Room4▫︎Grothendieck





 この世界が全部、悪意に満ちた嘘だった時、僕たちは何を支えに生きていけば良いのだろう。



 こうしている間にも、「彼ら」は僕らから何もかも奪い尽くして、そしてそれに感謝することも、懺悔することも、それどころか自分達が奪ったものの価値すら知らずに、右から左へ捨てていく。


 初めから、逃げ場なんてどこにもなかった。




「さて、パンドラ・マゥレス・ハウスドルフ君。まずは簡単な手順から始めましょう。この訓練はあなたの脱出力を高め、外の世界での生存率を高めるためのものです。さあ、それでは、目の前の机にあるメモを、声に出して読んでください」




 パンドラ・マゥレス・ハウスドルフことこの僕は、手のひら大のメモを手に取ると、短剣の先で切り裂く。裂かれた紙片は宙を舞い、まるで生きている花のように、床の上にふわりと散った。すると(いつものことだが)、トーリはやれやれと大袈裟なため息をついた。


「また無駄なことを。何でそうも余計な手間を増やすのが好きなのかね、人類君たちは」


 彼らは……先輩たちは、きっと、交流を目的に作られた端末なのだろう。あの日見た夢がトーリ先輩の過去であるならば、きっと奴らは、それを利用しようとしたのだ。僕ら人類で言うところの「人間性」。「絆」。「夢」。「希望」。それを与えてくれる他の生命をこそ、奴らは求めている。己の攻撃性を改めない限り、決して与えられないものを。とめどない破壊に疑問なく身を任せながら求めている。

 きっとこの宇宙の誰も、彼らの孤独な遊戯を止めることはできないのだろう。


「掃除くらい、自分でしますよ。どうせやることもないですし?」

「うーん、どうだかねえ。よく言うじゃないか、人間は忘れる生き物だって」

「人類ディスりも結構ですけど、トーリ先輩たちだって能力的には大して変わんないでしょ。結局奴らに屈したんだから。しかも人類より先に」

「え、これ後先の問題かよ!? 全く……生意気な後輩だな。もう50年くらいほっときゃよかった」


 ぶつぶつ毒づきながらキッチンに向かうトーリ先輩の背を見送ったあとで、僕は椅子から立ち上がる。壁の中に埋め込んでおいた隠しデータを、短剣で取り出す。それは両親の残した隠しログ。なんてことはなく、そうだと長年思い込んでいただけの、ただのゴミデータだ。

 その中には動画も入っていて、壁に投影して再生すると、こちらにめいいっぱいの笑顔を向ける偽の両親の姿が映る。



『ああ、パンドラ。私たちの大切な息子。心の底から、あなたを愛しています』



「……」



 たとえそれが、僕を利用するための、偽りの愛でしかなかったとしても。ここまで心の支えになってくれたことに違いはない。奴らに誤算があるとしたら、騙すことで優位を取れると考えたことだろう。でも、人間は……僕の場合はもっと最悪だ。全部嘘だと知っているのに、毎朝見る笑顔と「愛してる」の言葉だけで、今日一日だけ生きようと、そう思えてしまう。



『さっさと解けーッ! グズグズするなーッ!』



 今日の目玉ギミックは、どうやら大きな柱時計らしい。止まった振り子を今にも振りかざさんばかりにいきり立ち、5と7以外に数字のない文字盤が、こちらに圧をかけてくる。やれやれ。


「これは骨が折れそうだ」


 もし、どこにも逃げ場がないとして。


 僕は思う。と。どうせ逃げられないのなら、せいぜい伏魔殿ここで、楽しくやってやる。殺戮マニアサイコ野郎共の、不毛でワンパターンな遊びになんて、まともに付き合ってやるものか。



「さて。今日は何をしようかな?」



 もちろん、今日も明日も、脱出以外で。

















 ま、とりあえず時計バラすか……などと考えていると、キッチンから卵とベーコンの焼ける匂いがした。またこれか。美味しいけど、こうも毎回だと、やっぱ飽きるんだよなあ。

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脱出日和 名取 @sweepblack3

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