とある神父の話

 ニコロは二、三言だけ他愛のない話をしてから帰っていった。とぼとぼと歩く姿は弱々しくて、私はその後を追う気にはなれなかったから、しばらく魔女の家で時間をつぶすことにした。


 魔女の家に鍵はかかっていない。いつだって開きっぱなしだ。だから、私と弟はいつも無遠慮にこの扉を開いて、嫌そうに顔を歪める彼女を訪ねていた。「帰れ」と言う癖に、彼女はいつもおいしいクッキーとお茶を出してくれたから、私たちはますます調子にのって入り浸っていた。


 軋む扉をゆっくりと開く。嗅ぎなれた魔女の家の匂いがする。干し草と古い紙と、少しだけ潮風の匂いがする家。今は追い出そうとする声と、甘く香ばしい香りが足りないけれど。


「エルダ……」


 先ほど貰ったばかりのペンダントを握りしめる。エルダ。それはきっと、魔女の名前だ。


 私はあの優しい魔女の名前を、彼女が死んでから初めて知ったのだ。


「――ここで、何をしているのですか?」


 突然響いた声に振り返る。そこには訝しそうにこちらを伺うカソック姿の男がいた。


 男は私に気づくと、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。


「ラウレッタ?」

「神父様……」


 よく聞けば聞きなれた声だ。私はほっと息を吐いて神父様の元へ向かう。彼は町外れにある小さな教会の神父だった。


「人の住居に勝手に入ってはいけません。例え、今は廃墟だとしても」

「うん。ごめんなさい、神父様」

「わかればよろしい。それに、あなたは彼女と仲が良かったから、そうしたい気持ちはわかりますよ」


 神父様は私の肩をポンと叩くと、ゆっくりと魔女の家に入っていった。勝手に入ってはいけないのではなかったか。私がその背中を見つめていると、彼はこちらを振り返って手招きをしてくれた。


 おずおずとその横に並んで一緒に家へ入っていく。入ってすぐに広がるリビングダイニングには、大きなテーブルが一つと一人がけのソファーが三つ。一番奥の窓際のソファーは魔女の特等席で、彼女はいつもそこで本を読んだり、海を見たりしていた。テーブルの上や床には、本棚に収まりきらない書籍が何十冊も積まれている。


 床に平積みされている本を一冊持ち上げ、ぱらぱらとめくりながら神父様は微笑んだ。


「自分が死んだら遺品整理を頼むと、彼女に頼まれていたんです。まあ、遺品と言っても書籍しかありませんが」

「ここの本はどうなるの?」

「彼女の希望どおりに行けば、隣町の図書館に寄付することになるでしょう。ここには貴重な書籍がいくつもありますから」

「そっか……」


 ふと、私と弟がよく読んでいた物語が目に入る。無意識のうちに手に取ると、神父様が「どうしましたか?」と覗き込んできた。


「これ、よく弟と一緒に読んでたの。ここの挿絵の魔女が、あの人にそっくりだったから」


 指差したページには、くらげと共に海をたゆたう魔女の姿が描かれていた。銀色の髪に蒼い瞳の、美しい海の魔女。そっくりだと伝えれば、彼女は「どこが似てるってんだい」と忌々しそうに顔を歪めていた。


 魔女は自分の容姿が話題に上がるのを嫌っていた。それはきっと、彼女の顔半分が醜い傷痕に覆われていたからだろう。それを隠すように、彼女は長く伸ばした銀髪で顔の右半分を覆い隠していた。それでも時折ちらちらと覗く傷痕に、子どもはもちろん、大人でさえも怯えていた。


 私は残った左半分の美しさが好きだったけれど。


 神父様は挿絵をしばらくの間じっと見つめていると、唐突に一つだけ涙を落した。本の上、ちょうど挿絵の魔女の上に落ちた雫は、じわりと紙の色を濃くして消えていく。


 あまりに突然のことに、私は何も言葉を発することができなかった。その間に瞬きをして、彼は何事もなかったかのように目を細める。


「……そうですか。なら、この本はあなたが持って行きなさい」

「いいの?」

「その方が、エルダも喜びますよ」


 言いながら神父様は私の手をとり、静かに口づけを落とした。


「ありがとう、ラウレッタ。彼女の美しさに気づいてくれて」

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