真実鏡。
男は特に目的地も分からぬまま、少女の後ろを歩いていた。
かれこれ20分程はこの沈黙の中歩いている訳で、男も流石に酔いが醒めてきた。
少女はあれ以降一言も口を開かず、振り返ることもせず、一定の速度でひたすら店内を真っすぐに貫いているような廊下を歩いている。
足元の軋む木板を蹴る感覚が唯一店の中を進んでいると認知できるものの、代わり映えのない世界観の通路である。
「…なぁ。あとどれくらい歩けばいいんだ?」
男は聞く。
なんせまだ何を見せられるかも分からないのだから、当然の疑問である。
それに対して、少女は立ち止まりも、振り返りもしなかったが、ただ一言。
「もうすぐ着きます。」
とだけ言い、また静かになった。
男からすればまだ聞きたいことは数多あったのだが、何となく、この少女の周囲に漂うこの世のものでないような雰囲気からそれを言い出すのは諦めた。
この店が一体どんな店なのか、何を売ることを目的としているのか。そもそも何を見せられるのかも知らぬまま、歩みを進めてそれを自身の眼で確かめる以外に男には選択肢がなかった。
少女の言葉は嘘では無かった。
ほどなくして廊下は終わり、突き当りを右に曲がったところで少女は立ち止まった。
後ろを付いてきていた男も止まる。
余りに前触れもなく終わった長大な廊下に少しばかり疑問を抱きながら、少女の反応を待つ男は、最早酔いは完全に抜けていた。
立ち止まってから僅かな間をおいて少女は振り返り、その真っ黒な瞳孔で数十分ぶりに男を捉えた。
目的地に着いた、という事を男も理解する。
「こちらが、お勧めの品となります。」
少女は、目の前にあるそれに右手を添えてそう言った。
手が添えられた金色の枠に、渕が斜めにカットされた硝子。奥には誰かの絵が揺れている。
おおよそ見た目は姿見のようなものだが、男が見る硝子の奥にあるのは、姿見のそれに映る自身の姿では無かった。
黒い背景に、小綺麗な恰好だがどうにも合ってないような。そんな何でもない、探せば幾らかは居そうな容姿の男性が描かれた絵であった。
なんとも、見栄っ張りというか、嫌味な人間だろう。
などと、心の中で一旦は男はその絵を一蹴した。
「どうでしょうか。」
少女が尋ねる。
添えた右手を離し両手を体の前で重ねて絵画の左側に立っている少女は、相変わらず不気味なほどの機械的な抑揚ではあったが、男にとっては最早目の前の絵画の価値を見ることが最優先であった。
故に男は特に気にも留めず、もう少し見せてくれ。とだけ返した。
そしてまじまじ5分程見た後、
「これは、誰かの絵画かい?どうやらゆらゆらと揺れている様だが、これはどういう物なんだい?」
と、男は少女に質問した。
男はいい物やブランド物はそれなりに好む者ではあったが、こと芸術にその目は通用しない。それは本人も知るところであった。
男が見るのは価値であり、金。芸術というそれらを考慮しない域では、ただの素材と手元の情報を含めた価値しか見いだせず、本当のそれの存在価値など到底分かるものでは無かった。
故に、情報を求める。
少女はそれに対して、少々の間をおいて答えた。
「…これは、絵画ではありません。鏡です。この世で唯一、真実を映す鏡です。」
男は驚いた。
再びその絵画を見返すが、それは自分の知っている自分の姿とは程遠い嫌味な印象の男である。到底鏡のようには見えない。
それに鏡と言えば、それは全て当たり前に真実を映す物だろう。この世にそれに合わぬ鏡などあるものか。などと、想定を超えた答えに少し混乱していた。
そんな男の思考を読み取ったのか、少女は男に近づいて説明を始めた。
「この鏡は、『真実鏡』というものです。どこかの物語でも似たような名前の物があったと記憶していますが、それとはまた別の物です。」
少女は説明を続ける。
「この鏡を見て、説明を聞いた人のその多くは、貴方のように混乱していました。それは大まかにいえば、この鏡の機能によるものです。試しに、右手を上げてみてください」
少女はそう言った。
男は、説明の前半部分についてはほぼ頭に入っていなかったが、ただ、右手を上げてみてくださいという指示は聞いていた。
最早何の意味があるかなど分からずに、右手を上げた。
そして、少女が『真実鏡』というそれに視線を向ける。
「では、今鏡に映る像はどちらの手を上げていますか」
少女は男にそう問う。
男は、目の前に映る像を改めてしっかりと見て、
「右手を、上げているな…」
と答えた。
…そしてその直後、不気味さに気が付き目を見開いた。
この枠の中にある像は、男の動きと連動していたのだ。
男は鏡というものに慣れていない訳では無い。毎日、自身の完璧な容姿を整えるために前に立って使っている。
しかし、目の前にある鏡のようなそれに映る像は、男が見慣れている男自身の姿ではないと確信していた。印象が違い過ぎるのだ。
それに鏡というものは、必ず映るものは左右反転されて映る。つまり、鏡に映るべき像は左手を上げている像になるはずだ。
しかし男が見る鏡の像は、右手を上げている。
「なんだ…これは…。」
「真実鏡です。」
少女は男の呟きに、そう改めて答えた。
男は、何が真実か、などと思いながら少女に目を向けたが、少女は即座にその疑問を解消するかのように説明を追加した。
「今見て頂いたように、この鏡は真実を映します。左右の反転も、個人的な思いによる影響も全くない、外部から見た『真実』を、ありのまま使用者に与える鏡です。」
男は再び驚いた。
どうやらこの鏡、左右反転しないだけが特徴ではないようなのだ。
…しかし、あまりに唐突な情報の濁流に今までの考察を全て流されてしまった男は、しばらく驚愕の表情のまま、その鏡を見つめる以外に何もできなかった。
この姿が、真実。
光沢のある硝子の奥で揺れる、その像もまた男を見ていた。
これが鏡である証明であり、これが真実だと知らしめるように。
急にあのようなことを言われて、はいそうですか、と飲み込める人間は恐らく世界のどこにもいない訳であったが、特段自らに自信を持っていた男は、その一般人の比ではない衝撃を受けた。
「これが…真実だと…?全然姿が…背景がない鏡など…」
男は自身此処に崩れ去り、という程弱弱しい声でそう呟くが、直ぐに少女の返答によって掻き消された。
「真実です。紛れもない。この鏡は生きるもの、それも目の前に来た一つを対象に機能する鏡です。その対象でない存在から見た場合は、ただの左右反転がないだけの鏡になり、印象の共有などの機能は効果を発揮しません。」
「印象の…共有?」
男は尋ねる。
少なくともこの時点で、知っている鏡の次元にこの真実鏡はないのだと男は察していた。最早常識の通用する物品ではないのだ、と。
更に、『ありのまま使用者に与える』という文言にはその姿のみならず、印象の共有迄も含まれていたと少女は言うのだから、男は自らの持っていた自信が完璧に打ち砕かれたような気分になっていた。
「あまり言葉では説明が難しいですが、周囲の人間が今まで使用者に抱いてきた印象がそのまま使用者に与えられるという形になります。勿論、それら印象も人それぞれであるため、どのようにして平均を求めているのかについては…私も入手したのが昔の為に覚えていませんが。」
少女は淡々と説明を続ける。
男はそれを聞きながら、今までの自身の印象が信じられないほどに悪かったということを、文字通りその身で感じて、打ちひしがれていた。
黒い床の板にくしゃっと座り込み、目線は下を向け鏡を見ぬように。
自信家だった男の余りにも哀れな姿であった。
しばし打ちひしがれて、そして顔を上げ、男は鏡を再び見る。
何も変わる訳では無い。真実鏡はそう言うようにその中に像を浮かべていた。
牡丹のような電球の揺らぎが、まるで消えかかっている男の自信のように空間を照らしている。
「…これは、何の為にあるのだ」
男は自己嫌悪の中、そう呟いた。
このような残酷なものが、何故あるのか。それだけがどうしても気になったのだ。
置いておいても誰も買わない、誰も欲しがらないだろう。
なぜこのようなものを、店に置くのか。どのような目的の物なのか。
予想など最早する気力さえ残っていなかったのだ。
少女は、未だ鏡の左側に立ってその黒い瞳孔で男を捉え続けている。
先程からこれだけ目の前で人が打ちひしがれていても、まったくその心は揺れないのか。はたまた心がないのかと思える程に冷酷だが……
その問いに対しての答えを、僅かな間を伴って少女は語りだした。
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