スクールボーイ・アサシン

影山ろここ

第1話

 明美のガサツさはいまにはじまった話ではないが、この日は特にひどかった。そもそも会う約束など一つもなかったのに、午後になってから突然【試験勉強終わったでしょ、遊びに行くね!】と朗らかなメッセージが送られてきた。そのとき達弘は自宅にいたし、試験勉強も確かにひと区切りつけていたが、ファンシーな絵柄の四コマ漫画を見ながら粛々と自慰行為に耽っている最中で、射精は間近だった。明美のメッセージを読み終えた彼は、手にした携帯を置き、大きなあくびをする。せっかく勃起させた性器をボクサーブリーフにしまい、ズボンをはき、冷蔵庫へいって炭酸水を飲む。射精を邪魔された不満は、鮮烈な泡となって口腔に霧散する。


 お嬢様然とした容姿に反し、細部に無頓着な明美と付き合って辟易させられたことはいくどもある。今回にかぎれば達弘の願望は単純で、せめて【遊びに行って良い?】と確認するデリカシーが欲しいのだ。同じようなことは以前にもあり、そのとき達弘は指摘した記憶がある。おれの部屋に来るときは一方的な連絡は慎んで貰えないかと。答えは驚くべきものだった。


「邪魔なら帰るから良いじゃん」と明美は申し開きをした。その口調に悪意は一切感じられず、反省など無いに等しい。当然のことながら、抗弁はいくつも浮かんだ。いちばんクリティカルなのは、明美のような行動は相手に罪悪感を抱かせるというものだ。

「バカなこといわないでくれ、追い返したらこっちの気分が悪いんだ」


 達弘としては世間を代表して正論を口にしている、そんな気分だった。しかし明美の反応は予想の斜め上をいった。

「もし気分を害したら、謝るよ。言葉だけじゃなくて行動でも示す。何でもして良いから」


 見開いた瞳は意志の強さの表れ。ここで達弘が「謝れば済むと思っているのか?」と強気で攻めたらどうなるだろう。逆ギレしたことになってしまうのではないか。達弘は物事を公平に見分ける視野をもっており、頭は概ね秋霜のように冷めている。おかげで彼は気がつくことができた。他人に迷惑をかけないべきだという価値観を、明美に押しつけようとしていることに。


 おのれの到らなさを知ると人は寛容になる。この日以来達弘は、明美に違和感を覚えても表に出さないと決めた。配慮を欠いた相手と交際を続ける以上、広い心で受け入れなくてはならないと腹を括ったのだ。


 炭酸水の空きペットボトルを分別袋に放り込み、達弘はたったいま励んでいた自慰行為の後始末をはじめる。明美の住むアパートはひと駅ほどしか離れておらず、自転車を飛ばせば十五分程度で到着してしまう。残された時間はあまりなかった。


 リビングに戻るとページを開いた漫画がテーブルに投げ捨てられており、それを畳んで本棚の奥にしまった。証拠隠滅という点でより注意すべきは半裸になったことで落ちた陰毛などだ。先に漫画本を片づけた達弘は玄関の物置からハンドクリーナーを取り出す。狙いを定めたのは直前まで性器が付着していたソファの辺りで、目視できる陰毛や毛髪ばかりではなく、表面についたゴミなども一緒に吸い取っていく。


 恋人がこないかぎり室内をきれいにする気のない者も多くいるが、達弘は日常的にこまめな整理清掃を心がけており、テーブルに載せたリモコン、携帯、タブレット端末は、愛用の洗顔シートに対し直角に置いてある。床に読みかけの本や脱いだ衣服が転がっていることはまれで、甘いフレグランスの消臭剤はすぐ手に届く場所にある。達弘はソファの背もたれや座面ばかりか、床に敷いたラグの表面も丹念にハンドクリーナーをかけた。色彩がオフホワイトだから、目を凝らすと体毛が非常に目立つのだ。明美はガサツな性格のわりに観察眼が良く、まだ付き合いたての頃、クッションを渡したときに精液の付着を指摘されたことがあった。乾いたコメであると達弘は言い訳したが、明美は頑として認めなかった。


 彼女はラグの染みに対しても敏感だった。達弘の記憶が確かなら、その染みは元カノとセックスする際、ピンク色のローションを用いたのが原因だ。一応クリーニングには出していたのだが、明美はそれを性行為に結びつけて非難し、仕方なく達弘はラグを新調するはめになった。人間は一度受けた傷を死ぬまで忘れない生き物なため、それらの件が達弘を子育て中のガゼルみたく過敏にさせたのは確かだ。彼はラグに絡まった毛髪を全部陰毛扱いされる不安に駆られ、ハンドクリーナーの手を休めるタイミングを失っていた。そんな達弘の背後から、絶叫に近い声がした。


「お邪魔するね!」

 音が出るほどの勢いで振り向くと、そこには明美がいた。夏らしい空色のワンピースにアクセントとなる細いベルトを巻き、肩にトートバックを下げている。

 二人は互いの部屋の合鍵を所持しており、おそらくドアの開く音に気づかなかったのだろう。そんなことは普通はないが、何かに没頭したときの達弘は周囲の音が聞こえなくなり、明美の来訪を無視することは日常茶飯事だ。彼は「ごめん、気づかなかった」と応じたが、目の前に立つ明美は強風に煽られたように髪を乱し、ワンピースもところどころ濡れそぼっている。


「どうしたの?」と達弘が聞くと、明美は荷物をソファに放り出し、体を犬のように震わせた。

「通り雨に降られた! ドライヤー借りるね」


 このとき達弘は、ようやく外の様子に思いを馳せた。窓際に立ち、眼下の歩道を見やると、傘をさした人々が忙しなく行き交っているではないか。突然降り出した雨とぐしょ濡れだった明美が、達弘の頭のなかで一つのエピソードとして結びついた。


「日傘しかなかったんだよね。それに自転車だからけっこう濡れちゃって。ほんともう堪んないよ」

 ドライヤーのある洗面台から明美の声が響き、その嘆きは女子にしては荒っぽい。通り雨を降らせた張本人がいたら、容赦なくどつきまわしそうな怒りを放っている。むろんその程度の感情なら達弘も慣れている。彼にとって想定外の事態は、明美がリビングの入り口まで日傘を持ち込んでいたこと。そして濡れたトートバッグを掃除したてのソファに載せたことだ。彼は急いで使い古しのバスタイルを取り出し、濡れた日傘を拭き、玄関に移した。同じようなタオルをさらに二枚用意し、一方は日傘で濡れた廊下を、もう一方はトートバッグとソファを拭くことに使った。いきなり降って湧いたアクシデントに対し、じつに的確な対処だったため、達弘は自分の対応力に感心する。もしべつの男が明美の彼氏なら、こんなにうまくはできないだろう。


 しばらくドライヤーの音が騒々しく聞こえていたが、達弘はその音を尻目に水を吸ったバスタオルをランドリーバスケットに放り込み、やりかけで止めたハンドクリーナーを再び動かす。明美はおそらく、濡れたワンピースにもドライヤーをかけていたのだろう。思いのほか時間が経ち、彼女が部屋に戻った頃には部屋の掃除は片づいていた。ラグにブラシをかける余裕すらあった。


「ひえー、通り雨サイアク。せっかくおしゃれなアレンジしてきたのに。良い感じでしょ?」

 あらためて見ると、明美の髪型はハーフアップで、三つ編みにした髪が後頭部で結わえられている。見慣れた髪型だが彼女に似合っており、達弘は小さく頷き返してハンドクリーナーとブラシを戻すため廊下へ出た。用事を済ませ部屋に帰ると、ソファの上にしゃがみ込む明美がたばこを吸いはじめていた。彼女は所属する大学サークルでも指折りのヘビースモーカーで、通り雨に降られた腹いせかいつもの倍以上の速度で煙を吐き、その度に顔面をしかめている。たばこを吸わない達弘には共感できかねる部分があるため、彼は明美が喫煙する姿を好ましいと思ったことはない。ただ、個人の趣味志向に介入する気もまた皆無だった。気に留めたのはむしろ、明美がソファにしゃがみ込んでいることだった。せっかく掃除したというのもあるが、私物を踏みつけにされて気持ち良い人間はいない。


 だが、癇に障ったのは一瞬だった。唐突にリズムを刻み出し、たばこの灰を落としラップをつぶやかれないだけましだと考え、達弘はキッチンに行きお茶の用意をした。性格に几帳面なところのある彼は、この部屋に転居したときから来客用の食器類を所持しており、ドリンクの買い置きも切らしてない。明美は喉が渇くと緑茶を好んで飲むため、二人分のグラスをお盆に載せ、リビングへと戻った。


 そのとき明美は、たばこを片手に持ち、何かを凝視していた。達弘のタブレットだ。私物のタブレットを「大きな画面で見たい」といわれて貸すことはけっこうな頻度である。それゆえ目くじらを立てるようなことではなかった、何事もないのであれば。

「日本の再生を願う本物の愛国者?」

 タブレットを手にした明美が、喫煙をやめてぽつりといった。彼女が口にしたのは、達弘の設定した交流アプリのプロフィールだ。タブレットの電源をオフにする際、アプリを閉じないことはしばしばある。何気なく電源をオンに入れたことでアプリの画面が見えてしまったのだろう。


 だがそこには問題があった。明美が目にしたであろうアプリは、大学の人間や地元の友人とつながっておらず、趣味に特化した秘密のアカウントだったからだ。詳細に調べられると大変まずいことになる。彼女の声を聞き取った達弘は即座に対応策を考え、慌てて奪い取るとその魂胆を怪しまれるため落ち着いて動いた。お盆に載せたグラスを置き、タブレットを覗き込む。幸い明美の手はプロフィール画面で止まっていた。ユーザーが送るコメントにはまだ目を通していない。


「ねぇ、本物の愛国者って何?」と明美がこちらを振り返る。

「偽物じゃないって意味だよ」と達弘は返した。それ以上深い入りする気をなくすため、取るに足らないものを見たときの顔をする。彼は知られたくはないのだ、ひたむきに隠し通そうとしてきた裏の自分を。

「うわはは、愛国者に本物と偽物があるんだ。知らなかったよ」


 タブレットを片手に明美は喧しく笑った。反動でたばこの灰が落ち、彼女のワンピースの裾を丸く焼いた。火の消えた灰も床にパラパラと散る。「あーごめん」と謝り、明美は目前の洗顔シートを利用して落ちた灰を拭いた。ワンピースには焦げ跡が残っており、それを見た明美の顔がくしゃりと歪む。これまでの傍若無人ぶりをまるごと反省したように眉を下げた。放っておくと泣き出してしまいそうな顔だ。


「勝手にアプリ見てごめんね。達弘がどんな考えを持っていても、それをとやかくいえる立場にないし、否定する気は絶対にないから」

 週イチ萎れた態度の明美を横目に、タブレットを取り返した達弘は交流アプリを閉じて電源を落とした。明美は置かれたグラスに口をつけ、失態を骨身に感じている様子だ。それを見て達弘は思う。内緒でべつのアカウントを開設したのは、親しい人々にとって自分が内に秘める顔は異物だと思い知ったからだ。彼にはこまめで穏やかな部分とはべつに、好戦的で容赦ない部分があった。そういう自分は交流アプリを利用する際に表面化することが多く、相手に忖度しないため、長い目で見ると友人知人が減った。自覚したのは高校の頃で、受験に対する向き合い方の違いで大事な仲間が次々離反した。自分をとことん追い込むと宣言し、日々ノルマを課す彼の言動を目の当たりにして、まわりの友人は同じことを強要される気持ちをあじわったのだ。温度の違う人間と日常的につるむのは難しい。そのことを実感した達弘は大学では同じ間違いを犯すまいと、アカウントを二つに分け、自分を半分隠すことにしたのだ。


「ねぇ、達弘」

 声がしたほうをむくと、トートバッグを持ち上げた明美が何かを取り出していた。

「コーヒー豆だよ。ケーキも買ってきたから一緒に食べよ?」

 気分屋の本領を発揮し、うってかわって笑顔になった明美を見て、達弘も気を取り直した。


「いってくれたら冷蔵庫入れたのに」

「大丈夫だよ、ドライアイス貰ったから」

 明美の家は正面に洋菓子店とコーヒーチェーンがあるため、こういう差し入れは一度ならずあった。試験勉強の真っ最中、急に予定を入れたことへの罪滅ぼしだろうか。理由はともかく達弘は礼をいう。


「ありがとう。いますぐ食べる?」

「その前にコーヒー淹れてあげるよ。これね、キリマンジャロだって」

「まじかよ、高いやつじゃん」

「意外とそうでもないんだよ。バイト代入ったから奮発してみたんだ」


 塾講師のアルバイト代が入った日の明美は金遣いが荒くなる。以前達弘は、セックスの最中に破壊した目覚まし時計をその日のうちに買い直して貰ったことがある。他にも明美は様々なものを彼に買ってくれた。付き合って一年ほどの間に貰ったものを達弘は全部覚えていないが、逐一感謝はしている。だがコーヒー豆だけはべつだ。


「キッチン借りるね」

 コーヒー豆の袋を手に立ち上がった明美を見送り、達弘は顔にこそ出さないが苦々しい思いを抱く。彼はコーヒーが嫌いなのだ。


 行き違いのもとになったのは元カノが置いていったコーヒーメーカーと豆を挽くためのミルだった。破棄し忘れた達弘に代わり、明美はそれを見つけだし彼をコーヒー党だと勘違いした。明美は当時、ようやくブラックコーヒーの美味さがわかるようになった頃らしく、達弘を同志と誤認し舞い上がってしまったのだ。次の日には自宅の前にあるコーヒーチェーンで豆を買い求め、達弘の家で淹れた。紫煙をくゆらしながら、明美はコーヒーを美味そうに飲んだ。仲間と勘違いされた達弘は断りきれず、黒くて苦い液体を我慢して飲みきった。普段めったに笑顔を見せないため、仏頂面をしても疑われることはなかった。


 キッチンにむかった明美と入れ替わりにソファへ腰かけ、達弘は携帯をいじった。指紋認証を経て、交流アプリをチェックする。一瞥したかぎり、目立った動きはなかった。


 携帯をポケットに入れ、視線を上にあげると、明美がコーヒーミルと格闘しはじめていた。せっかく買ったキリマンジャロを力の加減を知らない手つきで挽き、立ちのぼる香りを存分にあじわっている。豆の挽き方すら雑な女と付き合って何が楽しいのかと達弘は考えた。世間体の良い普通のセックスを得られること以外、メリットは思い浮かばない。


「そういえば何だけどさ」

 挽いた豆と水をコーヒーメーカーに入れ、明美がいった。

「来月の講演会、壇上に生け花を用意するんだけど」

「生け花?」と達弘は応じた。

「そう。できるだけ豪華なものが良いんだよ」

 明美と達弘は同じ政治改革研究会という大学サークルに属している。その団体は年に二回、著名人を招いた講演会を催しており、明美はそのイベントの幹事を務めていた。


「演者は相沢先生でしょ。しょぼい花を添えたら名前に負けちゃうと思うの」

 達弘はもちろん、その相沢という男性のことを知っている。現役の財務大臣だ。サークルの大先輩にあたり、同窓のよしみで講演を引き受けてくれたことは一時期騒ぎになった。


「花卉を買ったら予算が尽きちゃうの。政治改革研究会の先輩に恥をかかせられないでしょ。達弘、むかし生け花やってたじゃない。だからってわけじゃないんだけどさ」

 明美の口にする話は本当だ。叔母が生け花の師範をやっており、達弘は習い事として両親に通わされた。スパルタ教育であまり良い思い出はないが、腕はそう悪くなかった。しかしイベントの規模に釣り合うだろうか。


「所詮、素人だ。予算はやりくりすればよくね?」

「こういうのがやりくりなの。もしダメなら、安くやってくれる人紹介してくれない?」

「値段はどうせボランティアだろ」

 乗り気を示さず、尻込みしているように見えて、実際のところ達弘は計算を走らせている。サークルに属している者にとって、イベントで成果を出すことは手柄を得るいちばん手っ取り早い方法だ。先輩の受けが良くなること間違いない。しかも現役大臣の出る講演会だ、きっとたくさんのOB、OGが訪れるだろう。


 達弘の籍を置く大学は全国でも有名で、国内の大企業はおろか、外資系のコンサルタントや金融機関に就職する人も多く、そのコネの価値は計り知れないものがある。達弘は明美から、就職するなら外資系が良いという話をしばしば耳にしていた。明美の性格からすると内定を得るのは困難に見えるが、実際は達弘より頭が良く、英語もぺらぺらだ。就活の準備を春頃からはじめており、今度の講演会が終われば本腰を入れ、禁煙する予定だと聞かされている。


 達弘自身、ジョージ・ソロスのようなトレーダーに憧れ、勉学に励み、コネを求めて政治改革研究会へと入会した。しかしそれはだいぶ前の話だ。達弘はある出来事をきっかけに疑念を持つようになった。いったいなぜ外資が良いのかと。国外の企業を儲けさせて何が嬉しいのか。それはコペルニクスが地動説を発見したほどの転回だった。


 意識を会話からそらしはじめていた達弘は、不意にごとん、という物音を耳にした。視線を玄関の郵便受けにむけると、隙間から白い紙のようなものが見えた。

「聞いてるの、達弘? そんなに偉い人じゃなくて良いからさ」

 気づくと明美が、生け花のお弟子さんを教えて欲しいと連呼していた。報酬が安く済むならプロでも構わないという趣旨の発言もくり返している。他方で達弘は、試験勉強の合間を縫い、明美が顔を出した事情を理解するに到っていた。明美は講演会の予算を調整していく過程で、黒字化の方策として生け花のコストを削ろうと思いついたのだろう。そして何としても達弘の協力を取りつけるため、無理やり差し入れに現れたのだ。


 イベントが赤字に終わろうものなら、幹事としての能力を疑われるし、ひいては就職に影響を及ぼす可能性は十分考えられる。つまり達弘への依頼は打算にほかならず、彼は深いため息を吐きながら玄関にむかい、郵便受けを開けた。中身を手に取るとそれは電気料金の払い込み票だった。日頃のくせで金額を見るが、その瞬間彼は目を剥いた。払い込み票には人を殺したくなるほどバカ高い料金が記載されていた。


 エアコンの使い過ぎということはすぐにわかった。しかし使い過ぎた実感はなかった。必要な量を、必要なぶんだけ使った覚えしかないが、実際のところ達弘の部屋のエアコンは老朽化が進み、本来の性能を発揮できないために過剰な負荷がかかっていたのだ。もちろん彼はそれを自覚していない。意識したのは電気料金をすぐさま払い終え、気分を晴らしたいということだった。こんなものを何日も抱えていては精神がもたないだろう。


 部屋に戻った彼は、金庫代わりにしている整理ボックスから一万円札を二枚抜いた。苛立ちを隠さない乱暴な手つきだった。

「悪い、コンビニ行くわ。すぐ戻るから」


 話が終わっていない明美は突然の流れに言葉を失っているが、達弘は構わず外へ出た。彼が利用するコンビニは自宅から目と鼻の先にあり、衝動的に飛び出したのは大した手間がかからないことがわかっていたからだ。通り雨は晴れており、アパートから出ると、十メートルほど離れた横断歩道が赤だった。達弘は直に道路を渡ることを思いつき、車の流れが途絶えるのを待って反対側の歩道へと駆け込んだ。そこには美容院と金物屋がある。利用したことはないが、達弘はふと剣呑な衝動を覚えた。金物屋の前に歩み寄ると、そこには幟が立ち、藍染めの生地に白文字で【刃研ぎ】と書かれていた。その文字列を目にしていると後頭部が痛みだし、眩暈がした。路上に目をやり、顔を上げると、赤いランドセルが歩道をあるいていた。女児の体は華奢で無抵抗きわまりなく見えたが、それなのに道を譲らず、生意気な態度だった。理不尽な暴力を振るいたくなるほどのふてぶてしさ。こうした些細な苛立ちが、若い男たちを動機不明な殺人に押しやるのか。


 電気料金を払い終え、達弘はコンビニを出た。外気が不快なほど暑いことに彼は気づいた。

「ただいま」といって玄関をくぐると、キッチンを背に明美がたばこを吸っていた。台の上にお皿とフォークが用意され、ケーキの箱も置かれていた。明美は困惑した目つきをしており、達弘は「電気料金を払ってきた。すげぇ高くて、びっくりしちゃった」と先回りして言い訳をする。

「コーヒー淹れたし、お茶にしよう。生け花の件は無理なら無理でいいから」と明美はいった。達弘が真剣に取り合わなかったせいか、脈無しと判断したようだ。


「無理ってことはないよ、考える時間が欲しい」

 そういうと明美は力無く笑い、ケーキを皿のうえによそった。

「ピスタチオとマカダミアナッツ、どっちが良い?」と彼女は聞いた。

 達弘はそれがケーキの種類であることを諒解したうえで「マカダミアナッツ」と答えようとした。けれど、ズボンのポケットから伝わる振動に口をつぐんだ。ほぼ同時に携帯の通知音が聞こえ、彼はポケットから端末を取り出す。その動きを見た明美は返事を諦めたように見えた。


 達弘は指紋認証を経てから最新の通知を開き、交流アプリにダイレクトメールが届いていたことを知る。ちなみに連絡が来たのは、先ほど明美にバレた秘密のアカウントだ。そちら側の関係者からメールを貰うことはまれだ。得体の知れない疼きを感じとった達弘はタッチパネルを操作しメールを開いた。フォロワーならだれでも送信可能なので、知り合いからの連絡とはかぎらない。


【あなたの投稿は度々、拝見させて貰っております。本物の愛国者と見込んで頼みたいことがあるのですが、ご相談させて貰ってもよろしいでしょうか?】


 そのメッセージは【鷹栖】という男から送られたものだった。男と判断したのはプロフィールのアイコンが顔写真で、およそ女には見えない容姿だったからだ。それらの名前と顔写真に見覚えはないが、フォロワーが千人以上もいれば見落としがあって不思議はない。達弘は鷹栖のプロフィールをあらためて見る。

【投資家。機関誌『エコノミスト』編集長。現在の日本を憂う者の一人です。どうぞよろしく】


 金の匂いが漂うわりに、柔らかい物腰だなと達弘は感じた。

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