ロスでの再出発

 ナイトクラブの改装は倹約のため人は雇わず全て自分で済ませました。オープンの時が近づきます。店にあった造花は全て銀色に塗り替え新しい色のコンセプトは黒とシルバーの2色でまとめました。中央にはカラオケ用のステージを作りその上にはドラムセット、コンガ、マラカスとリズム楽器を並べお客様が唄うときにはみんなで音を立てて盛り立てます。幸運にもクラブが流行るのにはそんなに時間は掛りませんでした。2月が過ぎる頃の週末にはお客様のラインが出来るまでになりました。メインのオーナーが来ると「凄いな、この人の数。この店にこんなにお客が入っているのを見るのは初めてだ。良かったよ、君が来てくれて。正直のところ今回やってみてもしだめだったら閉めるつもりだった。」と言っていました。

 半年がすぎる頃パートナーが一枚の封筒を出し、「これはこの店の株券ですが、先輩には25%の株を譲渡して頂く様にボスを説得しました。これからは先輩もオーナーの一人として頑張ってください。宜しくお願いします。」オーナーはとても話のわかる大変に尊敬できる方。私のプランはこの店がハリウッドと下町サンタモニカの間にあることから海外から来ている多くの学生をターゲットに考えてウエイトレスをアメリカ人、日本人を中心に、中国人、ドイツ、韓国、ロシア、オーストラリア人と揃えて色とりどりの人種が楽しめる店を目指しました。そして私は店が閉店するとこのウエイトレス全員を連れ毎日夜食を御馳走しました。働く人たちは皆お店が繁栄する為に毎日よく働いてくださいました。  

 ある日いつものようにコーヒーショップに来ると、アメリカ人のカップルが近づいてきて「プリーズヘルプミー」と言ってきました。私が「どうしたんですか」と聞くと2人はサンディエゴから旅行で来たんだけど現金と財布をすべて盗まれてガソリンも買えないと云うのです。「お願いです20ドルでいいです から貸していただけないでしょうか?住所を頂ければお金は必ず送金いたします。」と言うのです。最初から返って来るとは思っていませんでしたが懐から 20 ドル札を差し出しました。「オーサンキュー ユーアーソーナイス」といって車に乗り込み夜の街に消えていきました。一週間ほど過ぎたある日、またこのコーヒーショップで車を止めていると、「すいません実は私達サンディエゴから来たんですが現金と財布を、、、」「おい君達には一週間前に 20 ドル貸したけど私の顔覚えてないの?」と聞くと2人は一目散に逃げていきました。皆様アメリカではよくあるお話です。いいことをしたと思っている貴方、良い事をしたのではなくいいように騙されたのですよ!

 私は働きました。色々ありましたが今は、今自分が出来る事をやるしかないのです。約 2 年以上私は死にものぐるいで働きました。3年目に近づく頃、この店の将来を考えシステムを少し変えていくことを考えていました。 同じ飲食店でもレストランの場合ですと美味しい食事とサービスを心がけていれば潰れる心配はありませんが、バーやクラブの場合は絶えず新しいものを取り入れていかないとお客様に飽きられてしまいます。すぐにミーティングを申し出たのですが私の後輩と店のオーナーは心配ないと云います。しかし次々に あたらしい店が増えていけばいずれ浮気なお客様は戻って来なくなります。ある日店におりますと数人のビジネスマン風の人がやって来ました。私がステージでドラムを叩いて いますとこの人達がわたしの前に代わる代わるやってきて私をカメラに収め何やら興味深そうに話しています。この頃はまだ携帯もない時代です。ちゃんとしたカメラがなければ写真は撮れない時代です。すぐに分かりました彼等は私がハワイでお手伝いしていた広告代理店のロスアンジェルス代理店の方々です。私があの事件からすべてを失い、一介のクラブのマネージャーになっている姿をカメラに収め、本社に送りつけ、「見ろよあいつも今はクラブのマネージャーになったな!」と噂をしているのです。僻みのように聞こえるでしょうがそうではありません。私にもまだその会社の中に密かに情報を送ってくださる方がいましたから、、。寂しかったですね。少し忘れかけていたあの辛い思い出が頭によみがえりました。悔しさと虚しさで目頭が熱くなりました。(何も考えないようにしよう)自分で自分にそう言い聞かせました。こんなこともありました。事件から何十年も過ぎたある日、むかし私が大好きだった代理店の人に電話をしました。特別なお話があったわけではありませんが時々彼を思い出し、ただ声が聞きたかったのです。電話をして「こんにちは大原さん」と私が言うと「生きてるの?」と一言。私がはいと答えると、「そ~。生きていればいいね。」ととても迷惑そうな声でいうので電話をした自分が悪かったと察し何も言わず直ぐに電話を切りました。プロジェクトを一緒にしていた時はなんて良い方なんだろうと思っていただけにそのあまりの代わりぶりに心を痛めました。ですが彼を恨んだりする気持ちは毛頭ありません。すべての事の始まりと原因は自分にあると分かっていたからです。

 ちょうど3年が過ぎた時でした。私は転職を考え始めていました。私が店を退く事が働いている仲間たちから漏れると何軒からのバーやクラブのオーナーの方たちがうちに来ないかと声を掛けてくださいました。有り難い事でありましたが私と美香は小さくても人に使われず自分たちのお店をオープンする為に既に空き店舗を物色していました。場所はハリウッドの北側スタジオシティの一角に良い物件を見つけたのです。このエリアには多くのTV 会社、ディズニー、フォックスムービー、CBS、レゴムービー、スポンジボブ、サムライジャックとカリフォルニアの大部分のエンターテイメントが密集しています。早速ビルディングのオーナーに電話しました。「あの空き店をお借りしたいのですが」と云うと「 あなたは日本人ですね?」と云うので「なんで分かるんですか」と聞きますと、「私の兄が日本人と仕事をしているのです。」そう云う彼も英語に訛りがある。このオーナーはアルメニアから来た三人兄弟で若くしてアメリカに渡りそれこそジャニターから皿洗いまでして今の財を築いたという人達です。お金を貯め小さな不動産を買い、貸したり転売したりして大きくなった人達です。現在は私の居るモールの別に大きなショッピングセンターをいくつも経営するミリオネアーであります。「日本人は正直だし真面目だしとても信用できる人たちだから喜んでお貸ししたい」と言ってくださいました。また、「これからの開店の準備も考慮して向こう2ヶ月の家賃は免除しよう」と言って下さいました。こうして店は確保したものの、内装をするお金がありません。厨房の器具を揃えるだけで精一杯です。「よし、自分で内装をしよう」以前この店はイタリアン、アルゼンチン料理の店だったそうです。古いカウンターや仕切りを再利用してやっとオープンまでこぎ着けました。「お店の名前はなんとつけよう」当初の我々のプランはTo Go (お持ち帰り、テイクアウト) の店で、カウンターで注文を頂き店内で召し上がるお客様はおいてあるテーブルに自由にお座り頂くカジュアルなスタイルでした。「すぐに目に付き覚えやすく忘れにくい名前がいいなー。あっ思いついた!」「なんて名前?」「これは一度聞いたら絶対に忘れない名前だ」「何よ?」美香が興味深そうに顔を覗いた。「どうだろ う?JAP in the BOX」「えっ!」知り合いに話すと皆が「やめろ」という。「だめだよ。JAPというのは昔日本人を下に見たアメリカ人がよく使った言葉だけど、今やアメリカ人も使わないよ。」丁度日本人が白人を見るとケトウと呼ぶのと同じことだな。「なんだそうか俺はいい名前だと思ったんだけど」聞けば昔ダウンタウンにジャップスという美容院があったそうだが開店後すぐに不評に合い直ちに名 前を変える事になったという。友人の一人が「君たちの子供の名前にしたらどうだ?」「息子の日本の名前は大助だから、そうだ『大 ちゃん』がいい!」それから約一ヶ月後、このスタジオシティ DAICHAN がオープンしたのでありました。

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