。好きだからなに? あんたたちが別れたら黒田くんはその子と付き合えるの?」

「あ……」

 そんなはずはないだろうと言外に言われ、翠ははっとした。

「だったら、自分の思うようにしたら。―― 私はそうする」

 そう言う姉の背中には強い決意のような、覚悟のような、そんなものが見えた気がした。


 定期試験の日の朝、紫は空の家のそばにある、いつも空が出てくる曲がり角に立っていた。およそ十分ほど、そこから空の家の窓を見上げていたが、やがてあきらめたように息を吐き立ち去ろうとした。そのとき、紫の背後でがちゃんとドアの開く音がして思わずふりかえる。

「…… おはよう。…… あと、ごめん」

 空は紫と目が合うと、気まずいような、後ろめたいような顔をしてからはにかみつつ口を開いた。

「昨日紫がくれた、あのまとめたやつとか、途中で飽きて全部見てない」

 なにを言われるか一瞬身構えた紫だったが、空の言葉にほっと詰めていた息を吐いた。

「…… いや、見ろよ」

「本当だよね」

 学校に近づくにつれ、登校中の生徒の数が増えてくる。そのなかには同じクラスの生徒が何人もいて、空のことをちらちらと見てくる者もいる。正確には、空と紫のことを。

「大丈夫だよ」

 紫がどう声をかけるか迷っているうちに、空が言った。

「紫がいるって言ってくれたから、俺は大丈夫」

 前を向いてはっきりと言う空の横顔を紫はじっと見つめた。

「…… テストは?」

「…… あんまり大丈夫じゃない」

 ふたりはそろって噴き出した。ふたりは笑い合いながら、並んで道を進んでいった。

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