脱出日和
名取
Room1▫︎Pandemonium
かつて偉い人はこう言った。「この世は脱出力が全てだ」と。
勢いだけの格言にも思えたけれど、確かに彼の言う通りだった。環境汚染で死に喘ぐ地球の命運をかけて土星の月へ飛び立った宇宙飛行士たちは、845本足の敵の攻撃によって黄緑色に燃え盛った宇宙船からの脱出に成功しなければ貴重な物資を持ち帰ることなく全員死んでいたし、ニューヨークが腐食液に濡れた触手と万雷の渦に呑まれた時などは、シェルターに入れなかったが故にただひたすら逃げ続けた貧困層だけが、結果的に惨劇の生き証人としてこの世に残った。つまりそういうことなのだ。逃げるは恥でも悪でもない。逃げる者こそ、救われる。逃げる力はすなわち生きる力であり、逃げぬ者は異端だから、まあ、さっさと死んでしまえばいい。そんな風にして、人類はいつしか考えることをやめた。考え続けることは恐怖だったのだ。訳の分からぬ異星人の思考、分類不能の身体構造、そして彼らの持つ、理解の埒外の戦争兵器の数々。人間は、暴走しがちな己の想像の力によって、粘つく牙と爪で容易に裂かれるひ弱な肉の体に残る最後の正気を食われてしまう前に、安全な牢獄を作ることにした。早い話、上位生命体の完全な管理下に置かれつつあるという辛い現実から、確定した敗北から、人類総出で逃げ出すことにしたのだった。
「さて、パンドラ・マゥレス・ハウスドルフ君。まずは簡単な手順から始めましょう。この訓練はあなたの脱出力を高め、外の世界での生存率を高めるためのものです。さあ、それでは、目の前の机にあるメモを、声に出して読んでください」
パンドラ・マゥレス・ハウスドルフことこの僕は、手のひら大のメモを手に取ると、ゆっくり口に含む。それから、よく咀嚼して飲み込んだ。すると(いつものことだが)、パンジーはやれやれと大袈裟なため息をつく。なんてことはなく、
「エラー。規定エリア内にキーアイテムを認識できません。メルセンヌ・プロトコルに基づき、アイテムを再配布します。再配布には数時間かかることがあります。生徒はその場でお待ちください」
と機械音声で言ったきり、瞬く二つの丸い赤ライトを消してだんまりを決め込む。それもそうだ。彼女はただのAIアシスタントであって、交流を目的に作られてはいない。一般的な文房具を模したキャラクターとして、生徒をナビゲートしながら友好的に振る舞うけれど、その本質は「指示を伝える鉛筆削り」に過ぎない。パンジーという名は僕が勝手につけた。彼女はそもそも名前なんて持たない。女の子ですらない。ここでは、何もかも無意味であることがあらかじめ決定しているようだった。外の世界がそうであるように。
僕、パンドラは、人類最後の脱出力訓練学校エウクレイデアで「留年」を繰り返す、ぶっちぎりの落ちこぼれ生徒だ。
でも、無菌室のようなバーチャルの安全地帯で育ち、外界への期待と救世の野心に満ちた他の生徒と違って、一つだけ知っていることがある。人智を尽くした快適すぎるモラトリウムの果て、「人類の救世主たれ」という壮大な送辞に気を良くしたすべての無知な子らが放り出される「外の世界」がどうなっているか——僕は知っている。死んだ両親が法を犯してまで残した隠しログを見つけて以来、僕の人生は変わってしまった。同級生が熱を込めて語る夢……パイロットとしてエイリアン共を殲滅するのだ、とか、自分は適性がない代わりにパイロット補佐として衛星局に勤めるのだ、とか、そういう次元の話に熱を持てなくなった。真実を知れば誰でもそうなるのだろう。だって侵略者達の破壊行為は、もう、そういう次元を遥かに超えている。戦闘機で戦うだの都市を守るだのは、徐行する自動車の前に爪楊枝の家を置くようなものだ。自動車は全力だろうが徐行だろうがそんなもの轢いたことにも気づかないし、砕け散った小さな家にも、敵が自分を木っ端微塵にしたときどんな気持ちだったのかを知る術は無い。
だからこそ、この最終卒業試験部屋——僕はパンデモニウムと呼んでいる——に、こうしてひとり、逃げ出しもせず、かれこれ5年ほど住んでいるのだった。
「——プロトコル更新。空間の再定義を開始」
とはいえ、もちろん元は「脱出」のために設けられた部屋だ。
居住し続けるためにはデータの改竄と定期的な
パンジーの言葉を聞いて、やっとこさ椅子から立ち上がる。とりあえず「補給」をすることにしよう。弱っていては、何も始まらない。特に何かが始まるわけではないにしても。
『ああ、解いてくれ。』
『解いてくれ。』
『早く、俺たちを明かしてくれ——』
ひどく頭に響く耳障りな声が、また大きくなってきた。
この部屋のオブジェクトは、全てが、ある種の魔力を纏っている——とでも言えばいいのか。家具も、植物も、筆記具も、まるで囁きかける無数の悪魔のように、一定のパルスを送ってくる。「謎を解け」と。「部屋から逃げ出せ」と。これは留年者が増えてリソースが不足するのを防ぐためのからくりだ。卒業試験とは名ばかりで、エウクレイデアの学生は、ほぼ100%
『開けて。私を開けて。』
さあ、まずは鍵のかかった金庫だ。
言わずもがな、4桁の数字を入力すれば解錠できる。
その数字を知る手がかりは、この部屋のどこかに隠されている。
僕は苦しさに少し息を荒げながら、制服のポケットにしまってある、銀の短剣を取り出した。
……この学園の生徒は、入学が決まるとまず仮想世界に接続され、そこで基礎教養と、密室の脱出法(ヒントありきのゲームでしかないので現実じゃまず役には立たないが)を含めた生存技術をひとしきり学ぶ。その間、リアルの体は安全なコフィンへの収容が保証されているので、とりあえず今の人類は、物心つく頃までには此処へ送られる。崩壊寸前の慈悲深い政府の命で。死ぬまでのわずかな間だけでも、気の知れた仲間と学園生活を過ごすという、安楽な夢を見させてやろうじゃないか、と。
でも、それも結局、ただの現実逃避だ。
『ねえ開けて。お願い。私を開け——ぎゃあ!』
ナイフを振り上げ、思い切り金庫を殴る。けたたましい悲鳴が上がり、フレームが歪む。でもまだ金庫は固く、少しヒビが入った程度だ。だからさらに、もう一度殴る。もう一度。もう一度。もう一度。
『やめて! やめてやめてやめて! 痛い! 痛い! 痛いよおおおおおおおお』
ああやかましい。
こうしてナイフを振るっていると、自分が狂っているのか、部屋が狂っているのか、時々自信が持てなくなる。ひとりきりでこんなところに閉じこもっているからこそ、こんな奇行をしているんじゃないか? 間違っているのは世界ではなく、自分なんじゃないか? ……そんな思いに、飛びつきたくなる。だってその方が、どんなにか楽かわからない。
『……ゆるさ、ない』
恨みの言葉を吐きながら、金庫が事切れる。
規定の方法以外で突破されたギミックは、通常ならエラーとして中枢機構に報告され、速やかに復旧する。でも、僕の持つハッキングナイフ——ハーシェルを用いた場合は別だった。破壊したオブジェクトは報告されることなくシステムから完全に切り離され、見た目には「砕けた氷砂糖」のような物質に変化する。これには特殊な機能があり、すなわち欠片を摂取すれば、部屋中に響く呪詛の声に対するワクチン代わりになるのだった。
小さめの破片をひとつ摘み上げて、口の中に入れる。
味はしない。当たり前だが。でもいくらか声は止み、冷静な思考ができるようにはなる。ワンルームの伏魔殿をぐるりを見回して、いつものように、僕は独り言を呟いた。
「さて。今日は、何をしようかな」
もちろん、脱出以外で。
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