Room2▫︎Alexandrov
狭いキッチンでやかんを火にかけながら、思い出す。
かつて学生であった頃のこと。
……まあ、厳密に言えば今も学生なのだけれど、そうではなく。もっと自然で、たとえば当たり前のように教室に行き、他人と関わりを持ち、帰りには下らないお喋りをしながら、ゲームセンターやファストフード店に寄って、またとりとめもなく駄弁る——そんな時代のこと、だ。
「……ちょっと大きいな」
さっき金庫から採った氷砂糖状の物質——僕はハーシェライトと呼んでいる。室内照明にかざすと宝石のように輝くことからそう名づけた——を、ミキサーにぶち込もうとして、思わず息を吐く。こんな鉱物じみた物を機械で細切れにする必要も、前はなかった。たとえ仮初のものに過ぎないにしても、あの頃は、街に出れば生鮮食品があり、料理店があった。人間の食していいものにはやはり一定の
しかしそんな決まりごとも、もはやない。
ハーシェルでハッキングし、各種値を調整しさえすれば、それは「食べられるもの」になる。結局のところ、僕たちはやはりデータでしかないのだ。
そんな回想に耽りながら頭の上の戸棚を開けると、ざあっ、と鍵の雨が降ってきた。
「……」
いかにも意味ありげな、微妙にひとつひとつ形の違う、無数の鍵。見てはいけないものを見てしまったと思いながら、速やかに棚を閉める。キッチンの床に溢れた鍵からは、『さーてどれだ! どれだ! 本物はどれだ!』と囃すようなコーラスが聞こえる。
『腰抜け! 腰抜け! 早くここから逃げてみろ!』
僕はおもむろにしゃがみ込み、鍵を一つつまみ上げる。そして、『ぎゃー! 何をする!』と金切り声を上げるそれを、口に放り込む。ガリ。ボリ。悲鳴。踊り食い。腹を下す前に自分の胃をハックしなくてはならない手間はあるが、正直それだけの価値は、ある。
「美味しそうだ。俺も一ついいかな?」
聞こえるはずのない声。そんなものには、とうに慣れっこだった。だが、不意に頭上から降ってきたそれは、いつも以上に不自然で異常だった。
「えっ……」
この部屋に来客など一度もなかった。
咄嗟に立ち上がり距離を取りながら、ハーシェルを構えて、「それ」を見る。僕と同じ制服。ただ、一点、ネクタイの色だけが違う。それはエウクレイデアにおいては有り得ないことだった。均一性に重点を置くこの学園では、学年やクラスに関係なく、皆同じ制服を着ていた。
「やあ。俺は君の『先輩』にあたる存在、とでも言っておこう。名前はトーリ・アレクサンドロフ。トーリ先輩、あるいはアレク先輩。君の好きな方で呼びたまえ。さて、どっちにする?」
相も変わらず離せ離せと喚き続ける小さな鍵を、手のひらいっぱいに掴んだその男(華奢で髪は長かったが骨格の感じがそう見えた)は、にこりと微笑みかけながらそんなことを言う。
「……先、輩、って?」
人と話すことすら、ずいぶん久しぶりだった。
その長すぎるブランクのせいか、または緊張のせいなのか、口がうまく回らない。……それに、あくまで人の形をしているだけであって、本当にこの男が人である保証はどこにもない。
「そりゃ、先輩は先輩だよ。先に生まれ、長く生き、故に力を持つ存在。そして……迷える後輩を導くべき存在だ」
「そ、そ、その先輩が、な、何の御用ですか、僕に」
「あれ? 俺の話、スルー?」
「し、新聞なら、間に合ってます」
「なんか致命的に話が噛み合わないなあ……」
発汗と震えが止まらない。脳裏にちらつくのは、忘れたくても忘れられない光景だった。かつて一度だけ、出来心で覗き見た、外の世界——跋扈する異形の踏みしめる轟音、空気を裂く音波。工場での決まりきった作業のように、規則的に宙に射出される戦闘機が、孵りたての幼体に突っ込んでは、音すら立てずにただ、ただ、酸の皮膚の中で溶けた。聞こえていた。発狂したパイロットの、どこまでも意味不明な最期の言葉。それはかつてのクラスメイト、エイリアンを茶化した冗談にけらけら笑っていた、普通の「人間」の。
「……来るな」
予感がした。「これ」は「人」じゃない。
「……うーん、おかしいな。こんな予定じゃなかったんだが。まあ、俺に限っちゃ、いつもそうか。でも残念だな。こうはならないかもって期待してたのに」
ふう、と意味深長なため息をついたかと思えば、トーリと名乗った彼の腕は見る間に液状化する。やがてそれは、再凝固を経て、生々しい触手とも輝ける小銃ともとれる、ひどく曖昧な形に変化した。でも僕は知っている。この曖昧な
「う、あ……」
不意に込み上げる吐き気に、膝をつく。ああ、だめだ。だめだ。今、倒れるわけには。そんな懇願も、生理反応にはまるで無駄だった。吐瀉物が勢いよく喉を通って、床の上に飛び散った。視界が無駄な涙でぼやける中、飾り物の歯がガチガチと音を鳴らし続けている。なぜ。どうして。僕は、僕は、そんなにも。目の前の敵が怖いのか。
「楽になれ」
心臓が管から血を送り出すような自然さで。
放たれた赤い銃弾が、僕の脇腹を貫いた。
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