第5話 勉強会
今日はさらに早く帰ることにした。
水溜りが膝まで跳ねるほどに足を早めて。
だが、それもすぐにやめた。
「あーあ、前ならもっと思い切り走れたのに」
そうボソッと呟くと、傘をくるくる回しながら歩いた。
「竹おじさーん、いるー?」
いつもならすぐにやってくる竹おじさんはなぜか来ない。
机に腰を下ろそうとすると、雨音に紛れて奥の部屋から話し声が聞こえた。
「竹おじさん?」
部屋を確認しに行くと。
「あ、葵さん。先上がらせてもらってます」
どういう状況だ、これは。
液体のように横のちゃぶ台の上に顎を乗せて脱力した、言ってみれば萎えた様子の竹おじさんと、なんとも楽しそうに体を揺らしている鈴島さんがいた。
そして二人の前には将棋盤が置かれ、おじさん側は王しか駒がなくなっている。
「アオちゃんごめん。凛ちゃんバケモンだわ...老人会最強の俺を飛車角落ちでこれだぜ」
「バ、バケモン!?ひどくないですかちょっと」
まあおじさんが負けるのは分かるとして。
「鈴島さん、来るの早すぎない...?」
「えーっと、はい。すみません........やります?将棋」
「負けるからいいかな」
「じゃあ俺やるー!今度こそ本気出すし。勝っちゃうぞー、勝っちゃうもんねー!」うるさい。
めんどうくさくなって、一度その場を離れた。
竹おじさんの発狂が遠くも近くに聞こえる中、急須に茶葉とお湯を入れ、用意した三つの湯呑みに注いでいく。自分の物にのみ二、三粒の氷を入れ、二人のところへ戻る。
するとまるでタイムスリップしたかのように同じ状況になっていた。
液体化した竹おじさんと、最後の一手をどう詰めるか悩む鈴島さん。
「お茶入れたから」
ちゃぶ台に湯呑みをコトンと置く。将棋とお茶と雨。なんとも風流だ。
「ありがとうございます。はい、じゃあ詰み」
「ぎゃああああ!俺の駒ちゃんたちがああああ!」
丁寧にお茶を冷ます鈴島さんの横で、ただ竹おじさんは発狂を繰り返す。先程の雰囲気を返してほしい。
「すみません、遅くなって」
少しして鈴島さんが僕の、小さな机にやってくる。
あれから竹おじさんが粘り続け、3回ほどやっていたがどれも秒殺されていた。だからそれほど時間は経っていなかった。
「大丈夫。どれからやる?」
「じゃあ苦手そうな数学から教えますね。私も間違えたところはあるのでそこはカバーしながらやりましょ」
勉強会とは言ったが、自分が分からなくなったら教えを乞う自己申告制にしたため、僕はいつもの机で、鈴島さんは少し離れた大きめの食卓の上で黙々と集中していた。忘れてはならないのが、ここは家具屋で、いずれも売り物ということだ。
「鈴島さん。ここなんだけど」
鈴島さんの教えは分かりやすいもので、優しい家庭教師といった感じだった。
それに反して彼女自身のミスは簡単なものが多く、こちらが手伝うまでも無い。ほとんど付きっきりで僕の隣にいたと言っていい。カバーとは一体なんだったのか。
「次は国語ですね。何か間違えないおすすめの方法ありますか?」
「読書だね。僕は国語の勉強は意味調べぐらいしかしないし」
実際、国語に関しては勉強らしい勉強をしたことが無かった。読書に支障が出なければいいと言うのが僕の考えで、必要なことといえば意味調べと漢字の読み方調べだけだ。そしてそれらは次にその単語が出てきてもいいように物語と関連付けて暗記する。それだけだ。
「では、おすすめの本は?」
「それなら」
竹おじさんがディスプレイとして置いていた本棚の中からいくつか取り出す。もちろん、何年か前に許可は取っているから大丈夫だ。たぶん。
「わあ、意外と分厚い。300ページぐらいですか」
「すぐだよ。じゃあ、残りは読書タイムってことで。分からない言葉は僕に聞くか辞書で調べるいいよ」
鈴島さんはあまり読書の経験がないのか、最初はスローペースだったものの、次第に目を輝かせ始め、ページをめくる速度を早めていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます