三 山本徹の真理
揃って佐々木家の居間に入ってきた四人だったが、奈津実の前に立った山本が、いきなり平手で奈津実の頬を打った。
パチーン、という乾いた音が部屋中に響いた。
「何をするの。徹ちゃん…」
驚いた亜紀子が止めに入った。
「ほっといてください。おばさん…、コイツは…、奈津実のヤツは…」
「そぅだよ。山本、女の子を殴るなんて最低だぞ…」
耕平も亜紀子と一緒に止めにかかった。
「それは、あなたがどれだけ心配してたかあたしにも分かるわ。でもね、徹ちゃん。どんな理由にしても女の子を殴ることはよくないことよ。少し落ち着いて話をしましょう…」
亜紀子にいわれて山本も、自分が感情的になっていたことを、悔いいるように卓袱台の前に座った。
「ねえ、奈津実ちゃん…。女が子供を産めないと云われたことは、確かに大きなショックだと思うわ。でも、ねそれはまだはっきりと決まったわけでもないでしょう…。奈津実ちゃんや徹ちゃんにはまだだ、素晴らしい未来が残っているじゃないの。それを信じてふたりともひたすら生きることが大切なのでないかしら…。それにね。徹ちゃんだって、たったいままで声を殺して泣いていたのよ。あたしも見ているのも可愛そうだったわ…」
「ごめんなさい。徹さん…、あたし…、あたし…」
奈津実は、わぁーと泣きながら山本にすがりついて行った。
「バカ野郎…いまさら泣くんじゃねえよ…、オレがどんな思いでお前の手紙を読んだかわかるか、悲しくて泣いたんじゃねえぞ…。オレは悔しく悔しくてたまらなくて泣いたんだ。オレはお前に、子供を生んでほしくて好きになったんじゃないぞ。こんなちっちゃな頃からお前と遊んでいて、オレはきっとコイツと死ぬまで一緒に生きて行くんだなと、そう思ったからいままで、いやこれから先もずっと生きて行きたいんだ。もしも、それを邪魔するヤツがいたら、ソイツをぶっ殺してでも生きて行きたと思ったんだ。それのどこが悪いんだよ…」
パチ、パチ、パチと亜紀子と耕平が拍手を送った。
「徹ちゃん、素晴らしいわ…。おばさん感動して涙が出てきちゃったわ…」
亜紀子は、そういってさっき山本が涙を拭いた、ハンカチを取り出してそっと目頭を押さえた。
「さあ、オレたちも帰ろう。家まで送って行くからよ…。二度とこんなマネするんじゃないぞ…。耕平、おばさん。いろいろと迷惑をかけてすみませんでした。それから、耕平もありがとうな…。さあ、奈津実、行こうか…」
奈津実はひと言だけ、
「すみませんでした…」
と、言って山本におとなしく着いて行った。
台風一過、山本と奈津実が帰った後の佐々木家は、また元の静けさに戻っていた。
それから、二、三日経って山本が訪ねてきた。
「こんにちは。おばさん、耕平いますか…」
「いますよ。お二階のほうにどうぞ」
「いや、今日はおばさんにも聞いてもらいたい話があるんで、お茶の間でいいです」
「あら、そう…。何かしら…、耕平。徹ちゃんが見えたわよ」
亜紀子が声をかけると、耕平が階段を下りてきた。
「よう、何だい。奈津実ちゃんは、あれから元気でやってるのか…」
「ああ、何とかな…。この前はみなさんに迷惑をかけたから、謝っといてくれってさ…。
「そんな、別に気にしなくてもいいのに…、やっぱり奈津実ちゃんは優しい娘なのね…」
「それでな…。この前のキャンプでは、耕平にだいぶ迷惑をかけたから、もう一度こんどはおばさんも誘って行きましょうって聞かないんだよ。それでな、テントは懲りたからバンガローを借りましょうって云うんだよ。どうですか、おばさん。奈津実のたっての頼みなんですが、一緒に行きませんか…」
「キャンプねぇ…。高原の夏ねぇ…、いいわねぇ…。あたしはキャンプなんてやったことないけど、せっかく奈津実ちゃんが誘ってくれたのなら、あたしも行ってみようかしら…」
「よ…、おばさん。そうこなくちゃ、奈津実もきっとよろこびますよ。さっそく奈津実に知らせなくちゃ…」
「それで…、いつ出発するの…。徹ちゃん」
「これから、いろいろ調べて明日にでも連絡にきます。何しろ、この前の時は予想外の豪雨と雷でひどい目に逢いましたからね。今回はオレの名誉挽回のためにガンバリます。それじゃ、楽しみにしててください。さよなら…」
「何だぁ…。アイツ相変わらずせっかちなヤツだなぁ」
「さあ、大変…。何を着て行こうかしら…、キャンプに行くんだから、身軽に動ける服装がいいわよね。何あったかしら…」
亜紀子は、そういうと自分の部屋に行って、タンスの中を引っ掻き回しているらしい音が聞こえてきた。耕平は素知らぬ顔で自分の部屋にもどって行った。
そして翌日、山本がキャンプのパンフを手にやってきた。二日後からは、天気の崩れもないからということで、話もまとまり山本も準備があるからと帰って行った。
翌朝になって、山本と奈津実が迎えにきていた。
「あれ、おばさんは…」
亜紀子の姿が見えないのに気づいて山本が耕平に訊いた。
「何か、部屋でゴソゴソやってるみたいだけど、何してんだろう…。母さん、山本と奈津実ちゃんが迎えにきてるよ。まだなの…」
「はーい、いますぐ行くわ…。ちょっと待ってて…」
「女はどこかに出掛けるとなると、すぐこれなんだからいやンなっちゃうよ。まったく…」
耕平がグチを言っていると、亜紀子はようやく玄関に出てきた。
「はい、はい…、みなさんお待ちどうさま」
「きゃー、おばさん。カッコいい…」
奈津実が歓声を上げた。奈津実は多少色のあせたブルージーンズに、ピンクのブラウスという出で立ちでそこに立っていた。
「母さん、ジーパンなんて持っていたっけ…、初めて見たよ…」
「ふふふ…、これはね。耕平、あなたが生まれる前に買ったものなのよ。でも、よかったわ…。サイズが合わなかったら、どうしようかと思ったけど、まだ穿(は)けるから安心したわ…」
「おばさんスタイルがいいから、よく似合ってますよ。ホント…、うちのおふくろなんて太腿はパンパンだし、腹はたるんでいるしジーパン姿なんか、とても見られたものじゃないですよ…」
山本は、しなやかに伸びた亜紀子のジーンズ姿を見て、自分の母親を思い起こしたようにうんざり顔で言った。それから四人は数時間かけて、電車に揺られて高原駅に着くと、そこからは徒歩でバンガローの立ち並ぶ村へと向かった。
高原の空は澄みやかに晴れ渡り、真夏の日中にしてはわりと過ごしやすい陽射しが降り注いでいた。
「うわぁ…、やっぱり高原の空気は、透き通っているみたいで気持ちがいいわねぇ…」
亜紀子は、駅を出るなり思わず両手を広げて深呼吸をした。
「ホントだね…。オレもこんなに涼しくて気持ちいいとは思ってもいなかったよ」
「ねえ、ほら、みみんな見て、見て…。まだ夏だというに、赤トンボがあんなにたくさん飛んでるわ…」
「ホントね。すごい数だわ…」
そんな話をしながら、しばらく歩いて行くと「沼澤湖キャンプに入り口」と書かれた立て看板が見えてきた。
「お…。あれだ、あれだ。オレがひと足先に行って様子を見てくるから、おばさんたちはゆっくり来るといいよ…。ほんじゃ、お先に行ってます…」
山本は、まるで韋駄天のような速さで走って行ってしまった。
「「ちぇ、山本のヤツ。どうしてあんなせっかちなんだろう…。先に行ったって、みんなと一緒に行ったって、そんなに変わりはないと思うんだけどな…」
「いいから、ほっときなさいよ。耕平くん、いつものことじゃない…。徹さんは、自分でこうと思い込んだら、やり通さないと気が済まない質(たち)なんだから、あたしらはGoing mywayでゆっくり行きましょう…」
耕平たちが着いた頃には、山本はひとりで各バンガローの周りをウロウロ歩き回っていた。
「おい、山本どうした…。なにかあったのか…」
「いや、何もねえよ…。ただ、ちょっとおかしいんだよ…」
「何がだ…。まさかお前、バンガローの鍵を失くしたなんて云わないよな…」
「鍵ならあるさ。ほら…」
「それじゃあ、一体何がおかしいんだよ。終いにはオレだって怒るぞ…。今日のお前は、いつもの山本じゃないみたいだぞ。どうしたんだよ。一体…」
「うん…。それがな…、契約しておいたはずのバンガローが、いくら探しても見当たらないんだ。まいったよ…」
「何、バンガローが見つからない…。また、お前はせっかちなヤツだから、見落としてんじゃないのかぁ…」
「そんなこことねえよ。ほら、鍵についてる札の底にだって、99って書いてあるだろうが…、だけど、いくら探しても70までしかないんだ」
「どれ、見せてみろ…」
山本が渡した長方形の木で出来た札には、「沼澤湖キャンプ場バンガロー村」と書かれていて、その底の部分そには確かに99という数字が書かれていた。
「うん…確かに99だな。しかし、山本…。これは読みようによっては、66とも読めるるんじゃないのかな…。それに70までしかないのなら、なおさらだよ。一度、その70番のバンガローに行ってみよう。どうせ、この近くだろう…」
そんなわけで、四人は耕平の提案で66番のバンガローまでやってきた。
「ほら、あった、あった。ここだ…。速く開けてみろ。山本…」
山本が入り口のドアに鍵を差し込んで回すと、ドアは難なく開いた。
「ほーれ、見ろ….やっぱりな…。大体はお前がせっかちでそそっかしいから、こういうことになるんだぞ」
「へへへへ、そう云うなって耕平。誰にだって間違いや勘違いはあるもんだ…。さあ、みなさん中に入ってくつろいでください…」
耕平にいわれても山本は怯(わる)びれた様子もなく、ひとりでさっさとバンガローの中にはは入って行った。耕平たちも後から入ってきて、
「まあ、わりときれいに清掃されているのね…」
中をひと目見渡した亜紀子が言った。
「そりゃぁ、そうだろう。いくら年に数回しか使われてないバンガローにだって、ちゃんと管理している人がいるんだから、掃除ぐらいはするだろう…」
耕平も、そういうと自分の荷物を下ろし始めた。
「さあ、それでは夕食にはまだ間があるけど、準備だけはしておきましょう…。奈津実ちゃん手伝ってちょうだい」
「はーい…」
「そう云えば、オレたちもお昼はおにぎりだけだったから、そろそろ腹が減ってきたな」
「よし、耕平。オレたちは薪でも拾いに行こうぜ…」
そうこうしているうちに夜が来て、バンガローの中で夕食も終わりを告げ、四人で団欒を過ごしている時に奈津実がこんな話をし始めた。
「前にさ。恵比須神社のお祭り時、あたしが白い髪とこーんなに長い髭を生やした、おじいさんと逢ったって云ったじゃない。みんなは見えなかったって云っていたけど…。
そのおじいさんが云うには、
『人間の宿命とはそれぞれの生命と同じで唯一無二。この大宇宙に於いてさえも、ただひとつの存在しか認められてはおらぬのじゃ。それゆえに、生命も宿命も決して粗末に扱ってはならぬ。大事に使ってこそ真の幸福も訪れるであろう…』
と、それから、こんなことも云ってたわ…。
『お嬢さんも、これから先はただひたすら生きてみなされ。さすれば、お嬢さんの将来には、必ずや輝かしく素晴らしい未来がお訪れるでありましょう。よろしいかな、ただひたすら素直な心で生きるのですぞ。ただひたすらに生きてみなされ…』
そんな話を聞いていたら、徹さんが呼びに来たので振り返ったの…。そのあとすぐにおじいさんのほうを見たら、もうおじいさんも占いをする台も消えていたの。ホントよ…」
そこで奈津実はいったん話を切ったが、誰もひと言も言わずに聞いていた。
「それでね。あたしも後で考えてみたんだけど、もしかしたら、あのおじいさんは、恵比須神社の神さまが人間の姿をかりて、ひれとなくあたしの未来について、教えてくれたんじゃないかと思うんだけど、どうかしら…」
「バカだな。奈津実も…、このよに神さまなんかいないの…。神さまはな、古代の人間たちが自分らで理解できないもの、妖怪や幽霊なんかもすべて正体のわからないものは、神さまとして崇めたのが始まりで、神さまなんてどこにもいないんだぞ。わかったか…」
「だってぇ…、あたしは云われたんだもの。ただひたすら生きなさいって…、ひたすら生きるってことはよ。どんな欲にも目もくれないで、たた自分の人生の目的に向かい合って、素直な気持ちで生きるってことなんじゃないかしら、おばさんはどう思われますか…」
「そうねぇ…。人生の目的といっても、人それぞれでみんな違うでしょうから、一概には云えないわねぇ。でも、素直な気持ちで生きるってことは、とても大切だと思うわ。
その点、奈津実ちゃんならだいじょうぶね。素直だし優しいし、その占い師のおじいさんがいうように、きっと素晴らしい未来が待っていてくれると思うわ」
その時、バン、バン、ババーン…。バン、バン、バン、バン…。という、銃声が聞こえてきた。
「お…、強盗犯が見つかったのかな…」
と、山本が聞き耳を立てた。
「危ないから、おやめなさい…。徹ちゃん」
立ち上がってドアのほうに行こうとしている、山本を亜紀子は慌てて止めた。
「でも、急に静かになったみたいですよ。おばさん…」
山本のいうとおり、湖畔のキャンプ村はまた静かな静寂(しじま)が戻ってきた。
すると、バンガローの入り口のドアがノックされる音がした。
「夜分遅くに申し訳ありません。警察の者ですが…、すみません」
山本がドアを開けると、ふたりの警官が立っていた。
「夜分遅くお騒がせをして、大変申し訳ありませんでした。強盗犯の身柄は無事確保いたしました。みなさん、どうぞ安心してお過ごしください」
「はあ、それはどうも、ご苦労さんです…」
「まあ、それはそれはご苦労様でございます…」
亜紀子もドアのところまで出てきた。
「警察の方々もいま時分まで、本当にごくろうさまでございますわねぇ。
それにしても、こうやってバンガローを一軒一軒周って歩くなんて、おまわりさんも大変なお仕事ですわよねぇ。本当にごくろうさまでございます」
「いや、そうでもありません。日中の騒ぎで車で来られた方々は、ほとんど帰られたということで、残られた方はごくわずかですから、わりとのんびり周っています。それでは、われもこれにて失礼します」
「どうぞ、お気をつけてお帰りください…」
亜紀子が深々と頭を下げて礼をいうと、ふたりの警官は黙礼をして戻って行った。
「ふう…、何だか知らないけど、今日もわたわたして一日が過ぎてしまったなぁ…。それに疲れちゃったし、もう寝ようかなぁ…」
「あーぁ…、どうして山本が計画すると、いつも変なことにばかりになるんだろう…。この前は集中豪雨と雷だったし、今回は今回で強盗犯騒ぎだろう…。いやになっちゃうよ。ホント…、オレも疲れたから、もう寝ようっと…」
「お…、耕平。お前は自分ではなにもしないくせに、オレに何か文句でもあるのかよ…」
「別に文句なんて何もないよ…。もう遅いから早く寝よう…。お休み…」
耕平がランタンを消すと、バンガローの中は真っ暗闇なった。闇の中で耳を澄ますと、どこからか秋の虫の鳴く声が聞こえてきた。
「やっぱり、ここは高原なのね…。もう秋の虫たちが鳴いているわ…。奈津実ちゃん、もう寝たの…」
「いえ、まだ起きてますよ。おばさん…」
奈津実が小さな声で返してよこした。耕平と山本は静かな寝息を立てて眠っていた。「ねえ、おばさん…。さっき話なんですけど、あの白い髭を生やしたおじいさん。ホントに恵比須神社の神さまだったんじゃないんですかね…。あたしにはどうしても、そう思えてならないんです…」
「そうね…。奈津実ちゃんがそう思うのなら、そうかも知れないわね。おばさんには神さまのことなんて、難しすぎてわからないわ…」
「でもね…、おばさん。普通のおじいさんが、人間の持って生まれた宿命とか、大宇宙の真理なんと言葉は、そうは使わないと思うのよ。だから、きっと神さまがあたしに何かを知らたくて、人間の姿をかりて現れたんじゃないかと思うの…」
「だけど、その神さまが何を告げたかったのかしらね。奈津実ちゃんに…」
「うん…、それはあたしにもわからないわ…。でも、あのおじいさん。やっぱり神さまだったのよ。あたしね、あのおじいさんに云われたように、これからは自分の人生をただひたすら生きてみようと思っているの…」
「それはいいことだわ。おばさんもそうするわ。人間はね、人を恨んだり妬んだりして生きるよりも、自分自身に素直で正直な気持ちで生きたほうが、どれだけ気が楽かわからないわよ。奈津実ちゃん…」
「ええ、だから、あたしもこれからはそうします。それじゃ、おばさん。お休みなさい…」
奈津実が寝入ってからも、亜紀子はなかなか寝付かれなかった。
寝付かれないまま亜紀子の脳裡には、いまでは忘れかけていたようなことまでが、まざまざと浮かび上がってきた。
横丁の十字路の角で、自転車で日本一周をしていると言っていた。耕平の父親である坂本耕助とぶつかりそうになり、避け損ねて自転車ごと横転して、膝をすりむいてしまったことなど、次から次へと浮かび上がってきた。
亜紀子は、寝袋に頭まですっぽりと潜り込むと、ひたすら眠ることに努力していた。その甲斐もあってか、亜紀子もいつしか深い眠りの底へと落ちて行った。
翌日は、全員総出で朝食の準備にかかり、食事が済むと四人は湖で泳いだり、山菜を摘んだりして思い思いの時間を過ごした。
それから、昼食が終わると誰いうともなく帰り支度に取り掛かり、午後三時過ぎにはキャンプ村を後にした。
「バンガローなんて初めてだったけど、とっても楽しかったわ。も徹ちゃんも奈津実ちゃんも誘ってくれてありがとう…」
「だけど、あの強盗犯騒ぎがなかったら、もっと楽しかったのに…、おかげで買ってきた花火が無駄になっちまったよ。あぁ、もったいないなぁ…」
と、いうのが、亜紀子と山本の弁であった。こううして、四人は夕方過ぎにはそれぞれの家に帰り着いたのだった。
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