チョコバナナ
「……さ、ん。こやま、さん」
夢から覚める。誰かに呼ばれた気がする。寝てたわけじゃないよ。まさか、部活中に寝る人なんかいないからね。楽器を吹いてると、気持ちよくなるの。だから、夢うつつというのかな。そんな状態になっちゃう。
私を呼んだのは、部長か。
「……はい」声、出ない。でも、視線だけは部長に送ろう。
「ねえ、
「ごめんなさい」これは聞こえただろう。
「え?」
ごめんなさい。私が悪かったから。先に進んでください。ごめんなさい。
「……すみません」
「聞こえないって。そんなんじゃあさ!」
こわい。
「あなた、やる気あるの?ないなら出て行ってくれる?本当に、迷惑だから」
みんなが私を見てる。キレてる部長より、どちらかと言うと私の方を見ている。
今日は、もう止めといたほうが良いかもしれない。
こんなに人から怒鳴られたのっていつぶりだろう。
……あの日か。父と母が、喧嘩してた。
とにかく、クラリネットを仕舞おう。ベークラの私が一人抜けても、たいして変わらない。厳密にいえば、結構変わるんだけど。いまはそれどころじゃない。
みんな、もう私は帰るから。安心して、楽譜に目を戻してくれない?
部長も、少し落ち着いて欲しい。
このままだと私、身動き一つ出来そうにないんです。
「ねえ、返事くらいしてよ!私が馬鹿みたいじゃん!ねえ!」
なんで、部長が涙目になっているのですか。今日は、島木先生がいないから、そこまで私に言うのですか?
「意味わかんない……。なんで……無視するの。私、何かいけないことした……?」
いえ、何もしていません。部長。あなたはしっかりと自分の責務を全うしていると思います。他の部員の全員が、あなたの味方になってくれます。ですから、どうか、今だけ、私を開放してくれませんか。この視線から。
「うっ……」
部長、お願い。泣かないで。
「おい、小山、謝れよ」
誰、今言ったのは。
「……ごめんなさい」
「ちいせえって!声が!」
出ないの!もう!うるさい!
私は皆の視線の中で、なかなか開かない瓶の蓋みたいな身体を何とか動かして、クラリネットを仕舞った。一度動き始めると、徐々に動作はスムーズになった。
こんなことが前にもあった。
部長が泣いている。でも、私も泣きたい。
喉の奥が苦しくなって涙が浮いてくる。
ああ、もう流れてしまいそう。手首で一度、両目を押さえる。次に鼻水。
もう、何も上手くいかない。
部長、みんな、ごめんなさい。本当に。
千田、見ないで。
立てるかな。このままバッグを持って。
立たないと、この部屋の空気は重いままだ。みんなのために立とう。
自分のためではなく、部長と、みんなのために、私はこの部屋から出なくてはならない。
そう思ったら、膝に力が入った。みんなの視線を背中に感じる。
私は戸の前で、一度振り返って頭を下げた。顔を上げると、部長の隣に男の先輩がいて、慰めるように肩に触れていた。そうか、付き合ってるんだ。あの二人。
私は部屋から出た。
父と母が最期に喧嘩をしたのはいつだっけ。
あれから、私の前では喧嘩をしなくなった。
売店、まだ開いてる。私はここのクッキーが好き。
入学してから二か月が経つけど、クラスのみんなとも部活のみんなとも、何だか距離を感じている。
今までほとんど読んだ事の無かった小説を読むようになった。
まあ、理由としては話し相手がいなくなったからだと思う。一人でいる時間が、圧倒的に増えたから。
吹奏楽部、辞めた方が良いのかもしれない。中学の頃から始めたクラリネットも、そろそろ潮時なのかも。クラリネットは好きだけどね。
「いつもありがとうねえ」
売店のおばちゃんは、いつからここで働いているのだろう。
クッキーは五枚入って100円。一枚が20円。安いよね。安いのかな?
でもすごく美味しい。大きいし。誰が焼いているんだろう。バタークッキーだから、原価が安く済むのかな。
屋上へ続く階段。屋上にはベンチがあって、それと高い金網があって。入学した時のオリエンテーションで一度上がったきりだ。
パックの牛乳が80円。これは明確に安いと思う。学生価格。
180円でクッキーと牛乳が手に入る。
ベンチに座って食べるのなんて、なんだか優雅すぎない?
誰もいない。そりゃそうだよね。
みんな放課後は、部活か、帰っているか、遊びに行ってる。
今は、誰にも会いたくない。さっきから涙を我慢していたの。
売店のおばちゃんに涙を見せることは出来ないし、他の学生にだって見られたくない。
気が抜けたからかな。ぼろぼろ出てきた。胸が痛い。牛乳を飲もうとするんだけど、喉が詰まるような感じがして上手く飲み込めない。部長は泣き止んだかな。
千田、なんで千田は私なの。
私の事なんか何も知らないくせに。本当、迷惑。そう、迷惑だよ。
クッキー美味しい。どんどん甘さが増してくる。鼻水を啜ると少ししょっぱい。
これは、涙の味でもある。そうでしょ、だって鼻と目は繋がってるんだから。
あれ、なんで私、学校に残っているんだろう。帰ればいいのに。誰かに教えて欲しい。私は今日、学校で何かをやり残しているのかも。
何かは分からないけど、大事な事だったのかな。
クッキーを食べ終えたら帰ろう。
その頃には涙も収まってるはずだよね。
「誰かいる?」
私は涙を拭いて、声の方に顔を向ける。
「屋上、もう閉めるよ」
先生、たしか保健の。
「ごめんなさい」聞こえたかな。
私はベンチから立ち上がってバッグを肩にかける。
一枚残ったクッキーと、残り少ない牛乳を手に、校舎の中に戻った。
「小山さんだっけ?えっと、茜さん」
保健の先生が屋上の鍵を閉めながら言う。
階段の踊り場で振り返る。
私は視線を向けて、それを返事とした。
「クッキー、好きなの?」
保健の先生は、にこっと笑う。
私が言うのもなんだけど、まだ若い。
たぶん、二十代前半。それに、かわいいと言うか、モテそう。男が好きそう。
私は、一度うなずく。
「チョコチップクッキーなら買うんだけどなあ」
先生は笑う。満面の笑みだ。
「……好きなんですか」
「ん?うん。チョコチップクッキーは好き。でも、バタークッキーは自分では買わない。なんでかと言うと、バタークッキーって胃もたれするの。おかしいと思わない?バタークッキーで胃もたれするなら、チョコチップの方だってするはずでしょ?でもね、違うの、バタークッキーなの。胃もたれするのは。おかしいでしょ」
「……それは、変ですね」
「だよねえ。だからさ、自分で買うと全部食べられないんだあ」
先生は、鍵のついたストラップをくるくると回す。
「あなたの声、初めて聞いた。家だと普通に話すの?」
「え……はい。そこそこには」
「ごめん。別にね、話をしない事は悪いことじゃないよ。疲れるんじゃない?そうでしょ?」
「そうですね。たしかに……そうかもしれません」
「あなた、すごく私の顔を見てるもの。何て言うか、表情を窺ってる」
「そう、見えるんですね」
「自分の何気ない言葉で誰かが傷ついた。ううん、自分が傷ついたのかもしれない。そんな経験があったとしたら、話せなくなるのかもしれないね。あなたはどう?ちょっと突っ込みすぎ?」
「いえ。ついさっき、考えていたんです。屋上に来る前。……両親が、喧嘩をして。仲裁に入ったら怒鳴られて。父に叩かれたことがあります。それからかもしれません。人と上手く話せなくなりました」
「そう。良く話してくれましたね。小山さん」
「何となく話せそうな気がしただけです。他の人には無理です」
「保健室、いつでも開いてるから、疲れたら来ていいよ」
「……ありがとうございます」
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい……あ、先生。名前、何でしたっけ」
「
「ときだ先生……」
(チョコバナナはどうかと、考えていました)
20時になってすぐ、私は河野時のチャンネルを開いた。今日もクラフトゲームをしている。これ、そんなに面白いの?
「チョコバナナね!いいかもしれない!すごい、ばななんさん」
(常温でも溶けない、それに昔、食べたんです。お祭りの屋台で買ったのを。……美味しかったから。それで思いつきました)
パパに肩車をしてもらい、私は髪をぎゅっと掴み。片手に持ったチョコバナナを食べた。チョコバナナの下の方が、重力に耐えられずに折れて落ち、パパの服にチョコが付いた。でも、パパは怒らなくて。ただ笑って、ママもただ笑って。
「コーティング用のチョコレートは、いくらするのかな?」
(わかりませんけど、普通の板チョコとかじゃダメなんですか?)
「それだと、テンパリング作業が必要になる。手間がかかるけど、たしかに板チョコとかを使った方が安く済むかもしれないわね」
(チョコレートの値段を調べるのはありですか?)
「そうね、私にもわからないから、ありにしましょうか」
(わかりました)
「ばななんさん。もし、出来たらでいいんだけど、明日、チョコバナナを作ってみない?チョコバナナ、とてもいいと思うの。私」
作ってみる。そうだよね。作ってみないと、何とも言えない。
(時さん、あした、スーパーに寄ってチョコレートが安かったら作ってみます。それでいいですか?)
「ええ。そうしましょう。私も作ってみるわ」
ママが泣いていた。パパが何を怒鳴っているのか、私にはわからなかった。
でも、ママがたくさん泣いていたから、私は助けようと思って。
パパの脚を蹴ったの。たぶん、パパは殴ろうなんて思ってなかったと思う。
振り払おうとしただけ。でも、パパの手が私の頬に当たって、私はそのまま尻もちをついたの。
痛みよりも驚きの方が強くて、涙が出たのはしばらく経ってからだった。
パパは額を床につけて私に謝ってた。いいの。私が悪かったんだから。
私が出すぎた真似をしたから。
放課後、百均でバナナを買う。
この店だと、一房3本のバナナが100円。一本33円くらい。200円だと6本。時さんルールのバナナは、一房4本で200円。青果コーナーがある百均て、珍しい。ただ、このバナナ。そんなに大きくない。とりあえず、買って行こう。
バナナだけ買う高校生って、変な目で見られそうだけど……。あ、そういえば、チョコレートも買いに来たんだった。お菓子コーナー、板チョコ見つけた。
これも、チョコバナナで良く見る、カラースプレー。
あった方が、豪華にみえるよね。
綺麗だし。
私は、バナナと板チョコとカラースプレーを手にレジに向かう。
「チョコバナナ作るの?」
え?
私は顔を上げて、レジの店員を見る。主婦って感じ。見た感じ、母と同じくらいの歳だと思う。私はうなずいた。
「それなら、板チョコより、コーティングチョコの方が良いよ。同じ値段よ」
「……売ってるんですか?」
「ええ、隣にあったと思うけど」
「あ、じゃあ」
「替える?ちょっとまってて」店員は言うと、コーティングチョコを持ってくる。
小さい袋に入った、粒チョコレート。
「いくつも作れる量じゃないけどね。バナナを小さく切ると良いよ」
「小さく……ですか?」
「一口サイズ。お祭りみたいのが良いなら、一袋じゃ足りないか、ぎりぎりね」
私はお金を払うと、店員に頭を下げて、店を後にした。
チョコを溶かしてその中に切ったバナナを入れる。しっかり付けたら、大き目のお皿に取って並べて……固まる前にカラースプレー。
そしてお皿ごと冷やす。実に簡単だ。
300円で作れた。これを売ったら、いくらになるか。
いや、でも、一皿500円なら全然、買ってくれる人いそう。
500円で売れるとしたら、売り上げが200円。
バナナアイスキャンディの時の32円よりも圧倒的な売り上げ。
時さんルールの値段。一房4本で200円。全然いけそう。
バナナアイスキャンディだと原価割れを起こしても、これなら常温で良いし、デザートにはもってこいって感じだし。それに結構、量が多く見える。3本でこれなら。
今夜、時さんに報告しよう。
「茜、何してるの?」
母の声。今日は早いお帰り。おかえりなさい。
「え、チョコバナナ?美味しそう、食べていい?」
私はうなずいて、つまようじを一本母に渡す。そして、自分も同じようにつまようじを手にし、一口サイズのバナナチョコを口に入れた。
「甘い。美味しいね」母が言って笑顔になる。
私はうなずく。甘い。本当に、これは美味しい。
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