真実鏡

夜狐。

男と雑貨屋と、少女。


或る都市の寂れた路地裏に、若い男がいた。


男は大層な自信家で、自らの選択は常に正しく美しいものだと自負し、その姿でさえも、全ての世の頂点に在らんとする程の酔いしれ度であった。


このような精神で社会人が務まるものか、と彼を嫌う者はよく言ったものだが、男は気にしなかった。

実際の所、仕事も世渡りも平均より遥かに男は上手であった。

多少は態度が鼻に付こうとその程度では解雇などできぬ人材であり、さして本人が自身に酔って過ごすには苦労しなかったのである。

このような具合なので、友人は殆ど居らぬ者であった。


この日は機嫌よく酒を梯子し、何の意味もなしに路地裏を千鳥足でほてほてと彷徨していた。

目に焦点を合わせる気はなく、普段のやたらと気取った格好は何処へというものであったが、酒の入った頭では何も分からぬものであった。

ふわふわとした浮いた感覚に身を委ねているだけである。



しばらく蛇行しながら歩き続けた男は、ある場所で足を止めた。

歩くのに疲れたという訳ではない。

ただ足が、その黒いアスファルトを蹴らずにピタッと静止している。

首上だけが、歩いていた時とは違う方角を向いていた。

視界が向くは、小さな灯を出すだけの簡素な居酒屋が散見される路地裏の、奥まった一箇所である。

まるで見つかるまいと隠れるように、息をひそめて佇む小さな間口の骨董屋か雑貨屋がそこには在った。


男が近づけば、すっ…と周囲から人気が消える。

それは少し離れれば再び、遠くの自動車の走行音と小さな居酒屋から聞こえてくる陽気な声の重なりが戻ってくる程度の物だった。

しかし、酔った男にも分かることであったが、その数歩で周囲の音が聞こえなくなるほど距離を移動できる訳がなかった。


周囲にメタクリル樹脂の薄い板でもあって、何か不思議な力で、その防音箱の中に入ってしまったのだろうか。


疑問に感じる男は立ち止まる。その黒く、木目の渦が浮き出た木材が大部分を占める構えが、コンクリートの低層建造物が並ぶ中では余りに目立っている。

先程まで、酒にその頭を完全に沈めていたこの男が気が付く程に、その異質さは飛び抜けている。


されど、男以外見えていないのか。それとも誰もが忘れ、もしくは避けているとしか思えないほど冷たく静かな店前の空気に、男は体に回った酒の一部が取り除かれたように一瞬目が覚めた。


此処までに癖の強い店だ。何故誰も見向きもしなかったのだろうか。


…いつものなら自らには似合わぬ店だとすぐに距離を置くものだが、目が覚めて直ぐに、再び酒に飲み込まれてしまった上機嫌な男は、ふらふらと黄色の照明の光る入口へ引き寄せられていった。




牡丹の花程の橙色がかった照明が、揺らぎながら照らす店内。

木製の棚が両側に並ぶ、細い通路が奥まで続く。

おおよそ、想定よりも先まですぼむ通路である。

外観からはここまで長大な廊下が出てくるとは思わないであろうという所であった。

木製の棚には年季が入っており、角が若干削れている。黒く浮き出た板目も店の正面と何ら変わるものでは無かった。

昭和の何時頃か、やたらと見た黒いコンセントが所々でその光沢のある覆いを覗かせている。


少し窮屈に感じる天井高の中の棚に敷き詰められた、ブリキのロボットやら、ガラスの鍋やら、レンズが真っ黒で何も見えない虫眼鏡やらと言った雑貨。

まるで時代に置いて行かれたか、この世ではない場所から来たのか。

もしくは素人が、ただ不思議なものを作ろうとして生み出した出鱈目なものか。

男にとっては、ここは現代の世界にあるどのような想像を超えるミステリーや神よりも、よほど興味深く、不思議な場所であった。


その空間の細かい点などは男は当然認知して見てなどいなかったのだが、それでもこの空間が謎に満ちた空間であり、異世界なのではと感じていた。


酔った観察眼でもそんな事さえ思える、胡乱なものが並ぶ店内を男が眺めていると、不意に後ろに気配を感じた。


「何か、お探しですか。」


酔いがいよいよ覚める勢いで驚き振り向くと、そこには14、5歳ばかりの体躯の少女が立っていた。

紺色の、袖に軽い絞りが付いた長袖にジーンズ。この上に薄茶色のエプロンをしていなければ、男はこの少女が店の者だとは思えなかったであろう。

栗色の長い髪の奥に、黒く大きな瞳孔が見えた。白い肌の対比である。


「なぁんだ、驚かさないでくれよ。」


男は急に安心して、軽く笑いながらそう言った。

左手で後ろの棚を掴み、体重を多少掛けながらへらへらと右手を揺らす。

年季が入っているとはいえ、分厚い板で構成された棚はその程度ではびくともしない。


詳細不明の雑貨屋の中で、酔った男と少女はしばらく黙ったままそこに固まった。

いや、固まっているのはただ少女のみであり、男はへらへらとした表情をしていたのだが、何も喋らずただにやけているだけである。

よく考えれば不思議な状態ではあるのだが、驚いても酒がまだ抜けない男には分からぬことである。


暫くして、少女は表情も体も微動だにさせず、もう一度言った。


「何か、お探しですか。」


少女の声は、響くことも無く店内に消える。黒く、光のない瞳孔が男を一切逃さず見つめていた。

男はそのまるで機械のような受け答えに少々冷ややかな不安を感じ顔を歪めたが、なにも不思議な事ではない。自分が酔っ払いだからだろう、とそれを搔き消した。

そもそも何の用もなく店に入ってきて、ふらふらと歩いているものなのだから、店員の声かけもおかしくはないのだ。


「なにか、おすすめの品はあるかい?」


男は少女から問われた後十数秒の思索を挟み、そう口を開いた。

そもそも特に目的や意図などなしに入ってきた店ではあったが、このような興味深い場所であれば何か面白いものがあるはずだ。

…そんな事を考えた故の行動である。


少女はその発言を聞いてもなお数秒は石のように動かずに男を見据えていたが、その後顎に右手をやり、悩むような表情を見せた。

目線はただ真っすぐに床に向けており、瞬き以外にその視線が僅かでも動く気配は無いが、ごく小さな眉の変化から、どうやらあの漠然とした要望にも応えようと思案している様子は見て取れる。


数十秒の沈黙の後、目線を男に向けなおして、少女はただ一つ言う。


「私の後に、付いてきてください」


静かに回れ右で男に背中を向け、少女は歩き出した。

男が進んでいた方向と同じ、廊下の奥の方へ、奥の方へと。

余りにその奇妙な空気感に僅かに酔いが醒めてきた男は、何か飛んでもない要望をしてしまったのではないかという不安を抱いていたが、此処まで来てしまえば後に引けまい、とその後を追った。


足元の木板が軋む甲高い音が、二人分、どこまで続くか分からない廊下の奥へ消えていく。






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