五 奈津実の中の憂鬱

 いつの頃からか奈津実の中には、どこかに鬱々としたものがあることに気がついていた。それがなんであるのかは、奈津実自身にも分からなかった。

 それは山本に向けられたものなのか、それとも自分に対するものなのかさえ、本人である奈津実にも理解できないものであった。

 いつから、そんなものが自分の中に芽生えたのか、何が原因でそんなものを意識するようになったのか、まったく見当もつかないことであった。

『やっぱり、あのおじいさんに云われたことが、原因なのかしら…』

 ふと、奈津実はそんなことを思い出していた。それは、あの恵比須神社の祭りの時に、山本も誰も見ていないと言っていた、占い師の老人のことであった。

『そうだわ…。あのおじいさんから、「お嬢さん。あなたの未来には、素晴らしい人生が約束されております。ただ残念なことは、あなたには生涯子供に恵まれないということです…」って、云われたのよ…。もし、あのおじいさんが恵比須神社の神さまで、あたしのことを哀れんで教えてくれたのだとしたら、大変だわ…。こうしちゃいられないわ…』

 何を思ったのか、奈津実は慌てたように山本に電話をして、公園に来るようにと呼びだした。

 当の電話をもらった山本は、何ごとかあったのかと急いで公園に出掛けて行った。

 公園にくると、奈津実はベンチに掛けて待っていた。心なしかどことなく寂しげな雰囲気を漂わせていた。

「どうしたんだ。奈津実…、いきなり公園に来いなんて、何かあったのかぁ…」

 山本は奈津実の横に腰を下ろした。

「あたし…、あたしは…、徹さんのお嫁さんになんかなれないわ。あたしには徹さんの子供を産めないかも知れないんだもの…。だから、お嫁になんてなれない…。だから…、もうあたしのことなんて忘れてちょうだい…。さよなら…」

 奈津実は、そういうと帰ろうとして立ち上がった。

「ちょっと待てよ。奈津実…」

 山本は立ち去ろうとする、奈津実の腕を掴まえると自分のほうを向かせた。

「奈津実。お前…、まだあんなことを気にしていたのか…。

 オレはな。子供がほしいから、お前を嫁にしようとしたんじゃないぞ。ただお前が好きだから、子供の頃からお前のことを好きだったから…。コイツとなら、一生を共にできると思ったから、嫁にしようと決めていたんだ。それなのに…」

「ごめんなさい。徹さん…、いまはそんなことを云っているけど、あたしは本当に子供が産めないかも知れないのよ…。それでもあなたは平気なの…」

「ああ、平気だよ。そんなもの…、オレは奈津実さえいてくれたら、それで充分なんだから、それだけでいんだからよ…」

「ごめんなさい…。お願いだから、もうあたしのことなんて忘れてちょうだい…。さようなら…」

 奈津実は、そういうと振り向きもしないで走り去って行った。山本はもう追いかけることもしないで、ひとりで公園のベンチに座っていた。

「……………」

 身動きひとつしないで座っていた山本も、やがてゆっくりと立ち上がった。

『よし、もう一度だけ恥を忍んで、耕平ンとこのおばさんに相談してみよう…』

 山本は自分の母親に言ってみたところで、どうせヘラヘラと笑われるだけだと思ったからだった。その点で、亜紀子はどんな些細なことでも、いつも真面目に聞いてくれていた。

「こんにちは…、ごめんください」

 佐々木家に着くと、いつものように玄関の戸を開けた。

「あら、徹ちゃん、いらっしゃい。耕平なら、いまいないわよ」

「いや、いいんです。今日はおばさんに相談したことがあって来たんです…」

「あら、何かしら…。まあ、上ってちょうだい」

 亜紀子は山本を居間に通すと、台所に行ってお茶の用意をして戻ってきた。

「何かしら…、あたしに相談したいことって…」

茶碗にお茶を注ぎながら亜紀子が訊いた。

「はあ、実は奈津実のことなんですが…」

「あら、奈津実ちゃんがどうかしたの…」

「つい、さっきなんですが、奈津実に公園まで来てほしいって、呼び出されたんですよ。それで、オレも何だろうと思って行ってみたら、いきなり『あたしのことは忘れてちょうだい』の一点張りで、オレの云うことなんてろくすっぼ聞いてもくれないで、さよならって帰っちゃったんですよ。オレ、どうすればいいんですか、おばさん…」

「まだ、そんなことで悩んでいたのかしら、奈津実ちゃん…。

 でも、変ねぇ…。あたしも徹ちゃんも耕平も、誰ひとりそんな占い師のおじいさん見ていないのに…。いくら多感な年頃の奈津実ちゃんでも、あたしたちに見えないものが奈津実ちゃんにだけ、見えるはずもないものねぇ…。

 それで徹ちゃんはどうしてほしいの…。おばさんに」

「あの時のオレは、あんまりいきなり云われたもんで、少し動揺していて自分で考えていたことの、何分の一も云えないでいるうちに、奈津実が帰っちゃってどうしようもなくなって、おばさんに相談してみようと思って来たんです。おばさん…、オレ…、どうしたらいいんですか…」

 山本は藁をも掴む思いで亜紀子の顔を見つめた。

「実はね。あたしもキャンプの晩に、耕平も徹ちゃんも寝静まってから、虫の音を聞いている時に相談を受けたのよ」

「それで、奈津実のヤツはどんなことを云ってました…」

「奈津実ちゃんね…。その白いひげを生やしたおじいさんのことを、やっぱり恵比須神社の神さまだったんじゃないかと云ってたわ。それで神さまが人間の姿を借りて、自分に何かを教えようとしたんじゃないとも云ってた。

だから、これからは神さまに云われたとおり、ただひたすら生きてみるって云ってたから、あたしも云ってあげたの…。人を恨んだり妬んだりして生きるよりも、そのほうがよほど気が楽だか知れないわよってね…。いいわ、徹ちゃん。おばさんができるだけ早い時期に、奈津実ちゃんの正直な気持ちを聞いてあげるわ」

「ホントですか。おばさん…、ありがとうございます…」

山本は、頭を卓袱台に擦りつけるようにして礼を言った。

「でもね。徹ちゃん、いまの話の様子からだと奈津実ちゃんも、相当思い詰めているみたいだし、あたしもうまく話はしてみるつもりだけど、どうしても結婚はできないと云われたら、あなたどうするつもりなの…」

「その時は…、その時はオレも結婚なんかしないで、一生独身を通すと伝えてください。それじゃ、オレ帰ります。さよなら…」

 山本もかなり思い詰めている様子で帰って行った。

「まあ…、徹ちゃんもずいぶんと生一本な子だこと…」

山本とひと足違いで耕平が帰ってきた。

「ただいま…。 あれ、こんなところに立って何してるの。母さん…」

「それがね。耕平…、いま徹ちゃんがきて帰ったばかりなんだよ」

「へぇ、何しに来たんだい。いま頃、アイツ…」

 居間に向かいながら、耕平が亜紀子に訊いた。

「それがね。奈津実ちゃんから電話がかかってきて、公園まで来てほしいと云われて、徹ちゃんが急いで行ってみたら、奈津実ちゃんに『あたし徹さんのお嫁になれないわ。あたしは子供が産めないかも知れない…。お願いだからあたしのことは忘れてちょうだい…』って云って、逃げるように帰ってしまったそうよ…」

「なんだ…。あいつら、まだそんなことで騒いでいるのか…」

「だから、あたしもこの前みたいに泣かれると困るから、あたしが責任をもって奈津実ちゃんの、本当の気持ちを聞いてあげるわ。って云ったら、徹ちゃんも納得したのかどうかは解らないけど、お願いしますって帰って行ったわ」

「母さん。いいから、ほっときなよ…。どうせ、『犬も喰わない』ってやつなんだろう…」

「そうも云ってられないでしょう。それに、徹ちゃん『もし、奈津実と結婚できなかったら、オレは一生独身を通します…』なんていうから、あたしも余計心配になってしまったのよ…」

「ふーん…、アイツらホントに仲いいからなぁ…。でも、ほっときなよ。母さん、いつものことなんだからさ…」

「いいえ、そうも云っていられないわよ。今回は徹ちゃん奈津実ちゃんの一生が、掛かっていることなんですからね。

 今日の今日では、奈津実ちゃんもばつが悪いでしょうから、明日にでもさっそく聞いてみることにするわ…」

「やれ、やれ…、母さんもホントに世話好きなんだから、ほっとけばいいのにさ…」

 耕平は、いつものことながら亜紀子の、困っている人がいたら見てはいられないという、おせっかい焼きに呆れたように言った。

 翌日になると、亜紀子は家の用事を済ませると、奈津実の家に電話をかけていた。  

 そして、どこで逢う約束をしたのかは分からないが、いそいそとどこかに出掛けて行った。

耕平は、そんなことは別に気にもしなかったが、山本にも一応は知らせておこうと思い立ち、前に借りていた本を片手に山本宅へと向かった。

一方、山本は書きかけになっている原稿を、完成させようと机えに向かっていたが、どうしても奈津実のことが頭にこびり付いて、自分が思ったようにはペンが進まなかった。

それで、ますますクサクサしているところに耕平が訪ねてきた。

山本自身は、昨日耕平の母親に奈津実のことを頼んできた手前、あまり耕平とは顔を合わせたくはなかったが、そこは持ち前の負けん気の強さを前面に出して、何もなかったように振舞おうと思っていた。

しかし、現実は山本が考えているほど甘くはなかった。それも耕平のひと言で、もろくも崩れ去ってしまっていた。

「山本、おふくろから聞いたぞ。お前どうして、うちのおふくろなんかに話す前に、オレにひと言相談してくれなかったんだよ。もしかしたら、何か力になれたかも知れないのにさ…。水くさいヤツだよなぁ。山本も…」

「こ、耕平…。お前ぜんぶ聞いたのか…」

「ああね聞いたよ。うちののおふくろはな。困っている人がいると、黙っては見ていられない質なんだ。いま頃は、奈津実ちゃんと話をしてる頃だぜ」

「そ、そうかぁ…。おばさん…、ホントに奈津実に逢いに行ってくれたんだ…」

「奈津実ちゃんは優しい人だから、真面目に話を聞いてくれると思うよ。でも、あれで根はしっかりしている人だ。いったん口に出したことを、そう簡単に引っ込めてくれるかどうかだろうな…」

「お、脅かすなよ。耕平…」

「いや、脅しじゃないかも知れないぞ…。ああは見えても奈津実ちゃんはお前と同じで、〝思い込んだら命がけ〟ってところがあるからな。もしもそうなったら、お前も奈津実ちゃんのことを諦めて、独身を一生つらぬき通すんだな…」

「ちぇ、何だい、何だい。他人のことだと思って簡単に言いやがって…。どうせお前みたいな、彼女いない歴十七年のヤツにわかってたまるか…」

「おお…、云ったな。山本、人が心配して教えにきてやったのに、そういうことを云うんだな…。オレは帰るぞ…」

そういうと、頭にきた耕平は山本家から帰って行った。

部屋に残された山本は、またひとりで悶悶としていた。山本には、まだ女という生き物のことを理解できていなかった。女が子供を産めないと言われた時、どれだけ大きなショックを受けるのか男である山本には、まして十七歳の高校生の山本には、到底わかる術(すべ)もないとこだったのだろう。

『何なんだい…。オレは一遍だって子供が欲しいなんて云ってないぞ…。オレは子供の頃から奈津実が好きで、大人になったらコイツを嫁にもらうんだって、決めていただけじゃないか。オレが子供を産めないヤツはダメだなんて、一回でも云ったことがあるか…。

 それなのに、同志位そんなことばかりみんな気にしてんだよ。そんなものはオレにすれば、クソ喰らえって云うんだよ。バカヤロー…』

 山本は心の中で絶叫していた。

 それは誰にでもなく、自分自身に向けて発しられたのかも知れなかったが…。

その頃、亜紀子と奈津実はとあるレストハウスの一室を借り切り、熱心なまなざしで向かい合っていた。

「ね…、わかった…。だから、そんなことは気にしなくてもいいのよ。女の子なんですもの、誰だってあんなことを云われれば、ショックも大きいと思うわよ。だけど、そんなことは、その場になってみなければわからないでしょう…。徹ちゃんだって、気持ちは少しヤンチャなところもあるけれど、そんなことは問題じゃないって云ってくれたんでしょう。だったら、そんなことは云わないで、これまで通りに付き合ってあげなきゃ、徹ちゃんがあまりにも可哀そうよ。それに、そういうことは、その時になって見なければわからないでしょう…。

 だったら、もっと勇気を出して前向きに、ただひたすら生きることに専念しなさいよ。そうすれば、運命だって自ずと好転するわよ。あなたの運命はあなたの手で、しっかりと掴まえて自分で信じられるものは、どんなことがあっても手放したらダメよ。わかった…。うちの耕平を見なさいよ。あの年になっても、いまだに彼女もいないのよ…」

「わかりました…。おばさん、あのおじいさんにも云われました。どんな細やかな人生でも、ただひたすらに生きなさいって、あたしもこれからはそうしてみます。おばさん、ありがとうございます。あたしのことをこんなに心配していただいて…、本当にありがとうございました…」

「いいのよ。そんなことは気にしなくても…。それより、もうすぐお昼だから、何か美味しいものでも頂いて帰りましょうか…。あたしが奢るから、そうしましょう。奈津実ちゃん」

 話も一段落ついたところで、亜紀子は店の者を呼びだすと、それぞれ好きなものを注文した。そのうちに料理が運ばれてくると、ふたりはそれを口に運びながら、奈津実がまたお喋りを始めた。

「でもね。おばさん、あたし思うんですけど、あの白いひげを生やしたおじいさん、やっぱり恵比須神社の神さまじゃないかと思うんですけど、おばさんはどう思われますか…」

「そうねぇ…。あたしは神さまのことはよくわからないけど、奈津実ちゃんがそう思うんなら、そうかも知れないわねぇ…」

「それでね、神さまがあたしにだけ何かを告げたくて、現れたんじゃないかと思うんです。それを途中で徹さんが来たから、姿を隠してしまったんですよ。きっと…、神さまでなかったら、あんなに急に何もかも見えなくなるはずもないし…」

 と、奈津実は料理を口に運ぶ手を休めて、恵比須神社の縁日で出会った易者のことを、考えているようだった。

「でも、奈津実ちゃん。これからも徹ちゃんとは元どおりに、仲良くするって約束してくれるわね…」

「はい、そうします…。でも、徹さん。本当にそれでいいのかしら…」

「いまは、そんなことを考えないで、仲良くしてあげてちょうだい」

「はい、わかりました。そうします」

 にっこりと笑う奈津実を見て、心なしか張りつめていたものが奈津実の中から、薄らいでいるのを感じ取っている亜紀子だった。

「奈津実ちゃんにわかってもらえて、おばさんとても嬉しいわ。さあ、そろそろ帰りましょうか…」

「おばさん…、本当にすみませんでした。あたしのこと、こんなに心配してもらって…、本当にありがとうございました…」

「いいから、いいから。そんなに気にしないで…、さあ、こんどは徹ちゃんの番ね…」

 亜紀子は何か思案を巡らしながら、奈津実とともにレストハウスを後にした。

 家に帰ると耕平は留守だった。亜紀子はすぐさま山本のところに電話をかけた。山本も待っていたように飛んできた。

「おばさん、もう奈津実に会ってくれたんですか…。それで…、奈津実のヤツはどうでしたか…」

 山本は佐々木家に来るなり、卓袱台の上に身を乗り出すようにして、亜紀子の返事を待っていた。

「奈津実ちゃんね。やはり、自分が子供を産めないかも知れないということを、相当気にしているみたいで、なかなか納得してくれなかったりよ。それでも、段々心を開いてくれてね。帰る頃にはすっかり明るい、元の奈津実ちゃんになっていたわ。

 でもね。徹ちゃん、やっぱり女の子はね。自分には子供が授からないなんて云われると、どうしても気にもなると思うし、絶望的にもなると思うのよね…。

 だから、徹ちゃんもしばらくの間は、そのことにはできるだけ、触れないでいてほしいのよ。あたしからのお願いよ。さあ、早く行ってあげて…、奈津実ちゃん待っていると思うから…」

「おばさん…。オレのために、そこまで気を配ってもらって、ホントにありがとうございます。ご恩は一生忘れません…」

「徹ちゃん…。おばさんはいいから、早く行ってあげなさい。いつもの公園で待っているからと云ってたわ」

「はい、ほいじゃ、行ってきます。どうもありがとうございました…」

 山本はお礼もそこそこに、あたふたと佐々木家を飛び出して行った。

「若い人はいいわね…。羨ましいわ…」

 亜紀子は、ため息を吐きながらつぶやいた。

 山本は全速力で走って公園のまでくると、奈津実が待っているという辺りを探したが、それらしい人影はどこにも見当たらなかった。奈津実は、きっとどこかに隠れているんだろうと、思った山本はさらに探し回ったが、奈津実の姿はどこにも見えなかった。

「何だい、何だい…。おばさんが公園で待ってるからって云うから、わざわざ来てやったのに、どこに隠れてんだぁ…。あのバカ…」

 探し疲れてベンチに腰を掛けて、タバコに火を点けようとした時だった。

「バカで悪かったわね…」

 ふいに後ろで声がしたので、ギクッとして山本が振り向くと、ソフトクリームを両手に持った奈津実が立っていた。

「うわ…、びっくりしたぁ…。お前、どこに隠れていたんだよ…」

「どこにも隠れてなんていないわよ。あたしは、これをふたりで食べようとして、買いに行ってただけじゃない。はい、これ…」

 と、手に持ったソフトクリームを山本に渡し奈津実も腰を下ろして、ふたりでソフトクリームを食べ始めたふたりだった。

 日没までには、まだ少し間のある夏の終わりの夕暮れだった。

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