第2話 何かの研究所
「アイン、持ってきたよ」
「あぁ、ありがとうございます、未来」
未来が両手一杯に書類を抱えてアインの元にやってくる。未来は彼女に近寄ると持っていた物を机の上に全て載せた。
二人が居るのは小さな部屋だった。中には幾つかのパソコンと机が並べられている。白を基調として物の配置が整って置かれているそこは役所か病院、または研究所を想像させる物だ。
「何か分かった?」
「えぇ、少し。ここはウイルス等の研究所だった様ですね」
「えぇ!?」
火災の起きた町を後にした二人はとある研究所内に入り込んでいた。
「や、ヤバイよ!! パンデミックが起きちゃうよ!!」
「未来?」
ウイルスの研究所、と聞き未来が口元を抑えて慌てて周囲を見渡す。何かに感染することを恐れているのだろうが、もちろんそんなものでは感染を防ぐことは出来ないし本当であれば既に手遅れだった。
慌てふためいている未来をアインは微笑ましそうに見つめ、彼女の勘違いを訂正し始める。
「未来。既に人類はほぼ絶滅しているので
「あ、そうなんだ。……じゃなくて!!」
アインの言葉の訂正に未来が翻弄される。官女は怖がったり納得したり荒ぶったり表情がコロコロと変わっていた。
「早く逃げないと!!」
「未来、大丈夫ですよ」
「何でそんな事!!」
「ここはそこまで危険な施設では有りませんから」
「……そうなの?」
「えぇ、密閉するための設備も無かったでしょう?」
「そういえば……」
未来はこの建物に入ってからの内部の様子を思い出していく。アインと二人で施設を見つけて中を探索した。また資料を探すために施設内を歩き回った。
建物の中には密閉された場所などは存在していなかった。せいぜい研究室のようなものはあったが全てオープンである。太陽光発電の設備が生きていた事もあるが、関係者では無い二人も全ての部屋に入ることができた。
「研究はしていたのでしょうが危険な物では無いのでしょうね」
「なら何の研究をしてたの?」
「それをこれから調べてみます」
アインは目の前のパソコンから目を離して未来の持ってきた紙の資料に目を通し始める。
「パスワードを突破するのはやはり無理でしたので、紙の資料があって助かりました」
「けどこれ」
「えぇ、エスペラント語ですね」
「やっぱり……」
資料は全て未来が読めない文字で記載されていた。あのショッピングモールで見かけた以来のエスペラント語である。あれからめぼしい大きな町などは無く、二人がたどり着いたのがこの研究所だった。未来にしてみれば二度目の言語である。
「相変わらず何なんだよ~これは~」
アインとは別の資料に目を通しつつ未来は頭を抱える。
「基本はアルファベットっぽいけど良く分かんない記号もあるし~」
「初めての言語ですから仕方が無いかと」
「英語と同じアルファベットだからか余計なんかわかんないく、ん?」
言語について愚痴を言いながら資料を眺めていた未来が言葉を止める。彼女はいくつかの資料を両手に持って見比べていた。
「未来。どうしましたか?」
未来の言葉が止まった事に気付いたアインが資料から目を上げて彼女に視線を移す。
「ねぇ、アインこの単語って何なの?」
未来が指さしてきた部分には『AKviruso』と書かれていた。
「この言葉何回も書かれているし、大文字だから何かの名詞だよね?」
「……えぇ、そうですね」
アインは視線を未来の指先に向ける。そうして少し考えた後に言葉を返した。
「何かの名前?」
「直訳するとAKウイルス、ですね」
「ウイルスの名前?」
未来はアインの言葉に驚きながら単語に視線を移した。ここがウイルスの研究所だったのならばこれが研究してたウイルスの名前なのだろう。
「もしかしてこれが人類滅亡の……」
未来は表情を険しくして大げさに言葉を放ちながらその名前を見つめる。先ほどのこの研究所に厳重な設備が無いという事を踏まえた冗談だったのだろう。
しかし当のアインはというとその単語を険しい顔で見つめていた。
「まぁ、そんな訳が。……アイン?」
「え? あ、あぁ、どうしました未来?」
「いや、アインこそどうかしたの? 顔が険しいけど」
真剣に資料を見つめているアインに未来が声をかける。
「……いえ、このウイルスの名前を知っているので」
「有名なの?」
「感染症としては有名、ですね」
「どういう事なの?」
アインの遠回しの言い方に未来が頭に疑問符を浮かべる。アインはとても簡潔な言葉で返答した。
「このウイルスは、一度は全世界の人間に感染したウイルスです」
「すべての人間に?」
「えぇ、そうです」
アインの言葉に未来は信じられないという様に言葉を返す。
「……そんな事ありえるの?」
「条件がいくつか重なった結果ですが」
「んん?」
アインの遠回しな言い方に未来が首をかしげる。アインは資料を机に戻し彼女に向き直る。
「有名なパンデミックを引き起こした感染症としてはペスト、HIV、インフルエンザ、新型コロナなど様々なウイルスがあります」
「あぁ、聞いたことある。新型コロナは確か2020年頃だったよね。医療技術が発達していてなお多くの犠牲者を出したって」
「そうですね。感染者はだいたい人類の5%程だったはずです」
「え? 5%だけなの?」
アインの捕捉に未来は目を見開く。思ったよりも少ないと思っている表情だった。
「いえ5%も、です。」
しかしアインは真剣な表情で言葉を続ける。
「一人の人間の治療にはその数倍以上の人間が必要になります。また感染症は他の場所とは隔離しての治療が必要です。必要なコストは莫大だったでしょう」
「そ、そうなの?」
「病院機能がマヒしてもおかしくは無かったでしょうね」
「じゃ、じゃあ本当にこのウイルスが?」
未来は恐る恐る視線の資料に移す。そこに悪魔でもされているのかのような態度だった。
「……AKウイルスが確認されたのは2050年ごろだったはずです」
「そうなん、……え?」
真剣な表情のアインに未来も真面目に返事をしようとしたがすぐに気が付いた。
時系列が合わない。以前彼女はエスペラント語が使用され出したのは2160年頃と言っていた。
未来はその事を思いだして眉を寄せる。
アインはそんな未来の表情に少し満足げな表情の後に種明かしを始めた。
「AKウイルスの感染拡大の理由は単純です。感染力がすさまじかったのもありますが、感染時の症状がとても軽かったのです」
「え? いや、どういう事?」
アインの様子でからかわれたのだと気付いた未来が混乱しながら問い詰める。
「ほとんど無症状。症状が出ても軽い風邪症状。重症化しても肺炎などが0・0000何%の確率で出現するかどうか。直接の死者は0人だったと言われています」
「え、えぇ……」
あまりに拍子抜けしたのか未来は口を大きく開けて呆れる。
「そんなものでしたから人々は感染対策も治療薬やワクチンの製造もしなかったのですよ。まぁ、感染力だけは目を見張るものはありましたので知識としては有名ですが。ちなみに発見されたのも他の感染症の同定検査でたまたま検出されたそうですよ」
「あぁ、だから条件が重なれば、なんだ……」
未来は先ほどのアインの言葉を思い出す。つまり彼女の言っていた条件とは。
「強い感染力、そして感染対策を全く行わない事ですね」
「……変異ウイルスとか出なかったの?」
「……出なかったことは無いですが大まかな症状は変わりませんよ」
「なんでそんなの研究してたんだろ」
先ほどの恐れ交じりではなく困惑で資料に視線を落とす未来。
「……きっと何か理由があったのでしょう。人類滅亡の間近迄この研究を進める理由が」
アインは資料に視線を戻しつつ、そっとつぶやいた。
「結局ここにも何にもなかったねぇ」
「そうですね」
紙の資料に目を通し終えた後、二人は部屋を移動していた。そこは小さいながらもベッドが置かれている仮眠室のような部屋だった。二段ベットは部屋の左右に置かれていて中央には小さいならもテーブルが置かれている。
狭い場所であったがこの建物自体の損傷がほとんどなかったため、二人は今日の休息をここでとる事に決めていた。今はアインが淹れたお茶を二人で飲んでいる。
「すいません。エスペラント語は読めるのですが内容が専門的過ぎて」
「いやいや、別にアインは悪くないでしょ? そもそも私なんか読めもしないんだから」
二人は今日も収穫が無かったことをため息を吐きながら話し合う。
「けれど幸いこの建物は風化などしていなくて助かりました。そこだけは収穫でしょう」
「あ、それはそうだね。やっぱりテントよりはこっちの方が休めるから」
未来はアインの言葉に頷きながら周囲を見渡す。電気が生きていたためか中の設備のかなり綺麗に整えられていた。塵や埃が無い損傷の少ない建物、というだけで二人にとってはありがたい場所である。
「……そういえばアインと会ったのもこんな場所だったっけ」
未来は周囲の様子を思い出しながらふと思い出したようにしゃべりだす。
「え? あぁ、そうですね。研究所という意味では同じような場所でしたね」
アインの方も彼女が何の事を言っているのかすぐに理解した。
「あそこも何かの研究所だったのかぁ。調べておけばよかったなぁ」
「そうですね。あそこはまだ日本語が使用されていた場所でしたし、何か手掛かりがあったかもしれませんね」
二人は未来が目覚めたコールドスリープ施設について思い出し始める。
「アインの方が先に目が覚めてたんだよね?」
「そうですね。施設内を歩いていたら機械を見つけて、その中に入っていたのが未来でした」
「そうそう目が覚めて目の前にメイド服きた女の人がいたからびっくりした」
「私ももしかしたら死んでいるのかも思っていたので驚きました」
二人は未来が目が覚めてすぐの様子を記憶を頼りに話し合う。
「えぇ、死んでるかと思ったの?」
「未来が入ってる機械には日本語が使用されてましたから。何時の時代の設備か分かりませんでしたので」
「……そ、そっか100年以上放置されてた可能性もあるのか」
気軽に話していた未来がアインの言葉で真剣な表情をする。もしかしたら自分は目覚めず死んでいたという可能性を思いついたのだろう。
「私としては未来からされた質問の方が記憶に残っていますが」
「え? 私なんか質問したっけ?」
しかし、わずかに怯えた表情をしていた未来もアインのいたずら気な表情での言葉に食いつく。本当に何を言ったのか覚えていないようだった。
「ふふっ、施設内を探索して他は誰もいない事、また周囲が荒廃している事から他の人類は滅んだのではないか、という話になったでは無いですか」
「あー、うん。そうだね。え? 私その後なんて言ったっけ?」
「未来は私たちが人類最後のアダムとイブって事、と言ったんですよ」
「……そ、そうだっけ?」
楽し気に話すアインとは対照的に未来は冷や汗でもかきそうな表情で目線を彼女から逸らした。
「えぇ、そうして。いえ残念ながらアダムは居ないようです、と私が返しました」
「い、言わないで!! なんか思い出してきた!!」
未来は恥ずかしそうに視線を逸らしながらアインの言葉を遮る。
「あ、あれはコールドスリープ明けで頭が上手く働いて無くて……」
「いえいえ、あのおかげで場が和みましたので」
「……一応続きを聞いとく」
もしかしたら自分の記憶が間違っているのではないか、と一縷の望みをかけてアインに続きを促す。
「つまり私達で人類を蘇らせないといけないのか、と」
しかしアインは無情にも笑顔で未来が恐れていた一言を言い放った。
「ぬぁああぁああ!!!!!!」
アインの言葉が予想通りであったので未来が近くの枕に顔をうずめる。そうして布の隙間から悲鳴を漏らしながら悶えた。
「私何言ってんの!?!? 女二人で人類復活とか無理じゃん!! ていうか初対面だったアインに子供作らないとって言ったも同じじゃん!!」
バタバタを全身を動かしながら未来が枕に叫ぶ。アインはというとそんな未来の様子を微笑ましく眺めていた。
「いえ。あの状況に絶望してしまわないか不安だったのですので、私はむしろ安心したんですよ」
「……いや、あれはあれで状況が上手く理解できていなかっただけだから。アインが居ないで一人で目覚めてたらそうなってたかもね。ていうか絶対にこの世界で生きてけない」
「それは私もですよ。ですのでお互い様という事で」
「そう言ってもらえて助かるけどぁ。なんか私ばっかり助けてもらってるような」
主に生存に必要な手段全般で、と未来は考えて自分だけだったら一月も生き残れなかったであろうことを自覚する。
「いえいえ、私、一人には耐えられないので」
「本当かなぁ」
冗談めかしたようなアインの口ぶりに、未来は少し疑いを込めた視線を向けつつ手元のお茶を飲みほした。
「ふぁあ」
「未来、眠いのならば先に寝てしまって構いませんよ。電気を消しましょうか」
夕飯代わりの水分補給も終わり、満腹感を覚えた未来が大きな欠伸をする。アインが寝るように促したがすでに未来の目は半分閉じている。
「……いや、そのままで大丈夫。アインはまだ寝ないの?」
「もう少ししたら休みますよ」
「そう……」
アインと会話をしながらも未来の瞼はどんどん下がっていく。もうアインの事を視界に収めているかどうかも怪しかった。
そんな未来を見かねたのか、アインは未来に近づき近くのベットに横たわらせる。そうして布団をかけるとベッドサイドに腰かけた。
「未来、貴方はどうして毎夜毎夜眠いのを我慢してしまうのでしょうか?」
そのままアインは優し気な口調で未来の髪をなでる。優しく優しくいとおしむように、そして彼女を起こさないように。
「だって、アイン、が起きて、るから」
返事をする未来はすでにろれつが回っていなかった。まもなく眠りに入るだろう。
「ふふっ。そんな子供みたいな」
「まだ、10、数年、しか、生きてない……」
「……お休みなさい。未来。安心してください。貴方を置いていくことはありえませんから」
未来はそのアインの言葉に安心したように眠りにおちていった。
未来は夢を見ていた。
それは、自らが目覚めたばかりの頃の記憶だ。長い長い眠りから目が覚めたような感覚。本当に長い間眠っていたのだと気が付くのはもう少し後だ。まず感じたのは眩しさだった。照明の光が目に焼け付くように照り付け、視界がホワイトアウトしていた。
徐々に視覚が慣れてくると目の前に誰かが経っているのが気が付く。
その人物はなぜかメイド服を着ていた。そして驚いたような視線をこちらに向けている。
そういえばアインは最初からメイド服だったなぁ、ぼんやりと未来は考えた。
その後。その後は二人で建物内を探索した。病衣のような衣類から建物中で見つけた動きやすようなものに着替えて。他に誰もいないことを確認して。建物の外が廃墟然とした風景で他に人間はどれだけ探してもいなくて。
結論は他に人類は滅んだのではないか、というものだった。そこからは本当に人類が本当に滅亡したのか、何故滅んだのかをアインと旅をしながら調べている。目が覚めてからずっとアインにはお世話になりっぱなしだった。彼女が生きていなければ私はもう死んでいただろう。何から何まで彼女に助けられている。そう、いつも。
彼女は絶対に私よりも眠るのも遅くて、起きるのも早い。あぁ、そういえば彼女が眠っているのを見たことが無いな、と考えて。
それまでの思考が全て眠りに中に溶けていった。
「……さて」
アインは未来を寝かしつけた後、パソコンのある部屋に戻ってきていた。
万が一にも未来が目を覚ます可能性を低くするため、真っ暗の中で電源を付け起動を待つ。
少し待つと先ほども目にしていた画面が表示された。
『Bonvolu enigi vian ensalutan ID kaj pasvorton』
前に訪れた町で見かけたパネルの画面と似ている。異なっているのは入力欄が2つある事だ。
アインはメイド服の中から未来が建物内を探索している際に見つけた職員証を取り出す。
そこには此処の研究者であっただろう人間の顔写真と名前、そしてIDが記載されていた。
そのままIDを入力する。残る問題はパスワードだった。
アインはそのまま、以前も入力した文章を打ち込んでいく。しかし結果は当たり前にはじかれた。
「……まぁ、さすがに個人のパスワードでは使用しないですよね」
『eraro』と表示された画面に表情を変えずにアインは呟く。何か手掛かりは残っていないかと職員証や残されていた机を調べるも他にめぼしいものは無いようだった。以前のような公共の物はともかく個人のパスワード等はさすがに彼女にとってもお手上げのようだ。
「しょうがないですね……」
正攻法で突破するのは無理だと理解したアインはすぐに手段を変える。
アインが何か行うと画面に変化が起きる。入力画面内に新たなウィンドウが開き、何かのプログラムが起動した。そのままパスワードの入力画面に自動的に文字が入力されていく。
入力された文字は『neniam rezignu』という言葉だった。
その言葉にアインはわずかに眉を寄せる。この職員の事を悼むと同時に納得もあった。
「そう、ですか……」
毎日『絶対に諦めない』と入力してまで研究を続けていた人間の心情とは如何ほどの物なのだろうか。何をしてでも成し遂げたかったのかもしくは、そうでもしなければ心折れてしまいそうだったのか。アインにも判別がつかなかった。
「いえ、きっと両方なのでしょうね」
けれど分かる事もある。この職員がもう居ないという事は結局は耐えられなかったのだ。もう死んでいるであろう職員の事を思い、アインは目を閉じる。そして数秒で目を開けると再びパソコンに向き直った。
「すいません。中を拝見します」
アインは誰ともなく呟くと中のファイルを確認していった。そのパソコン内の内容も全てAKウイルスの物だ。それはプリントアウトしたものだけでは無く、雑多な情報や研究中だっただろう内容も含まれている。彼女はその全てを閲覧していく。
「ミトコンドリア、性腺刺激ホルモン放出ホルモン、テロメアの再生、そして生殖機能発達阻害……」
内容を確認していき、目についた特徴的な単語を読み上げる。そうして自身の知識を相違が無いことを確認していった。
「……やはり、成熟した新人類をどうにかする手段は無いのですね」
結論はやはりというかアインにとって知っていたものだった。しかしわずかな期待も持っていたアインは肩を落としてため息を吐く。けれどすぐに自嘲的な笑みを浮かべた。もうすでに何もかも手遅れなのに何を考えているのだと。全ては終わった事なのだ。
人類はすでに詰んでいる。何が起ころうともこれは変わりようのない事だった。
そして研究の最後。結論に当たる箇所に行きついた。
「……受精卵への介入を行うことができれば、ですか」
その内容を理解してアインが顔を伏せる。結論は彼女の物と同じである。確かに受精卵への介入が出来たらあれに対処はできるかもしれない。それは確かに良い案だあろう。もうすでに実現できない机上の空論であることを除けば最良の方法だった。
「AKviruso. La plej adabla kaj kruela viruso……」
『最も優しく残酷なウイルス』という気取った名前を付けられているウイルスの名前をアインは睨みつける。強制的に人類に恩恵をもたらした後に取り立てを行う、その病態を思い出しアインは頭をかぶり振った。
そのような感性などありもしないのにお似合いの名前だと考えてしまう。特大の皮肉が込められた名前だ。そんな名前が通称になってしまったのだから名づけ人も複雑に違いない。
「はぁ……」
一縷の望みをかけていたパソコンの中にもめぼしい情報が無かったアインは画面から目を離す。
そうしてパソコンを閉じようとしてふと、手を止めた。ただの好奇心でログインの履歴を確認する。今日以前の履歴は117462日前となっていた。
パチパチとアインの目の前で火が燃えている。彼女は先ほど未来への茶をふるまうために熾した焚火の前でたたずんでいた。残り火となっていたそれはアインが燃料となる木を追加したものだ。そうして炎が勢いついてきた事を確認すると、持ってきていた職員証を炎の中に放り入れる。塩化ビニールで出来ていたであろうそれはすぐに炎の中に溶けていった。
職員証が黒い煙を上げてなくなった後もアインはその名残を見つめ続ける。
「……どうか安らかに」
そうして一言呟くと再び焚火をじっと見つめ続けていた。
焚火に使用した木材が燃え尽きたのを確認するとアインは研究所の中に戻ってきた。表情の読めない暗闇の中難なく歩き、未来が寝ているはずの部屋まで戻ってくる。
そうして未来が起きている事、覚醒させてしまうかもしれないことを考慮して音を立てないように扉を開いて中を覗き見る。
覗き込んだ部屋の中では未来が心地よさそうな寝息を立てて寝ていた。少し寝苦しかったのか布団が少しずれてしまっているが、その位である。アインが部屋を出た時と大きな変化は無かった。
変わりない事を確認するとアインはそっと部屋の中に忍び込む。
「……未来?」
囁くように名前を呟くが反応は無い。アインはそのことにそっと胸をなでおろすとアインに歩み寄る。そうして未来が眠りについた時のようにそばに腰かけると、ずれていた布団を肩までかけなおした。
「未来……」
未来の顔にかかっていた髪を優しく払いのけながらアインは再度名前と呟く。さらけ出された未来の表情は安心しきった顔だった。アインはその事に安堵しながら続けて口を開く。
「お願いですから、もう私を一人にしないでくださいね」
未来に聞こえる声で、聞こえないように彼女が寝ている隙に。アインはそっと心からの本心をつぶやいた。
「ん、んんぅ?」
未来は起きた状況がいつもと違うことをまず感じた。首を寝違えた等では無く、いつもより心地よかったのだ。
目を開いて周囲を確認すると自分がいつものテントの中では無いことを気が付く。ここがどこかの部屋の中であり自分がベッドで寝ている事を自覚して、自らの状況を理解した。
「……あぁ、確かアインとウイルスの研究所に来たんだっけ」
眠気覚ましに大きく伸びをした後にベッドから降りる。そしてすぐにアインが部屋に居ない事に気が付く。
「アイン?」
もうすでに目を覚ましているのだろう相手の名前を呼ぶも返事は帰ってこない。この部屋の中には居ないようだった。
「ふぁあ、あぁあ」
未来は欠伸をして眠い目を擦りながらアインを探して部屋を出る。そうして件の探し人はというと研究所の外の焚火の前に居た。
「あぁ、未来。おはようございます」
「アイン。おはよう」
未来に気付いて立ち上がりながら笑顔で挨拶をしてきたアインに彼女は返事をしながら近づいていく。
未来よりも先に覚醒していたアインは焚火でお湯を沸かしていたようだ。
「もう起きたのですね」
「いつもより早いの?」
今の時間が分からない未来はアインの言葉がピンときていないようだった。
「だいたい一時間程早いでしょうか」
「でも別に眠くは無いんだけど」
「ベットだったのでいつもより良く眠れたのかもしれませんね」
「そうなんだ」
二人がそんな話をしていると火にかけられていた鍋からお湯が沸騰した音が鳴り始めた。二人で火元に視線を向ける。
「ちょうど良かったみたいですね。あぁ、そうだ未来」
「ん? 何、アイン?」
ケトルに手を伸ばそうとしていたアインが何かを思いついたように声を出す。疑問に思っている未来へアインは火のそばに置かれていたあるものを未来に見せた。
「研究所を探索していてコーヒーを見つけたのですが飲んでみますか?」
「コーヒー?」
アインが持っている服をに未来が顔を近づける。その手には使い切りのドリップコーヒーが握られていた。
「うげぇ……」
未来はアインに作ってもらったコーヒーを一口飲んだ後に盛大に顔をしかめる。これがアインの作ったものでは無かったらそのまま吐き出しそうな勢いだった。
「み、未来? 大丈夫ですか?」
彼女の様子があまりに酷いものだったからか、アインが心配した様子で未来に駆け寄る。
「何これにっがぁ」
未来はというと忌々しそうに手元のコーヒーを睨みつけていた。
「えと、アイン。コーヒーってもともとこういう味なの? なんか年月が経ったせいとかじゃなくて?」
「え、えぇ。消費期限は問題無いですし、私は変には感じませんでしたが」
「なるほど……」
アインに念のための確認を行った後、未来は困惑した視線を手元に向ける。
「大人には人気の飲み物だったらしいけど信じられない……」
「ミルクも砂糖も無いですからね。すいません。初めてでは厳しかったですね」
アインは申し訳なさそうに未来が手に持っているコップを受け取ろうとする。しかし未来はアインの手を見つめたまま手放さなかった。
「未来? いまいつものお茶を淹れ直しますので」
「アインはもう飲んだの?」
アインの手元には空になったこコップが握られていた。
「え? えぇ。久しぶりだったので懐かしくて」
「……なら別にいい」
「えぇ?」
「これこれはこれでちゃんと飲むよ」
そうして未来は手に持っているコーヒーを飲みほした。
「み、未来?」
一息に飲み干した未来にアインが再び心配そうな声を出す。そんな彼女をよそに未来はわずかに顔をしかめならもそれを胃の中に落とし込む。
「ご、ごちそうさま」
「あぁ、もう」
明らかに無理をしている未来へアインはコップをゆすいでコーヒーを抽出するのに使ったお湯を入れる。
「まだ少し熱いのでゆっくり飲んでくださいね」
「……うん」
未来はもらったばかりの白湯を一口含む。そうしてゆすぐ様に数秒口の中でとどめた後に飲み込んだ。
「ふぅ」
飲み干した後に未来は大きく息を吐く。
「そうまで無理をして飲まなくても良かったのに」
「い、いやせっかくの機会だし」
「まぁ、確かに現状ではなかなか手に入るものではありませんが」
「それと」
未来は言葉を止めてアインを見上げた。
「どうしましたか?」
アインは見上げてくる未来を不思議そうに見つめ返す。
「いや、アインってコーヒーが好きだったの?」
「え、好きというか。嫌いでは無いと思いますが」
「いやいつ飲んだのかな、って」
「……え?」
未来の質問にアインは一瞬言葉を詰まらせる。
「えと、私はコーヒーの事は知ってても飲んだ記憶がないからさ。アインは覚えてたんだなって」
「……なる、ほど」
「ご、ごめんね。少し気になって。もしかして何か思い出したのかなって」
真剣に悩んでいるアインに対して未来は付け加えるように発言する。未来は特に何も考えないで言葉にしたのだろうがアインは言葉を返す事ができていなかった。
「アイン?」
返答をしないアインに対して未来は不安そうに声をかける。
「……すいません。ふと、口にしてしまっただけで。飲んだ事はある、と思うのですが」
そうしてアインは気まずそうに未来へ言葉を返した。
「あ、そうなんだ。けど」
未来が口にした言葉にアインの肩がわずかに上がる。
「これを好きで飲んでた、って大人は良く分かんないや」
しかし次の未来の言葉に安心したように笑顔を見せた。
「味もですがカフェインが入っているから、と飲んでいる人も多かったと思いますよ」
「え、カフェイン?」
「はい。思考がすっきりする。眠気が覚めるなどの効果があったようですから」
「……コーヒーって薬かなんかなの?」
「まぁ、一時期はカフェイン中毒という言葉もあったようですね」
「ほんとに薬物かな?」
「何事もほどほどに、という事です」
アインの落ちをつけるような言葉に未来は納得できていない表情で手元の白湯を一気に飲み干した。
「未来、準備できましたか?」
「大丈夫だよ」
水分を取り終えた二人は荷物をまとめて出発の準備をする。
まとめた荷物を背負ったアインは立ち上がり、来た方向と逆方向へ足を向ける。
「このまま道なりに歩きましょう。今度はまた街にでも行きつくかもしれませんね」
アインがこれからの想定を話すが返事が返ってこない。不思議そうに未来の方へ視線を向けると彼女は研究所の方を眺めていた。
「未来? どうかしましたか?」
「え? あ、ううん。なんでもないよ」
アインから名前を呼びかけられて未来はようやく振り向く。そうして小走りにアインの横に並んだ。
「あの、アイン」
「どうしましたか?」
アインに追いつくと未来は彼女を見上げて口を開いた。しかし何と言葉にすればよいのか迷う様に口をまごつかせる。
「未来?」
「……ううん。なんでもない」
そうして未来は「昨日の夜中に寝ている私に何か言わなかったか」という言葉を飲み込んで前を向いて歩き出した。
「行こ、アイン」
「え、えぇ。未来? そんなに急がなくても」
「目標。今日もベッドで眠る」
「それは、難しいかもしれませんね」
未来に言葉にアインが苦笑しながら足を進めだした。
歩きながら未来は考える。「もう私を一人にしないで」とはどういう意味だったのだろうか。それともただの私の夢だったのだろうか。
未来は判断がつかないまま、アインの手を引いて歩き続けた。
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