第2話

 はじめて靖国神社を参拝したのは、明美と付き合ってからしばらく経つ頃だった。愛国者を名乗るわりに、達弘は靖国と縁がなく、そのことを長らくコンプレックスに思っていた。足を運ばなかった理由は、神社というものに馴染めないことが原因だ。子どもの頃から初詣の雰囲気などが肌に合わず、どこか霊的な居心地の悪さも覚えたし、家族と神社詣でする習慣自体、中学へ上がる頃には断ち切れてしまった。


 そんな淋しい過去があるため、達弘は普通の神社と靖国を比べつつ、いったいどこが違うのか思いを馳せた。成人する前後のことではあったが、違いを見いだせる材料はないように感じられた。

 それでも盛夏は、靖国の季節だ。梅雨が明けた時分になると、秘密のアカウントでつながった同志は「初めての靖国」を誇らしげに語りだし、どうだ一緒に行かないかと賑々しく語り合う。そんな人々に触発されたのか、ある夏の日、達弘は意を決して地下鉄に飛び乗った。都内を西から横断して九段下駅で降り、日本武道館を横目に靖国神社をめざす。その途中、彼はなぜか感極まっていた。


 達弘は物心ついて以降、敗戦を正面から受けとめることに抵抗があった。事実として学び、教養はあるのだが、当時を生きた人々の心に寄り添う自信がなく、それが不敬にあたるのではないかと密かに怯えたからだ。当然、英霊の存在に関しては懐疑的。現実と空想を取り違えている典型的な例と感じていた。


 けれどその日は、こうした邪念が消えていた。かわりに始発で赴く彼を出迎えたのは、朝靄に包まれた夏の冷気だった。交通量も少なく、周囲は驚くほど静かだ。道順を調べるためグーグルマップを眺めたが、携帯の画面が涙で滲む。持参したタオルで目許を拭う達弘は、靖国の前に近づき奇妙なものを見る。カーキ色の軍衣を着る若者が入口に立ち、地面に竹箒をかけていた。早朝だから、清掃のボランティアがいるという見立てを彼は持った。そして、もう一つべつの考えが湧いた。達弘は以前にネットの写真を見たことがあった。盛夏の靖国をとらえた一枚の写真だ。そこでは大日本帝国時代の兵士に扮した人々がつどい、互いに敬礼をしたり、日章旗を掲げるなど自由気ままな行動をとっていた記憶がある。いわゆるコスプレというやつだが、同じ格好の人間が敷地の掃除をする習慣があるのだとすれば、目にした光景に違和感はない。達弘はむしろ、自分が泣き腫らしていることが恥ずかしくなり、箒を持った若者の横を足早にすり抜けようとする。

「…………」

 若者はこちらを見上げ、唇を結び、無言で頭を下げた。何気ない動作だが、折目正しいという言葉が嘘ではないと思えるほど礼儀正しく見えた。年齢差は感じられず、ひょっとすると自分より若く見える気さえするが、達弘は顔を拭き、思わず頭を下げた。かすかな威圧感を覚えながら、挨拶をやりすごして敷地に足を踏み入れると、そこはさらに涼しかった。少し肌寒くすらある。まだ開門したばかりの靖国には清々しい光が注いでおり、道行く参道にもさきほど出会った若者と同じ様子の男が数人いる。全員軍装で、齢は上に見えた。無言で通り過ぎることに抵抗を感じ、彼は「ご苦労様です」とひときわ背の高い若者に声をかけた。モノクロ写真から抜け出したような兵士姿に違和感を覚えつつも、コスプレの本気度が高いとしか受けとる余地はない。そんな男たちが点在する靖国はこれまで経験した神社と何が違うのか。大鳥居の前に立ち尽くした達弘は考え、素朴な答えを得た。それは畏怖だ。荘厳な建造物に心を動かされた部分もあるが、彼はこのときもう気づいてた。敷地内を清掃する兵士姿の若者たちはコスプレをした連中ではない。彼らは本物の兵士なのだ。靖国に祀られた英霊たち。じつに突拍子もない発想だが、達弘には根拠があった。子どもの頃、神社から足が遠のいた理由は日常におさまりきらない神々しさが原因の一つだったが、当時の彼は肌で感じていたのだろう。神社に祀られたご神体の存在を。他人より敏感だったことから、そのとき筆舌に尽くしがたい畏怖を抱き、敬して距離を置いたのだ。


 参道を恐る恐る歩いていくと、箒を持った若い兵士がこちらをじっと見つめ、意識をむけると無言で敬礼をしてきた。達弘はそんな真似をされるほど偉くないので、急いで首をすくめてしまう。次の鳥居をくぐると、遠くから軍靴を踏みならす音たちが聞こえてきた。参道の左側を隊列が進み、ゆっくりと足を上げ、几帳面なしぐさで下ろす。実用的な動きというよりは、儀礼的なものに見えた。少なくともそれは、達弘に見せつけるための動作には思えない。現にその隊列は、立ち止まった彼の脇を通り過ぎ、幻のような気配を残し離れていく。


 靖国という神社は日本国に命を捧げた人たちの魂が眠る。そうした考えはどこまでもスピリチュアルだが、達弘にとっては呆れるばかりにリアルな体験をもたらした。拝殿に足を踏み入れると鳥が飛び立つようなざわめきが湧き、無数の英霊が蒼然と彼を出迎える。さきほど見た兵士らと異なり、視界に何も映らないのだが、目に見えぬ存在がひしめき、拝殿にわだかまる確かな実感があった。首筋の辺りが粟立ち、両目から溢れ出る涙がこぼれた。達弘は物心ついて以来、涙を流すことがほとんどできず、泣くという選択肢のない人生に幻滅してきた。喜怒哀楽は存在しているのに伝達手段がなく、他人と共有することができないからだ。けれど靖国を訪れることにより、達弘は生まれてはじめて心から泣けた。拝礼を終えたあとそびえたつ鳥居をくぐり、拝殿にむけてもう一度頭を下げた。達弘は靖国に紛れもなく英霊を感じとった。日常からほんの少し離れた場所に、たったひと言では形容できない人間の壮絶な生き様が根を下ろしている。英霊は国の過去を担い、自分は現在を生き、跡継ぎに未来を託していく。そうした連鎖を、たった少しばかりの時間で明瞭に感じとった。こうした異様な体験は、彼の愛国者としてのあり方に影響を及ぼした。英霊を祀る神社に少しも心を動かされない参拝客は国を愛しているのかもしれないがその資格を持つとはいえない。裏を返せば、英霊の御霊を鮮明に感じとり、その唯一無二の生き様を覗き見ることは、並みの愛国者にはできない芸当だろう。最初の靖国体験において達弘はそう考えるに到り、スピリチュアルな感覚を呼び覚まされた自分を肯定的に捉えた。それ以来、彼は国を愛する気持ちに揺らぎが生じ、迷いが芽生えたときは必ず靖国を訪れ、英霊に話しかけるようになる。彼らは寡黙だが、意外なほど真摯に相談を聞いてくれた。ほどなくして達弘は交流アプリのプロフィールを書き替える。【本物の】愛国者というくだりが追加された。


 最初の経験にもとづき、この日の達弘もタオルを所持していた。靖国とその英霊に触れると、彼は心の波長が変化し、涙腺が決壊してしまうからだ。地下鉄に揺られている間は携帯に意識を集中させ、心ここにあらずだったが、九段下駅の地上に出た頃から優しい音楽が頭をよぎり、鼻の奥が疼きはじめる。達弘はだれかと一緒に靖国を訪れたことがなく、これから人と会うことは彼の人生に何らかの影響を及ぼすかもしれない。敷地に入った頃にはいつもどおり涙が溢れ出し、最初の鳥居をくぐると軽い嗚咽が達弘を襲った。そんな彼を案ずるように、箒の手を止めた英霊たちが畏まって敬礼をしてくれた。達弘は思わず号泣し、手にしたタオルで顔を隠した。携帯を取り出して見ると約束の時間まで十五分ある。先に参拝を終えようとした彼は、こぼれ落ちる涙をタオルで受けとめながら、拝殿へとむかい、列をなす客の後ろに並ぶ。


 やがて自分の番が来た達弘は、手にしたタオルを首にかけながら前へ進み出て、直立不動の姿勢で二回腰を折った。ついで柏手を打ち鳴らし、無数の英霊へと語りかける。きょうも無事に生きていられること。その当たり前だが、かけがえのない事実に感謝を捧げ、彼はもう一度腰を折り曲げる。拝み終えても英霊とのつながりは断たれたわけではなく、後方に退いた達弘は鳥居に触れ、その手触りを確かめながら自分の近況を声に出す。そばにいた兵士は後ろ手にまわし、しかめっ面で彼の話を聞いた。話の中心は付き合っている明美の件だった。両親にも語らない彼女の姿を、達弘は英霊に惜しげもなく話す。カーキ色の軍衣を着た英霊は、真面目くさった顔で耳を傾けてくれる。達弘のおしゃべりはいつになく長かったが、彼にとって時間は無限ではない。携帯を見ると約束の時刻が迫っていて、慌てた達弘は社務所の前にむかう。彼の利用する交流アプリにはこんなメッセージが届いてた。【鷹栖】という男からのものだった。


【社務所の前で待ち合わせましょう。当日はよろしくお願いします】


 約束どおり売店の前に着くと、若い女性がハンカチで涙を拭っていた。感受性の強い愛国者が泣くのはごく自然な行為であり、驚くに値しないのかもしれない。それでも人前で泣くことのインパクトは強く、彼はこの女性に無言の共感を示し後ろを見あげた。まじりけの一切ない美しい青空が広がっていた。


 しかしそれから数分経ち、彼が合流を約束した【鷹栖】という男は待てど暮らせど姿を現さなかった。神聖な体験をした矢先にイラつくのはバツが悪く、達弘は極力呆けて何も考えないようにした。そうした意図的な沈黙は、隣に近づいてきた女性によって簡単に破られてしまう。

「間違いだったらすみません、達弘さんですか?」と女性は聞いた。彼は本名で交流アプリを利用している。

「はい、そうです」と達弘は答えた。この時点で彼は、自分の間違いに気づいた。

「もしかすると鷹栖さんですか?」と尋ねた。女性は「鷹栖はわたしです」と応じた。


 人間はときどき勘違いをする。原因は思い込みだ。達弘は待ち合わせの相手である鷹栖を男だと決めつけていた。交流アプリの顔写真が男にしか見えなかったからだ。しかし目前に現れた【鷹栖】は髪こそ短いが化粧をしていて、性別を見間違える余地はなかった。写真と実物に落差があることは珍しくない。


 いずれにせよ、待ち合わせの相手と合流できたので課題はクリアした。鷹栖が女であるという想定外はあったものの、相手が女性だからといって達弘の心境が変化することはない。それどころか彼女がハンカチを手にしているのを見て、参拝時に涙をこぼす人間とわかり好印象を抱いたほどだ。自分と同じ本物の愛国者と見て間違いあるまい。


 もっとも、鷹栖の登場に驚くのはここまでだった。達弘は意識を切り替え、境内の外へ歩きだす鷹栖にこんなことをいった。

「どこ行くんですか、ここは喫茶店もありますよ」

 彼は待ち合わせ場所が靖国となったことで、用事もそこで済ますと考えていた。しかし鷹栖の思惑は異なるようだった。

「近くのホテルに部屋をとっているので」と彼女は答え、達弘が追いつくのを待った。

 鷹栖が彼と会いたがった理由は、発行している機関紙の取材だと聞かされている。喫茶店で済む用事に思えるが、実際はホテルを借り切るほどの大仕事なのだろうか。社会に出ていない達弘には勝手がわからない。鷹栖の隣に並び、黙々と足を運ぶ。


「急に突っ込んだ話を聞いて申し訳ないのですけど、愛国者になった理由は何ですか?」

 再びせっかちに歩き出した鷹栖が聞き、達弘はその後ろを追いすがるように答えた。

「形から入ったんです」と彼は息を切らせながらいう。

「おれは心が弱かったから、軸になるものが欲しくて。ネット越しに同志ができるのも嬉しかった。同じような考えを持つ人に触れあうと孤独が癒される気もして」

 初対面の鷹栖に対し、達弘はのっけから饒舌だった。本人は自分の口が軽いという自覚はない。

「正直なところ、釣りをすること以外にろくな趣味もないんですよね。国を愛すること以外に楽しみがない」


 最後のひと言は告白に近かった。そのせいか、先を行く鷹栖が後ろを向き、達弘と目が合った。

「つまり達弘さんは心の支えが欲しかったのですか?」と鷹栖が聞いた。

「そうですね、ありていにいえば」


 鷹栖は何もいわず前をむき、気ぜわしく歩き出した。達弘はそのやり取りに不安を覚え、もしかすると自分は間違った答えを口にしたのではないかと思った。もしそうだとすれば、正解は何だったのか。答えはわからない。

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