とある船乗りの話

 いくつかの本のタイトルを紙に書き写す作業を終えると、神父様は教会に戻ると言って立ち上がった。


「あなたはどうしますか? 戻るのなら家まで送ります」

「ううん。まだ、ここにいたい」

「……そうですか。暗くなる前には、帰りなさい」


 優しい声に頷いて神父様を見送る。カソック姿が見えなくなってから、私は再度魔女の家に入っていった。魔女の特等席に座り、先ほど貰った本を広げる。


 数ページも読まない内に、ギイと扉の開く音がした。慌ててそちらを見れば、屈強な体つきの男が同じく驚いたようにこちらを見ていた。


「ラウレッタじゃねえか」

「オノフリオ……」

「今日は一人か? 弟は?」

「置いてきた。泣くから」

「なるほどな」


 強面の顔をくしゃっと歪めると、オノフリオは入り口に一番近いソファーに腰を下ろした。勢いよく座るものだから、古いソファーはギシリと悲鳴を上げている。この座り方を、魔女はいつも「壊れる」と不機嫌そうに注意していた。その声も、もう聞こえない。


 オノフリオはこの港町に拠点を置く商船の船乗りだった。魔女の家を訪ねる数少ない人のひとりで、彼と私はここで知り合った。海の男らしく、言葉遣いは荒々しいけれど、決して乱暴者ではない。海での冒険譚を話してくれるから、弟もよく懐いていた。


「シルヴィオとすれ違ったが、あいつもここに居たのか?」

「シルヴィオ?」

「ああ、神父サマだよ。ガキにゃそっちの方がわかりがいいか」


 神父様の名前はシルヴィオというのか。私がこくこくと頷くと、オノフリオはまたしてもくしゃっと顔を歪めた。本人はこれで笑っているらしい。


「私、神父様の名前も、あの人の名前も知らなかった。オノフリオは、あの人の名前、知ってたの?」

「……エルダさんのことか」

「そっか。私だけなんだね」

「子どもはそんなもんだろ」


 ソファーに深く腰掛けて、オノフリオはぐっと天井を見つめた。日に焼けた喉元が少しだけ震えている。


「オノフリオも、エルダのことを愛していたの?」


 ぴくりと逞しい肩が揺れる。


「みーんな、あの人のことを愛していたよ。あの人は、懐にいれた奴にゃあとびきり優しいんだ。そのくせ、愛情が深いから、誰のことも愛してくれない。俺ァな、ちゃぁんと告白したんだぜ」

「フラれた?」

「もちろん。あの人はずっと、あいつのところに行く日を待ってたんだからな」

「あいつ?」

「……俺の兄貴」


 オノフリオの緑色の目が私を射抜く。こちらに体を向けて、彼は静かに語り出した。エルダと自分の兄が恋仲だったこと。二人が一緒に造船所を営んでいたこと。ある日、兄が海難事故で亡くなったこと。それを探して海に出た際に、エルダは顔に怪我を負ったこと。それからずっと、エルダはこの家でひとり、兄を連れ去った日と同じ潮の流れを待っていること。


「兄貴を流した波は、何十年に一度っていう確率でくる珍しい流れなんだ。いつもの流れと違うから、死体も上がってこなかった。きっと、エルダさんは兄貴と同じところに行きたかったんだろうな。海の底で、兄貴がずっと自分を待ってるんだって言ってたよ」

「それで、昨日……?」

「ああ。いっちまったんだよ」


 ふと、潮騒の音が聞こえた気がした。窓の外を見れば、恐ろしいほどに美しい海が広がっている。そうか、だから、ここは彼女の特等席だったのか。


「そうだ、ラウレッタ。お前にこれやるよ」


 テーブルの上に置かれたのは、青い宝石の嵌められた銀色の髪飾りだった。どうして、私に? 首を傾げると、オノフリオはからからと豪快に笑う。


「エルダさんにやろうと思って、何十年も持ってたんだよ。お前にやる」

「いいの?」

「いいさ。ありがとうな、ラウレッタ。エルダさんの話を聞いてくれてよ」

「……ありがとう、オノフリオ」


 くしゃりと男は顔を歪める。今度はきっと、泣きそうになるのを堪えているのだろう。

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