第4話

 夏休みは駆け足で過ぎゆき、八月も終わりに近づく。その間、達弘はあぶくのような日々を送った。バイトをしているわけではないため、朝方は遅くに起きる。それ自体珍しいことではなかったが、眠りは浅く、二度寝してしまうことも多い。なかなか寝つけないことが原因だ。ようやく朝食の準備をはじめても、時計は正午をまわっているため、テレビはろくなニュースをやってない。


 気だるい体を引きずってオートミールを食べ終えると、今度は一転、活力が湧く。本来の彼はつねにフラットで、垂直に時を刻む拍節器のような若者だった。少なくとも部屋を清潔に保つ努力は怠らない自信がある。にもかかわらず、部屋の掃除はさぼりがちになり、机の上は乱雑だ。ソファには英語学習に使ったタブレット端末がそのまま放置され、床には靴下が落ちている。就寝前に脱ぎ散らかし、そのままだったのだろう。


 高揚した達弘がすることといえば、わだかまる衝動を抱えて外出することくらいだった。連日猛暑日が続いており、大学の同期は避暑地へと出かけ、うだるように暑い東京を離れているらしい。実際そのうちの一人から【タツも一緒に行く?】と別荘に誘われたりもしたが、彼は断った。【ほかにやることがある】と言い訳したものの、その言葉は塗りたてのペンキみたいなもので、心は塞ぎ込む気持ちのはけ口に飢えていた。


 明美の家に転がり込んでセックスすることも考えたが、なぜかそういう気分になれない。達弘は猛然と遠征を思いついた。物置から竿を取り出し、釣り支度をして、家の前にとめたピンク色のママチャリに飛び乗った。日射しが噛みつくほど強いため麦わら帽子をかぶって出たが、外気はからりとした肌触りで、頬を吹き抜ける風が心地良い。目的地は最寄り駅の反対側を徒歩で二十分ほど離れた距離にあり、ブラックバス釣りの穴場として有名な河川だ。達弘にとってそこは気晴らしにうってつけの場所で、月に一度の頻度で足を運ぶ。


 最初にバス釣りを覚えたのは中学の頃だ。クリスマスプレゼントということで生意気にも高価な道具を買い求めたが、いまでも現役で使い込んでいるためコスパは良かった気がする。ルアーは自分で買えといわれ、腹を立てたことも懐かしい。両親を怒鳴りあげることはなかったが、殴りつけていれば気が済んだことだろう。あらゆる面で援助をして貰いながら、達弘は家族に愛がない。


 河川敷の畔にママチャリをとめ、目当ての橋脚へとむかう。薮のような野草をかき分け、脛に傷を作りながら黙々と進む。そこには大小の岩が点在し、釣りにはうってつけのスポットがある。先客がいる可能性も考えられたが、強い日射しを避けたのか、いつもの場所にはだれの姿もない。一メートル四方の平たい岩場に足をかける達弘は、そこにリュックと釣り竿を下ろした。橋桁が陰になるため直射日光の当たらない場所を選び、小型の折り畳みチェアを広げる。リュックには凍らせたペットボトルと干し肉が入っており、きょうは干し肉を削るため新しいサバイバルナイフが無造作に突っ込んである。

 元々ナイフは使い慣れていたが、そういう逞しさのルーツがどこにあるか、彼は考えたこともない。


 自動的に浮かんで消える泡のような毎日は、鷹栖たちとホテルで会った日からはじまったが、決定的になったのは三日前のことだ。与党の税調会長を務める石井議員の地元は山梨県にあり、鷹栖と達弘、そして西野の三人は高速を飛ばし、南アルプスの麓にある議員の選挙区に入った。

 明美で慣れているため気づかなかったが、鷹栖は喫煙者だった。自前かレンタカーか不明なワゴンを運転し、彼女はひっきりなしにたばこを吸った。その様子を見て達弘は、明美とかわすキスのことを連想した。


「起きてる時間が長いと、たばこの消費量が増えてよろしくないですね。でも吸ってしまう」

 煙の行く助手席の達弘を気にしてか、鷹栖は自嘲めいたことを口にする。

 出発前、山梨入りの目的は聞かされていた。すでに二年以上も前から、鷹栖と西野はターゲットになりうる政治家をピックアップしており、日本の経済政策を財政規律でがんじがらめにする男たちの中からよりすぐりの相手を選び出していた。そのなかには政策に対する影響力だけでなく、実現可能性の有無についても検討がなされていて、石井議員の存在が浮上したのもボディガードが緩く、警察の警護といった壁が存在しないことも要因らしい。事実に近い話を「らしい」というのは、鷹栖が計画の裏話に関することをあまりしたがらないことが原因だ。彼女は舞台裏で仕組んだ事柄をあくまで達弘への説明にしか使わず、勧誘のために無駄口が増えることはなかった。最終的な狙いは財務大臣の相沢にあって、達弘は彼の分厚い警護をかいくぐりうる関係者であるから白羽の矢が立ったにすぎず、仲間に引き込む努力は基本的に皆無といえた。


 契約社員というのは、ひょっとしたらこういう存在なのではないか。社会人経験のない達弘は何となく推測を立て、窓の外を見た。

 ちなみに石井議員は今朝がた議員会館を出たことを確認しており、甲州街道にむかったことから目的地も地元だとあたりをつけている。予測にすぎないとはいえ、議員の行動パターンを分析した鷹栖たちの見込みに間違いはなく、議員を乗せた車両は中央道に行き、ここで尾行はやめてあった。ゆるやかに距離を置き、煙に巻くのが目的だろう。


「山梨に着いたらどうするんですか?」と達弘は聞いた。

 鷹栖はハンドルを握りながら「ホテルで待機ですね。地元に帰った日の夜、議員は必ず足を運ぶ寿司屋があるんですよ。翌日の昼はとんかつ屋。その次の日はほうとうの老舗に行き、東京に戻るのがパターンですね。三日のうちどこかで襲撃します」

 その襲撃とやらに達弘が参加しないのはわかっている。しかし彼は、石井議員を標的とした動きの詳細をほとんど聞かされていない。情報漏洩を恐れたのは確実だろうが、さすがにこの段階で口を閉ざすことは考えがたい。


「議員にアタックするのは鷹栖さんですか、それとも西野さんですか?」と達弘はさらに聞く。

「お前は明日、特急で東京に戻る。そのとき同行しないやつが実行犯だ。直前で細かいことを話すほどおれたちはルーズじゃない」

 西野が後部座席から口を挟み、バックミラー越しにふんぞり返っている。達弘はその発言を聞き、この車がレンタカーであることを理解した。そして、自分が信用されていないことも。

「ところで達弘さん」という声が聞こえた。隣に座る鷹栖の声だ。

「石井議員を狙う理由は彼が増税を推進する旗頭だから、それは一面的な理由なんですよ。本当の目的はべつにあるといっても良いのです。その目的が何か、当ててみて下さい」


 視線をむけると、鷹栖は前方を見つめたまま笑みを浮かべている。相変わらず眼球は微動だにしていないが、達弘は胸騒ぎを覚えた。計画の深い部分について、彼は知らないことが多すぎる。もっともこの計画自体、情報量が膨大で、いちいち説明したり解説している余裕はないことも想像はつく。けれど基本は部外者として扱われてきた達弘にとって鷹栖の問いは軽い雑談ではなかった。これまで遠ざけられていた秘密を否応なく想起させる。

「本当の目的……」とつぶやき、彼は考えた。正解を当てる気なのだ。

「何かスキャンダルがあるとか?」

 バックミラーを見ると、西野が脱力して横になっていた。達弘の答えに呆れた様子にも見える。


「確かにスキャンダルといえばスキャンダルですね」と応じ、鷹栖は続けた。

「解答は難しいものではありませんよ?」

 彼女の返答にはヒントが含まれている気がした。ありふれたスキャンダル。政治家にありがちな醜聞。

「汚職ですか。例えばですけど、明らかに国益に反している中国企業の口利きとか」

「だいたい正解です。勘が良いですね、達弘さん」


 晴れやかにいい放った鷹栖は、笑いがやんだあと、わりと想像どおりな答えを口にした。

 三日前、正解を知った達弘は激怒した。想定内の事実を突きつけられたとき、人は二通りの反応を示す。彼には直情的な部分があり、そうなった自分を制御するのは難しい。片足を蹴り入れ、車のダッシュボードをすんでのところで破壊する勢いだった。思い止まったのは偶然にすぎない。


 意識をブラックバス釣りに戻した達弘は、釣り竿を展開しリールを取り付け、鉤素の先端にルアーを結んだ。種類はフロッグを選んだ。ポイントは橋脚の隣が淵となり、水深のある辺りに絞る。夏の日射しをバスも避けるため、日陰になった部分にルアーを投じた。


 そのキャスティングの動きを見るかぎり、達弘は中級者のレベルには達している。だてに中学の頃からバス釣りを続けてきたわけでなく、ルアーをポイントまで送り込む動きは滑らかで、ルアーの着水も自然だった。


 バス釣りとは、ルアーを投じてアクションを仕掛け、バスの食いつきを誘うのが基本だ。もっともオーソドックスなアクションはただ巻きと呼ばれる動作だが、リールを回して一定の速さでルアーを引くのが特徴。早く巻いたり、遅く巻いたり、その日のバスの動き方に合わせて速度を変えていく。適した速さを探るため、この動作を何回もくり返す。他にもルアーのアクションはいくつもあるのだが、達弘はバス釣りのスポーツ性を楽しむときもあれば、頭を空にしたいときもあるため、後者の気分の場合はただ巻きを延々とくり返す。


 しかしこの日、バスの動きは芳しくなかった。ポイントを変えてリールを巻くが、こちらの誘いに乗るような動きは感じられず、食いつきはもちろんなかった。やはりバスたちも猛暑に疲れ果て、必要以上の活動を控えているのだろう。


 達弘は岩場に座り込み、氷の溶けはじめたドリンクを飲み、リュックから干し肉とサバイバルナイフを取り出した。朝食にオートミールを食べたきりで、腹はそこそこ空いていた。削り取った干し肉を噛むと、唾液と混ざるうちにジューシーな味が隅々まで広がり、パンチのある塩味を体が喜んでいる。この干し肉には塩分補給の意味合いもあった。


 約一時間ほど、達弘はキャスティングとただ巻きをくり返した。バスのアプローチを何度か受けたが、食いつきは鈍く、ヒットするには到らずじまいだ。

 集中力が切れかけてきたため、彼は岩場に横たわり、目を瞑った。日光を麦わら帽子で遮り、足を組んで寝る。野外で睡眠をとれるには相当の胆力、もしくは鈍感力が必要だ。達弘はこの歳になるまで自分の取り柄は優秀な頭だと思っていたが、第三者が見れば彼の振る舞いに独特の図太さを感じとっただろう。ひとたび人間関係を離れると、達弘はタフになる。現に彼は、燦々と降り注ぐ陽光を受けとめ、軽く寝落ちした。無防備な姿をさらし、集中力を回復させるために。


 目覚めたとき、日は少し傾いていた。どれくらい寝たかはわからない。時計も見てなかったので確認のしようがないというのが正直なところだ。しかし周囲を見渡すと変化があった。達弘の陣取る岩場の下に草地があった。その縁に立ち尽くす子どもが二人いた。片方は竿を持ち、リールを巻いていて、バス釣りに興じているのは明白だ。


 子どもといっても釣りを趣味とするにはだいぶ幼い。何となく小学四年生とあたりをつけたが、それより下である可能性は十分ある。

 彼は肘を小突かれた気分になり、ペットボトルのドリンクを飲んで、釣りを再開した。今度はルアーをワームに替え、攻め手を変えてみる。子どもたちの投擲した場所と逆の淵を狙い、俊敏な動作でキャスティングした。ルアーに動きをつけるため、小刻みなアクションで釣り竿をしゃくり、バスの目先を変えていく。


 視界の隅では子どもたちもまた同じようにルアーを動かし、そして難なくヒットさせた。子どもの片方は男児で、彼が釣りに興じていた。もう一人は女児で、男児の様子を眺めたり、チョークのようなもので岩場に絵を描いたりしている。容姿に共通点があり、達弘はその少年少女を兄妹と断じた。見たことのない顔だが、最近ここらに引越してきたのかもしれない。


 男児は釣り上げたバスをクーラーボックスに放り、再びルアーをキャスティングした。女児のほうは感嘆の息を吐き、水のなかで暴れるバスを眺めており、その瞳はまん丸だ。自分のテリトリーを侵害されたかたちの達弘は内心おもしろくないが、男児のほうはスンとした様子でじつにクールだ。


 二人の子どもを視界に収めていた達弘は、このとき性懲りもなく腹を立てた。男児はもう一匹のバスを釣り上げ、しかもなかなかのサイズだった。激しく暴れるだけ暴れ、相手がくたくたになった頃にたぐり寄せる様は初心者に見えない。達弘よりキャリアが短いのは確かだが、それでこの腕前では彼の立つ瀬はないだろう。


 二人の子どもはクーラーボックスを持参してきており、釣り上げたバスを食べるつもりなのはほぼ間違いない。スポーツフィッシングの場合、釣り上げた魚はリリースするが、聞いた話だとバスは淡白な白身でソテーにしたら美味だという。


 何となくキャラ立ちした二人を尻目にキャスティングをくり返すが、達弘のルアーに当たりはこなかった。やむを得ず、彼はルアーの種類を変え、男児の狙ったポイントに寄せていく。ある程度距離を保っていれば、同じ場所を探るのはマナー違反ではない。しかし草地に立つ男児はキッとした顔をこちらに向け、あからさまに憤慨している。達弘は構わず、竿をあおってルアーを動かした。そのつれない動作にやる気を失ったのか、男児はルアーを巻き取り、バッグから水筒を取り出して何かを飲んだ。


 邪魔のいなくなった達弘は、ルアーを再びワームに替え、いくどか投擲をくり返した。すると大きな当たりがあった。しかしそれはバスのような糸を引き絞る動きではなく、重くて鈍い当たりだった。案の定引き上げてみると、それは鯉だった。サイズはなかなかだ。バス釣りの外道に鯉が釣れることはままある。岩場に横たわった鯉はパチパチと尾びれを打ち、サンダルを踏みしめたような音で鳴いた。


 陸に打ち上げられてなお、必死に生き延びようとする姿は滑稽だったが、笑いにはつながらなかった。そもそも達弘は、愛想笑い以外の笑い方を知らない。中型の鯉を呆気なくリリースした彼は、岩場にしゃがみ込み、ドリンクで口を湿らせながら、サバイバルナイフで干し肉の表面を削いだ。その様子を、興味深げな顔をした女児がじっと眺めている。


 もしこの場に兄とおぼしき男児がいなければ、自分はこのナイフで女児を脅し、どこかへ連れ去ることができる。だしぬけにそんなことを思う達弘だが、彼が何の脈絡もなく害意を抱くことは珍しくない。達弘は一時期、未解決事件を調べるのに熱中したことがあって、女児の誘拐殺人に驚くほど詳しい。そうした事件の犯人は、ある巧妙なパターンを持っている。彼らはお決まりのように、困った人を装って女児に近づき「手伝って貰えない?」といいながら、目的の場所まで誘導する。それはたいていの場合、犯人の運転する乗用車の内部だ。助手席に押し込まれた女児は「どこに行くの?」と聞くだろう。犯人は車を発進させ「ちょっと行ったところにあるんだ、すぐ着くからね」と答えるはずだ。けれど彼のいう【もうすぐ】は十五分に、ついで三十分に伸び、挙句の果てに一時間を超えて犯人が予定していた殺害場所へと到着する。辺鄙な地で女児を絞殺するイメージを思い描きながら、達弘は目の前の女児を見つめた。女児は気味の悪いものを覚えたのか、兄の後ろに隠れて達弘の視線から逃げた。


 達弘は顔を背け、ルアーをポイントにキャスティングした。頭のなかで彼は、殺害した女児を乱暴に犯した。鷹栖は達弘のこうした性癖を見通し、そのうえでアプローチをかけてきたのだろうか。人間の洞察力には限界があるため、とてもそうは思えないが。


 山梨入りをはたした鷹栖たちは、車を鄙びた温泉宿に向け、一泊することになった。そこで達弘は、西野からだしぬけにサバイバルナイフを渡された。

「お前の道具だ。大事にしまっときな」

 宿の女将に見つかっては具合が悪いため、彼は慌ててバッグにナイフをしまった。切れ味を試す余裕はなく、使い心地は東京に戻ってから確かめれば良いと割り切り、腰に手をあてた鷹栖の声に耳を傾ける。


「昼ご飯を食べに行きましょう。希望はありますか?」

「夜は和食だろうし、洋風なものが食いてぇな。アフガンのカレーが食いてぇ」

 西野がはしゃぐようなことをいうが、達弘は無関心だった。嫌いなもの以外なら何でも良く、仮に受けつけないものが出てきても残すつもりだからだ。

「アフガンならテイクアウトがありましたね。どうします?」

「温泉宿でカレーを食いたくねぇな。店に行こうや」


 結局、西野の主張がとおり、達弘たちは地元で有名なカレーハウスに向かった。車で移動中、西野が襲撃プランを声高に語りはじめる。

 犯行予定日はきょうから三日間。石井議員が食事に出るタイミングを見計らい、三日のうちでもっとも警戒が手薄な頃を狙って襲う。


 そうした口ぶりから、襲撃犯になるのが西野であるとほぼ理解できた。彼は今夜を決行日にしたいらしく、行きつけの寿司屋から出てきたところで殺害する算段を語った。夜闇に紛れ込むことができれば、議員の警戒心もゼロに等しく、地元という気楽さもありまさか命を狙われるとは思わないはずだ。すでに何度か山梨に足を運んでいるらしく、西野は土地勘があるため、あとは殺人にまつわる倫理観にどう対処するかだが、初対面を済ませた九段下のホテル以来、西野にそうした影は見当たらず、むしろ人殺しに対する積極性さえ窺えた。


「おれはこう見えて美味しいものしか食いたくない美食家だが、ここのカレーは抜群に美味い。お薦めはベーコンカレーだ」

 目的地に着いた車を降り、達弘たちは【アフガン】と呼ばれたカレーハウスに入った。年季の入った木目調の内装はおしゃれで、これが東京なら老舗の佇まいだろう。

 ちなみに達弘は、この店にサバイバルナイフを携行した。人のいる場所でも怖じ気づかないメンタルを発揮しろと西野にいわれ、さも自然に装うことを求められたからだ。


 案内された席につくと、鷹栖がお手洗いに立った。テーブルには達弘と西野が残される。配膳されてきたお冷やを一飲みし、西野がいった。


「お前、彼女はいるのか?」

「います」と達弘は答えた。なぜかにんまり笑って西野は話を続ける。

「そいつは良いこった。ところで達弘、おれたち愛国者にとっていちばんの課題は何だと思う?」

 声をひそめた西野が淡々と聞いてきたが、達弘は迷いなく答えた。

「財政問題以外だと、中国との関係ですね。しかしこのままでは日本は中国に負けるでしょう」

「なぜ負けると思う?」

「軍拡のスピードが違い過ぎます。じきに米軍のパワーを超えるでしょう」


 さもつまらない話題であるかのように達弘はいった。おそらく彼は、軍備の増強は間に合わないと思っているのかもしれない。

「ただ、挽回の可能性は一縷の望みとしてありますね。来年にも積極財政に踏み切って、防衛費を倍増。それを十年続け、その間に中国が攻めて来なければ、プレゼンスは拮抗するでしょう。現在のパワーバランスは日本が弱すぎて中国に征服の誘惑を与えています」

「いろいろ考えてんだな。まあ、妥当な意見だろうよ」


 西野は自分が振った話題に食いつかず、雑な締め方をした。しかし達弘の勢いは弾みがついていた。

「とはいえこの件は、政治感の怠慢がもっとも顕著に現れている分野だと思います。このまま中国が軍備を増強していけば、日本を侵略しても絶対に負けないという確信を与えることになります」

「心配屋だな、米軍がいるだろうが」と西野はいった。

「米軍は中国と事を構える気はありませんよ。最大限協力しても後方支援でしょう。尖閣を獲られ、沖縄を占領され、東京をミサイルの射程におさめて降伏させられるという最悪のシナリオにならないために、力を貸して貰えるのがせいぜいです」

「ずいぶん悲観的なんだな」

「あと十年も経たないうちに台湾に侵攻するという噂もあるくらいです。同じ作戦のなかで日本を攻め落とす気でいても不思議はありません」


 声量は絞っているが昼時のレストランでする会話ではない。西野は「やれやれ」とため息を吐き、話を続けた。

「安心しろ。石井議員も相沢大臣も与党きっての親中派だ。二人の席が空いたら、対中強硬派が主導権を持つことになるだろう」


「お言葉ですが、それがもっとも懸念すべき展開です」

 中国を恐れるようなことをいっておきながら、達弘は真逆のことを口にした。そしてそのまま、西野の目線を絡めとった。

「外交問題でいうと、日本にとって最大の脅威は米国です。米軍がいまだに日本を占領している。それなのに彼らは中国と戦争する気はありません。せいぜい横須賀を攻め落とされないために戦う程度ですね」

「どこまでも悲観的だな」と西野はいった。

「現実的ですよ。でもそのことは日本にとってチャンスになる。米軍が日本を守らず、役に立たないことがわかれば、国民の反米感情は高まり、日米安保は破棄されるでしょう。仮に沖縄を失っても、日本人が自力で祖国を守る気になれば悪い結果だけとはいえなくなります。現状の平和ボケっぷりからするに、一度痛い目を見ないと改善されないでしょう」


「おれは防衛費を二倍にしてあと十年粘れば拮抗すると思うがね」

 西野は達弘の意見に同調したが、彼と議論するつもりはないらしく、「まあ、政治家の連中は戦争に勝つ気がないのは確かだろう。それだけ財政破綻のほうが怖いのさ」と吐き捨てた。達弘はその尻馬に乗った。

「中国の脅威では票になりませんからね。献金も集まらないし、米国の利益にもならない。いまの政府は国民のために政治をせず、経団連と米国のために日本を統治してます。中国に負けて市場が荒れたら、日本企業を買う絶好のチャンスを米国の投資家に与えます。日本買いはより強まり、国富は外に流出します。潤うのは一部のグローバル企業だけです」


「そのためにもおれたちが頑張らないとな」と西野が応じると、テーブルにカレーが運ばれてきた。そのタイミングを見計らったかのように鷹栖も戻ってきた。

「何だか白熱した会話をしていたようですね」と彼女はいった。西野は「まあな」と答え、詳しい話は棚上げした。対中政策に関して達弘にも持論はあった。アジアに重点を置く政治をするなら、中国の台頭は脅威ではなく、二十一世紀をアジアの時代にするための決定的な分岐点になるというのが彼の意見だった。


 領土を獲られないためには本気で紛争を起こすのは避け、かわりに核武装し、熱い戦争を起こさせない努力を日本はすべきなのだ。

 もっとも議論がそこに到る前、西野はカレーを食べはじめてしまった。容器に入れたルーをライスにかけ、スプーンでかき混ぜている。あらかじめ両者を一体化させるタイプのようだ。達弘はべつべつにしておきたい人間で、西野の食べ方を汚く感じ、視界から外した。

 鷹栖は皿に目を落とし、大ぶりなベーコンをナイフで切り分けた。その焼きたての香ばしさ、食べ応えのある美味しさを、達弘は思い出した。あのカレーは本当に美味かった、とルアーを巻き上げながら思う。小さな頃からカレーは食べ尽したが、上には上があるものだ。


 彼はルアーをジグに換え、狙ったポイントにキャスティングする。仕掛けに当たりはなく、隣に陣取った男児のほうが釣果は良い。小さな子どもに負けるのは癪だが、腕はなかなかのもので、キャリアの長い達弘よりセンスがあるのかもしれない。


 とはいったものの、達弘の釣果が伸びないのはもう一人の女児に責任があった。彼はその女児を頭のなかで犯し、裸にして組伏していた。愛国という正しいおこないに貫かれた自分が犯罪に手を染めたくて堪らなくなっていることに達弘は打ち震える。


 彼はほとんどの領域で満ち足りているが、肝心な部分を欠いている。一つだけ空いたジグソーパズルのような自分を達弘は持て余している。

 東京に戻ってきて二日目、事件はまだ起きてない。予定どおりならきょう、西野は石井議員を襲撃し、暗殺が実行されるはずだ。鷹栖は帰京しており、西野の行動に焦れながら、ラジオニュースに耳を澄ましているかもしれない。達弘はおかげでバス釣りに集中できないでいる。理由は複層的だった。


 いつ自覚したのかを彼は覚えていないが、動機は鮮明に記憶している。達弘はまだ十代の頃、幼女を襲い、強姦をしたいという衝動を抱くようになった。なぜそのような衝動を持つに到ったのか、彼なりに理由はあった。愛国に目覚めた達弘はまず最初に破壊に到る意志を抱いた。この国を覆う政治の闇を知り、亡国へと突き進む日本を彼は憂いた。民主政を敷いている以上、間違った政治は有権者が正す。それが自由主義国家の制度設計だ。


 しかし現実は違った。論点を間違えるメディアに批判のポイントを外す野党。何より国民自身が、この国が財政破綻するか、年金制度を支えられず崩壊するか、最低でも子孫に莫大な借金を残すかすることを恐れていた。勧誘されたホテルで達弘はそうした観念の間違いを説いたが、誤りに気づいた国民はごく一部で、それ以外はプロパガンダに騙されている。


 正しい答えを知っていながら、選挙で現実を変えられない。達弘は苛立ちを覚え、民主政に期待することをやめた。かわりに暗い感情を抱き、テロが頻発した戦前の日本を取り戻したくて堪らなくなった。そんな彼だからこそ勧誘されたのだろうか。【本物の】愛国者を名乗った彼を鷹栖が誘い、テロは民主政の補完材料だと断言した。そのひと言は、達弘が長年待ちわびた答えだった。

 途中から空は曇りだし、遠くの黒雲に雷鳴が轟いた。雨こそ降らなかったが空気は急に冷えはじめ、バスのあたりも良くなった。ジグを小刻みに動かし、相手を誘うと、比較的口の小さなスモールマウスバスが立て続けにヒットした。空が翳り、辺りが暗くなったからだ。


 入れ食い状態に達弘は興奮し、リールを巻く腕に力が入る。思えばバス釣りに集中しているときは幼女に対する衝動が大人しくなる。現実の日本が抱える致命的な政治課題に思いを馳せると、彼の性欲は幼い女子に向かう。そうした衝動が溜まると我慢できなくなり、卑猥な要素の一切ない漫画で自慰行為に耽るか、さもなくばバス釣りで衝動を発散する。大学の授業や課題で日本政治の問題点に直面すると、再び女児に性欲を抱く。このくり返しを達弘は日常的に営んできた。


 もっともいまや、政治に対する不満をぶつけるはけ口を彼は得た。鷹栖が立てた暗殺計画だ。財務相である相沢議員が講演会に来たのを狙って、謝礼に花束を渡したとき、その役を担った達弘がサバイバルナイフで大臣を刺し殺す。議員は高齢で、恰幅もあまり良くない。首筋か腹部を狙って突き刺せば、難なく殺すことができるだろう。


 世の中、つくづく運が支配している。もし鷹栖が達弘をフォローすることがなかったら、彼女は相沢大臣が母校で講演をおこなうと知らなかっただろうし、そこに筋金入りのナショナリストがいることも気づかずにいたはずだ。長年日本経済を没落に向かわせていた政治家を葬ろうとしてきた彼女と西野にとって、達弘の存在はまさに渡りに船だった。政治への不満から幼女に対する害意を抱き続けた彼にとってもそれは一種の解放に等しい。もう二度と、幼い子どもに殺意を抱かずに済む。


 そんなことを考えているうちに、バスの入れ食い状態は終止符が打たれた。翳っていた日射しは勢いを盛り返し、竿をしならす当たりはぴたりとやんだ。よく見ると兄妹とおぼしき児童は釣りを止め、片づけをはじめている。


 二人のクーラーボックスは大漁のバスで溢れ、激しく暴れている。普通バス釣りはキャッチアンドリリースがつねで、達弘はあらためて怪訝な顔つきになった。自宅に持ち帰って食べるのは確実に見えたが、バス釣りはスポーツの一種であり、釣果を手放すのはマナーだ。一度は見逃してしまったが、やはり咎めるべきだろうか。


 達弘はしばらく逡巡し、子どもらに警告することにした。乱獲が進めば、この辺りの資源が枯渇し、バス釣りが楽しめなくなる。岩場に釣り竿を置いた彼は兄妹に近づき、今回は見逃すがバスを食べるのは感心しないと直接いった。

 男児は心外そうな顔になり、それでも大人の意見を聞き入れる余地はあったらしく、次から気をつけるが、少しだけなら持ち帰っても良いだろうと反論した。二、三匹なら誤差の範囲と思った達弘は、その旨を男児に伝えた。意地悪をいうつもりではなく、ブラックバスがいかに美味しくてもこれは娯楽なのだと。男児は「わかりました」といい、入れ食いだったバスを河に戻し、釣り具の片づけを再開した。


 やるべきことをやり終えたとばかりに、達弘は女児のほうを見た。性欲はまだわずかにあり、彼の視線は不安定にさまよう。華奢な背中を見ていると興奮がぶり返してきて、達弘は我慢の限界を超えた。どうしても女児に話しかけずにはいられなくなった。

「きみが料理するの? それともお母さんが?」と達弘は女児にいった。

 クーラーボックスにしゃがみ込んでいた女児は、どういうわけかトングを持ち、それをカチカチ鳴らして答えた。


「一緒に作るの。ムニエルにする」

 ずいぶんと大人びた返事が戻ってきたことに達弘は驚き、こう続けた。

「そのトングはなに?」

 女児はクーラーボックスで跳ねるバスに向けてなおもトングをカチカチと鳴らした。数秒後、じつにトリッキーな返事がかえってきた。

「バスを威嚇して黙らせてる」


 女児の言い訳は超然とした響きがある一方、確かにバスは大人しくなった。それを見て目的を終えたとばかりに女児はクーラーボックスの蓋を閉めた。彼女の反応に、達弘は世界のあるべき姿を見た気がした。


「帰ろうか」と男児がいい、クーラーボックスを肩に下げた。女児は竿などの道具を持ち、男児のあとに続いた。その横顔は小学生にしか見えないが色気をおびている。じろじろ見つめると相手を刺激するため、名残り惜しむように意識をバス釣りへと戻した。

 強まる日射しを避けるべく、麦わら帽子の庇を下げる。見上げた空には天空の城を思わせる雲がゆっくり漂っている。

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