3.
強い雨が世界を揺さぶり、漆黒の闇が光を拒絶する夜の街を、私があてどなくさまよっていると、その人は現れた。
「あなたが
「……誰、ですか」
私は警戒しながら、ブロンドヘアの美人に問いかける。パンツスーツにハイヒールを履いていて、見た目はさながら会社員のようだ。
「んー……そうね、ガブリエルの仲間っていったらわかるかしら」
その答えに驚きを隠せなかった。そもそも最初に声をかけられた時点で気づくべきだったのだ。今、私に話しかけてくるような相手は、謎の組織の追手しかいないのだから。
「あなたも私を殺しに来たんですか」
敵意を持って訊くと、お姉さんは笑いながらいった。
「違うわよ。信じてもらえないのも無理はないけど、私はあなたを助けに来たの。これがその証拠」
お姉さんはスーツから銃を取り出すと、それを分解し、地面へと投げ捨てた。
「これであなたを撃つことはできない。まあ、殺すだけならいくらでも、というのはあなたはもう知っているかしら」
この人は、私がガブリエルさんと一緒に逃げていたことを知っているのだろうか。そして、あの人が次々と追手を殺したことも。
「あなたも……人を殺したことがあるんですか」
「あるわよ」
お姉さんはにこりともせず答える。
「……あなたも……正しくない人なのね」
「正しい?」
私の言葉を繰り返す。深い海のような色の瞳をたずさえる眼は、こちらを捉えて離さない。
「そうよ……あなた達は正しくない。誰かを殺すなんて間違いよ。いくら敵であっても殺してまで助けてほしくなんてない。それなら死んだほうが──」
私が最後までいい切る前に、彼女が私を押し倒していた。その手にはナイフが握られていて、身体はがっちり固められて動けない。
一瞬の早業に、私は終わってから汗が湧き出てきた。
「ずいぶんと理想的なことをいっているようだけど……あなたにそんなことをいう権利はあるのかしら」
「権利……」
ナイフを肌に突き立てられ、死が迫っていることを実感する。それは、昨日味わった、理不尽な殺意よりもずっと身近に感じられる恐怖だった。
「ええ。私が知っている限り、あなたは二度、あの子に命を救われている。それなのに感謝もせず、ただ自分の都合で怒りをぶつけるのは“正しいこと”かしら」
下手に答えれば死ぬかもしれない。でも、何もいわなくても死ぬかもしれない。それならいっそ、いってから死ぬほうがマシだ。
「そうよ。私は間違った方法で生き延びるくらいなら、正しく生きて死んでいきたいわ。私が正しいと思った信念を貫いて死ぬなら、後悔なんてないもの。他人に干渉されて信念が捻じ曲げられるなんて、私は嫌よ」
「じゃあ……あなたにとっての正しさとは何かしら」
「それは……」
簡単な問いだ。私の正しさは、正義は、いつも決まっている。
だけど、それを言語化しようとして、私は自分自身の矛盾に気がついた。気がついてしまった。
それを言葉にすることは、口に出すことは躊躇われた。それは、私自身の背骨がすべて抜けてしまうような、そういう恐怖を与えるものだったから。今目前に迫っている死よりもずっと、それは怖いものだった。
「どうしたの?」
だけど、お姉さんは私に逃げることを許さない。いっそこのまま死んでしまおうかと思ったが、おそらく簡単には死なせてもらえないだろう。きっと、この人が満足するまで痛めつけられるに違いない。
私はそれに向き合いたくなかった。散々人に偉そうにいっていた私が、間違いを犯していたなんて認めたくなかった。
私はヒーローになりたかった。画面の向こう側にいるような完璧でひとつの汚点すらないようなヒーローに。
ヒーローは正義の味方だ。正義の味方はいつも正しい。自分の中に揺るぎない基準を持っていて、それはどんなときも人から称賛される正しさの基準だ。ときには社会と違う基準を選ぶこともある。だけど、その正義は必ず正しいんだ。
だけど、本当は気づいている。わかっている。知っている。完璧なヒーローなんていない。私が憧れたヒーローは、一度の挫折すら経験しないような世間知らずの高枕じゃない。そんなものは、ヒーローじゃない。
私が憧れたのは、本当に好きなのは、どんな苦境にも困難にも挫折にも立ち向かい、自分の間違いに対して真摯に向き合うことができる姿だ。自分の過ちを素直に認め、償うために生きることができるもの。それがヒーローの本当の姿だ。
だから私もそうでないといけない。私を助けてくれたあの人のように。
「……私は、私の正しさは社会的な考え方じゃない。自分にとって正しければそれでいい。他の人と違っても、自分の信念さえ貫ければそれでいい。だから、せめて自分の掲げた信念だけは裏切りたくない。それを捨ててしまったら、もう正しくあることなんていられないから」
「その信念って何かしら」
「私は……私はヒーローになりたかったの。ヒーローは困っている人を助ける存在。そして……」
私はその先がいえなかった。続きをいうことで、何か後戻りできない場所へと進み込んでしまう気がしたから。だけど、もう逃げない。そう決めたから、私はいう。
「そして、悪を倒して、赦すことができる存在」
「……それが、あなたにとっての信念?」
お姉さんは私の答えを聞いても、変わらず冷淡な調子で問いかけてくる。
「そうよ。これが私の信念」
「なら、あなたが次にいうべきこともわかっているのかしら」
「……ええ」
どこまで逃してくれない人だ。
「私は間違っていたわ。ガブリエルさんを赦さずに拒絶したことは、間違いだった。私がするべきことはあの人にお礼をいって、それからどう過ちを償うか、考えることだった。それができるのは、助けてもらった私だけだったのに……」
そうだ。私はあの人に助けてもらったのだ。それは、どんな方法だとしても認めるべきじゃなかったのか。あの人は死の恐怖に立ち向かって、見ず知らずの私のために戦っていたんだ。それを私は拒絶した。あろうことか、間違っていると断じたんだ。
何が正しさだ。何が信念だ。何がヒーローだ。本当のヒーローはあの人だったんだ。私はそれを認めたくなかっただけだ。ただ方法が違っただけで、私と違う考え方を持っていたというだけで、私はあの人の想いを踏みにじったんだ。
「私は……最低よ、私は……!」
「それがわかっているなら、いいわ」
そういうと、お姉さんは私を解放した。
私をつかんで立ち上がらせると、お姉さんはいった。
「この住所に行きなさい。きょう一日くらいだったらセーフティハウスとして使えるはずよ。ただし明日はどうなるか保証できない。起きたらすぐに逃げることね」
渡されたのは、住所が書かれている紙。すぐにホロパに保存しようとしたが、今は使えないのだった。
などとやっていると、お姉さんはすでにこの場から離れようとしていた。
「待って」
私はお姉さんを呼び止める。
「あなたの名前は何?」
「……ラファエル」
ラファエルは、夜の雨の中へと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます