第9話 私は
今日は来れないであろう葵さんに代わろうと傘を閉じ、いつもより早く竹山家具の戸を開ける。それでも、普段から葵さんよりは早いのだが。
「おじさーん。葵さんの様子どうでしたかー?」
暖簾を潜ってやってくるおじさんは、こっちに来いと言わんばかりに手招きする。何も発さないのが少し不気味だった。
それに従うようについていくと、葵さんが待っていた。
「葵さん?もう帰れたんですか?」
「うん、まあ大したことはなかったから」
「その、大丈夫でしたか?」
「...うん。なんともないって」
そう返事をする葵さんは、ただ目の前に揺れる茶を見つめ、顔を合わせてはくれなかった。
おじさんは私を連れてくるなり役目を終えたかのように普段行かない、いつもお茶や将棋をしている部屋のさらに奥へと消えていった。
葵さんは顔を上げないままいつものようにさっさと机に向かうと、いつもより大きな音を立てて教科書とノートを広げる。私もついていって、隣で読みかけの本を広げる。言葉が美しく難しく、登場人物の感情を理解するのにも時間がかかる本だった。
でもしばらくせずに集中が切れたのか、葵さんはまるで犬が怒られるのを警戒しているかのような目でちらちらと視線を送ってくる。分からないところがあったのかと思うとそうでもないらしく、こちらが振り向くと目を戻す。結局今日はずっと様子が変だった。私もあまり読書に集中できなかった。おじさんも奥の部屋から一向に出てこなかった。
少し変な、もやもやした嫌な予感のようなものがよぎっていく。でもきっと大丈夫、そういうものが当たったことはないし、葵さんも大丈夫だと言っていた。そう自分に言い聞かせ続けた。
やがて下校する学生の声が落ち着き、雨を跳ねる車の音だけが目立つようになると、葵さんは早めに教科書を閉じる。今日は一つも問題を聞いてこなかった。
堪えきれず、唇を湿らせて、
「これから読書ですか?意外ですね、一つも分からないところがなかったなんて」
「ん?ああ、簡単なところをひたすらやっていたから」
やはり目を合わせくれない。昨日のことを気にしているのだろうか。私だって、気になることはある。
『竹おじさんから色々聞いたんだ』『あの時のこと...お礼をしにきてくれたんだよね』
あの言葉がずっと残っている。聞きたくても、言葉が喉のそこまできても、勇気は出なかった。
「鈴さん」
「ハイッ!!!」
葵さんは落ち着いた声で声をかけてくれたが、考え事をしていたせいかびっくりして小学生の出席確認のような返事になってしまった。
「な、なんでしょう?」
恥ずかしさからか顔が熱くなっていくのを感じた。でも葵さんはあまりそのことを気にしていない様子で、
「今度、一週間以内に旅に出たいんだけど、一緒にいかない?」
...え?
あまりに真剣な顔で言うものだから動揺を抑えきれなかった。
このことを伝えるために緊張していたから今日は顔を合わせてくれなかったのかもしれない。
葵さんはそんな性格ではないと知りながら、余計な希望に縋ってしまう自分が情けない。
「随分とまた...急ですね。その、大丈夫なんですか?身体とか...」
「大丈夫だって。激しく動くわけでもないし」
私自身は一向に構わなかった。葵さんにもそのように伝えた。奥の部屋に首を伸ばしてもやはりおじさんは出てこない。今日は色々と変だった。
「じゃあそう言うことで、今日のところは一旦僕帰るから」
そう言うと葵さんはこの時間には必ず読んでいたはずの読書もせずにそそくさと出て行ってしまった。私以外誰もいなくなった家具屋には虚無と違和感だけが残った。
読みかけの本を再度開く。ついさっきまで読んでいたところの記憶がまるでない。仕方なく2、3ページ戻してから文字を追い始めた。
月が遠くのビルの間に見えるようになると、私もおじさんの家具屋を後にする。近くのコンビニに寄って、帰る先は一泊三千円のビジネスホテルだった。本当の家にはまだ帰る気にはなれなかった。
電気をつけてベットの中に飛び込むと、部屋に置いたままにしていたスマホが着信を知らせる。お母さんからだった。静かに切ると、メッセージを書き込む。
『私は無事ですが、まだ帰る気にはなれません。学校側には欠席のままにしていてください』
送信。履歴を確認すると今日だけで15件の着信があった。直後、またスマホが震え出す。今度は電源を切って、バックの中へと放り投げた。
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