2.

 行き先はそう遠くない道路近くの路地裏。距離こそ大した問題ではないが、やはり瞬間的に移動できると、人の目をごまかすのに便利だ。

 息が苦しい。サンダルフォンは強敵だった。彼女を倒すには全力を出さざるを得なかった。少しだけ、腰を下ろして休もうかと思った。だけど、そんなことをしていれば未夜世みよせに迷惑がかかる。できる限り僕が時間を稼がなくてはならない。

 身体のあちこちが痛みを訴えている。すべてかすり傷だ。雨に濡れて少し過敏になっているだけにすぎない。まだ身体は動く。問題ない。

 雨は今も降り続いている。雲の上にあった太陽は完全に没し、光源を失った灰色の雲は、色を失い暗黒へと変貌している。灰かぶりの魔法もそろそろ解けてくる頃だ。路地裏の狭い道を進んでいることもあって、電灯は少なく先の見えない道を歩く。

 これだけ長い間、戦い続けたことも、“能力”をこんなに多くの回数使ったこともない。一日に五回使えば多いほうだった。今日だけで一体何回“扉”を開いただろう。頭の奥のほうがしびれるように痛い。ずっと締め付けられているようだ。ただでさえ暗い視野が加えてぼやけてくる。黒く染まった風景が、真っ白に塗り替えられていく。

 急に姉に会いたくなった。今はここにいない、もう死んでいる姉に。あの人は誰かを助けようとして死んだそうだ。詳しくは知らない。知る前に死んでしまったから。僕は姉の影をずっと追い続けていただけだ。見えもしない虚像の影を延々と追いかけていた。

 今の僕は姉と同じことをしている。誰かを助けるために命をかけている。もし姉に会うことができたら、僕を褒めてくれるだろうか。よくやったといってくれるだろうか。姉に触れてほしい。あの人の手は、いつも優しかった。

「お前が迷子になっていたらさ、いつだってどこだってすぐに見つけ出すさ。なんたって私はお姉ちゃんだからね」

 姉がいっていたことを思い出した。いつの日のことかも覚えていない昔の記憶。小さかった私は、姉を見上げていた。日光を背に受け帽子を被っていたあの人の影のかかった笑顔は、見ているだけで安心できた。両親がいなかった僕にとって、姉の存在はすべてだった。

「……お姉ちゃん」

 無意識のうちにつぶやかれた言葉は、雨にかき消される。最初から存在しなかったかのように。

 頭が痛い。身体が熱い。足が重い。僕は、どこへ向かっている。僕は、何をしている。

 思考を断ち切ったのは、雨音よりもはっきりと響くソナーの残響。

 音の出本に視線を送り、籠手を銃へ変形する。銃口を暗闇に向かって構える。

 そして暗闇を切り裂く閃光が眼に見えた瞬間、引き金を引いた。

 だがそれが命中したのかどうかを知る前に僕の身体に強烈な衝撃が襲った。

「……ッあ……」

 先程までの痛みとは比べものにならない、どんなに抗っても身体を動かせないほどのしびれが全身を襲う。焦げ臭い匂いが鼻を突く。

 あまりにも一瞬の出来事で、僕は何が起きたのわからない。意識が二度ほど飛んだ気もする。白飛びした景色が回復しない。足が自然に膝をつく。

 まともに機能しない視界の代わりに周囲の音を聞き逃さないように集中する。ふたり分の足音が、雨に混ざって聞こえてきた。

 顎を強く揺さぶられる。身体が宙に上がる浮遊感と、硬質な壁にぶつかる鈍痛が背中に走る。

 頭がろくに働かない。視界は濁流が覆い、もはや見えても見えなくても関係ない。正確に音を拾わない耳は雑然としたノイズを生み出している。身体がひたすら重い。力を込めていないのに。自分の上に自分が乗っているような感覚。

 誰かに頭をつかまれて身体を起こさえる。顔を何度か殴られるが、そうとわかったのは数発殴られたあとだった。

「起きたな」

「………………ケルブか」

 ようやく状況がわかってきた。僕はどうやら、ケルブとセラフィムの二人組に捕捉されてしまったようだ。彼女らは組織の中でも特に好戦的なメンバーとして知られている。知られても問題ないからという理由でメンバーに“能力”を明かしているほどだ。

 鉄砲玉として僕と違い敵のもとに正面から挑むこのふたりは、音によって広範囲を探索する“能力”を持つケルブと、雷撃の“能力”を持つセラフィムのコンビを組み、数々の抗争を彼女達だけで終わらせてきたという逸話を持つほどだ。

 今度ばかりは相手が悪かったかもしれない。そう思っているとまた殴られる。口の中の感覚が消えてきた。

「ケルブ、そのあたりにしておけって。いくらそいつが嫌いだからってここで殺しちゃいけないだろ。ボスからもいわれてるんだから」

「……セラフィムはこいつを生かしておきたいのか」

「そんなことはいっていない。キレながら話をするな」

「私は冷静だ」

 そんなやり取りの後にケルブは僕の頭を離した。壁に背中がぶつかったのでそのまま預け、力を抜いて座り込む。

「あの音……君の“能力”か。聞くのは初めてだ」

 僕がそういうと、ケルブはみぞおちにつま先を蹴り込んでくる。

「おい」

「余計なことをいう余裕がある。それはいらない。だから削ったんだ。私は何か間違っているか?」

「……いいや」

 セラフィムはそういうと、ケルブと何かしらの話をして、そして彼女は大人しく後ろに下がった。

 そして彼は僕の目線に合わせしゃがみ込むと、口を開いた。

「俺もお前のことが嫌いだけどよ、あの狂犬ほどじゃない。仕事自体は真面目にやってるしな。それにサンダルフォンを倒すほどの相手をみすみす殺すってのも惜しい。どうだ。裏切った理由は知らないが、もう一度やり直さないか」

「セラフィム」

「黙ってろ」

 食ってかかるケルブにセラフィムは圧を持って制する。さすがのケルブも、彼のいうことは聞くようだ。

「まあなんだ。たしかにお前の仕事は過酷だしな。組織としても報酬は十分に出してきたつもりだが、それでも不満があったのかもしれん。それについては不徳の致すところだ。だから、待遇は十分に改善する。ちょうど人手も足りなくなったしな。どうだ。考え直さないか」

「断る」

「……『エイブラハム』はお前の姉、ミカエルが立ち上げに関わった組織だ。それを裏切ろうというのか?」

 姉の名が出た瞬間、身体が熱を取り戻す。胸の鼓動が四肢を動かす。

 だが、僕の反撃はあっけなく、セラフィムが放った雷撃によって摘み取られる。

「落ちつけよ。姉のこととなるとお前はいつも熱くなる」

「……だ、まれ……」

 喉から声が出ない。残り滓のような音が漏れる。

「裏切りを許さないというルールもミカエルが考えたものだ。あいつは仲間を大切にしていた。俺とそこのケルブはあいつとドミヌスと同じ創設メンバーだが、あいつの死は今でも惜しい。だからお前が復讐のために組織に入ってくれたのは少し嬉しかったんだぞ。そんなにミカエルを大事に思っている妹のお前が、あいつの遺産でもあるこの組織を侮辱するようなことがあっていいのか?」

 僕はこの男の言葉を聞いて、たしかにそのとおりだと思った。理由はどうあれ、僕は姉の遺志を汚している。復讐など、姉は望んでいなかったはずだ。だが、僕は果たした。僕自身の安寧のために。

 姉を殺した相手に復讐するために僕はこの組織に頼った。そして引きかえに僕は組織の暗殺者として従わざるを得なくなった。それが僕の願いの払うべき代償であり、罪の重さだ。

「……だが、まあ、お前が断るというなら仕方がない。ここで殺すことにしよう。姉妹ともども、理想を馬鹿みたいに信じる間抜けなやつらだったよ」

 ……何だと?

 その言葉に抱いた疑問を問い返す前に、セラフィムは立ち上がり、胸元から拳銃を取り出す。そして銃口を僕の頭に隙間なく密着させ、引き金を引くことなく倒れた。

 ケルブがそれに反応する間もなく続けて倒れる。

 両者ともに頭から血を流していた。精密な狙撃による致命傷だ。だが、一体誰がこんなことをできるのか。僕にはもう味方などいないはず。

 思考を巡らせようとして、頭の痛みが邪魔をする。眼の前に敵がいたことで張られていた意識の糸が途切れ、僕は深い眠りに落ちた。

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