りんごの蜂蜜煮

増田朋美

りんごの蜂蜜煮

その日は九州で線状降水帯なるものが発生するということで、テレビではそのニュースばかりやっていた。なんだかおんなじニュースばかりで、疲れてしまうなと思ったら、静岡県内でも別の線状降水帯が発生したらしく、一部の地域では停電が発生したところもあったようだ。幸い、富士では深刻な被害は免れたが、ほかの地域では、なんだか土砂崩れがどうのとか、鉄道が止まったとか、そういう不幸なニュースばかりやっていて、なんだか今日は踏んだり蹴ったりの日だなあと、思ってしまった。

ちなみに杉ちゃんと蘭は、雨がやっと止んだ、と言いながら、早速タクシーに乗って、買い物にでかけて行ったのであるが、その日は、先程の大雨のせいで、怖い思いをしただとか、どこどこの誰々が、やられたとか、お客さんたちは、そういうことで盛り上がっていた。ショッピングモールのカフェに設置されていた、大きなテレビでは、先程の大雨の被害状況を、結構派手に話している。そうなると、富士市は被害が少なくて良かったなと思ったのであるが、その日、とんでもないことが起こってしまうというのは、この時点では杉ちゃんも蘭も予想していなかった。

杉ちゃんと蘭が、カフェの中で、テレビをぼんやり見て、料理が来るのを待っていると、

「では、次のニュースです。本日北九州市で発生した線状降水帯により、北九州市内で、電波塔が崩落し、、、。」

それと同時に、隣のテーブルに座っていた若い女性が、ギャッーという叫び声をあげて、いきなり椅子から立ち上がり、カフェを飛び出そうとした。他のお客は、彼女が突っ込んで来るのを避けることができたのであるが、杉ちゃんたちは車椅子のため移動することができず、杉ちゃんが女性と衝突して、ふたりともひっくりかえってしまった。

「いったいなあ、何だよいきなり飛び込んできて。」

杉ちゃんにそう言われて、女性はやっと正気に戻ってくれたらしい。周りのお客さんが、何事だと彼女をじっと見たり、怖がって自分は知らないと逃げていくのを彼女は確認して、わーっと大声で叫んでしまった。

「おいおい、お前さんさ、まあ確かに、怖いことばっかりの日々だからさ、そりゃ、たしかに不安になったり突然恐怖に襲われたりすることもあるだろうが、いくらなんでも、僕らをひっくり返して、行っちまうのは困るな。」

杉ちゃんがそう言うと、店員が大丈夫ですかと杉ちゃんを急いで起こした。

「大丈夫だよ。それより、彼女をなんとかしてやってくれよ。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女にもその言葉は届いたらしい。

「刑務所、行くんじゃないんですか?」

と、彼女は言った。

「いや、刑務所よりお前さんは、治療を受けたほうがいいよ。お前さん、もしかすると、パニック障害とか、PTSDとか、そういうものだと思うな。まあ多分テレビで言っていたことがキーワードになっちまって、それで、大変な事になったんだと思うんだけど、まあやり方が今回派手だっただけに、ちゃんと、謝罪はしような。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、

「ご、ご、ごめんなさい、、、。」

それしか言えないようであった。

「わかりました、今、影浦先生にお願いしておきました。大丈夫です。警察ではなく、あなたが何をしたのか、なぜそうなったのか、教えてくれるお医者さんです。」

蘭が彼女に近づいて、そう話しかける。

「ごめんなさい。もう器物破損ですよね、、、。」

「まあ、そういうことでもあるけど、まずはじめに、お前さんがどうしてそういう事になったか、を、考えよう。まあ確かに、突然おかしくなることもあるよ。それは、誰のせいでもないさ。誰かが、悪いわけでも無いし。だから、とにかく自分が、正気を取り戻すことを考えよう。」

杉ちゃんと蘭が、そういうことを言ってくれなかったら、彼女は紛れもなく逮捕されてしまうかもしれなかった。警察ではなく、影浦先生を読んでくれるというのも、杉ちゃんたちでなければできないことであった。

「よし、じゃあ、ちょっとここに座って、お茶でも飲んでるか。」

杉ちゃんにそう言われて、彼女は、そのとおり座席に座った。蘭が、持ってきてくれたお茶を彼女は浴びるように飲んで、また涙を流した。

「杉ちゃんここにいたんですね。パニックになっている方がいると、蘭さんから伺ったので、来させていただきました。患者さんは、どちらの方ですか?」

緑色の細かい麻の葉柄の着物に、モスグリーンの袴を履き、上に白い十徳羽織を羽織った影浦千代吉が、杉ちゃんたちの方へやってきた。普通お医者さんとなると、白衣にスーツといった服装が定番であるが、江戸時代まで医者は十徳羽織で当たり前だったのである。

「この人なんですけどね。僕らが、ご飯を待っていたとき、いきなり大声で叫びだして、僕達とぶつかったんだよ。なんか、話も通じるか不明だから、ここで待っててもらった。」

杉ちゃんに言われて、影浦は杉ちゃんの隣にいる女性を見た。まだ、20代後半から30代前半くらいの女性だろう。多分、精神疾患を持っていることは自分でも知っているようで、カバンにヘルプマークを付けている。

「ここで話すのは、ちょっとまずいですね。別の場所で、ゆっくり話を聞きましょう。」

影浦がそういうと、心配になった蘭が、民間救急を呼んでくれた。彼女は、ごめんなさいと言って、影浦先生に手を引いてもらって、カフェを出た。杉ちゃんたちも、彼女がどのような状態だったかを客観的に見てもらえる人物として、影浦先生と一緒に来てもらうことになった。

民間救急車は、ちょっと、ショッピングモールから、離れたところにある小さな建物の前で止まった。なんだか、昔ながらの小さな病院という感じの建物で、小さな木の看板に、影浦医院と書いてあった。影浦が彼女の手を引いて、その中に入れてくれた。杉ちゃんたちも、彼女のあとをついて入った。

「それでは、まずはじめに、気持ちを落ち着けるところから始めましょう。この薬を飲んでいただけますか?」

と影浦に言われて、彼女は、もらった薬を一粒飲んだ。それを飲んで彼女はフーっとため息をついた。

「じゃあ、あなたのお名前は何でしょうか?」

影浦が聞くと、彼女はヘルプマークの裏面を見せた。そこには、名前と住所と自宅の電話番号が記載されていて、名前は重信貞子と書いてある。

「あなたの口からお伺いしたいんですが?あなたのお名前は何ですか?」

影浦がもう一度聞くと、彼女は、

「重信貞子です。」

と、言った。

「わかりました。重信貞子さんですね。では、あなたは、なぜ、ショッピングモールに行ったのですか?」

影浦が聞くと、

「はい。女の子しか買えないものを買わなければならなかったからです。」

と、重信貞子さんは答えた。

「わかりました。それではなぜ、あのカフェに行ったんですか?」

影浦の質問に彼女はちょっと間をおいて、

「はい。そのまま家に帰るのもちょっと怖かったので、ここで少し時間を潰そうと思っただけです。ですが、ここでもテレビをやっているとは知りませんでした。それに、もう注文もしちゃったので、取り消すわけには行かなくて。ここ、一度注文したら、テイクアウトはできないですよね。」

と答えた。まあ確かに、一度注文したのをテイクアウトに変更するということは難しいのである。

「それでは、杉ちゃんたちにお伺いしますが、彼女は、テレビのニュースがやっているのを聞いて、急に叫んだわけですね。テレビで何のニュースを報道していたんでしょう?」

影浦が、杉ちゃんたちに聞くと、

「あのねえ。たしかねえ、北九州市で線状降水帯がどうのとか、言ってたよ。」

と、杉ちゃんが急いで言った。さすがに彼女は薬を飲んでいたからか、そのときは変に過剰反応することもなかった。

「その時に、なにか恐怖を感じましたか?」

影浦がそう言うと、

「はい。突然何も理由が無いのに、恐怖を感じて。だって、あのときのニュースは、静岡県のことをやってたわけじゃないって言ってたはずなんです。それは、私も、ちゃんと知っています。それなのになんで、恐怖心がいきなり湧いてきちゃったんだろ。あのときは、本当に苦しくて、どうしてもその苦しみを取ってほしいという気持ちしかありませんでした。私は一体どうしたんでしょう。本当に、ひどいことをしましたよね。」

そういうところから、完全に正気を失ったわけではなく、自分がどうしたかもちゃんとわかっているようであった。そうなると余計に彼女はつらい思いをしなければならないと影浦も、杉ちゃんも予想できた。

「わかりました。まずはじめに、突然、何も理由が無いのに、恐怖を感じるというのは、あなたが悪いわけではございません。それは、薬を飲むなり、考え方を変えるなりすれば、解放できます。そこは、大丈夫ですから、安心してください。」

と、影浦は優しく言った。

「あの、私、これからどうなるんでしょうか。もしかして、もう病院から出られなくなってしまうとか、そうなってしまうのでしょうか?」

不安な顔をしていう彼女に、

「大丈夫です。ものを壊したわけではないのだし。誰かに被害を加えたわけではありません。それはあなたが悪いわけじゃないことを、まず考えましょう。心臓で倒れた人と同じようなことです。ただその症状の現れ方が違うだけです。」

影浦は、優しく言った。

「これでももう家に帰るのか?テレビがまだひどいニュースをやっているかもしれないぜ。それでまた、発作を起こす可能性があるな。それを怖がってお前さんが、また辛くなることもあるな。」

と、杉ちゃんが心配そうに言った。すると蘭が、

「それなら、製鉄所に行きましょう。あそこなら、味方になってくれる人がいるはずです。そこで、落ち着くまでしばらく滞在したらいかがですか。ご家族には、ホテルに泊まっているとでも言っておけばいいのです。」

と提案した。そして、すぐにスマートフォンで電話をかけ始める。二言三言交わすと、すぐ戻ってきて、

「開いているそうなので、来てくれと言うことでした。いつでも来てくれということです。」

と言った。

「一応、製鉄所にもテレビはあるけれど、ちゃんと考慮してくれるから、大丈夫だからねえ。」

杉ちゃんがカラカラとわらった。そして、蘭が呼び出した、介護タクシーにのって製鉄所に行くことにした。今回は、影浦先生も同乗することにした。全員、大型のワゴン車に乗って、大渕の富士山エコトピアの近くにある、製鉄所に向かった。

「大丈夫ですよ。怖いところではありませんから。」

「お前さんの仲間が大勢いるところだよ。」

蘭も杉ちゃんもそう言って、彼女を励ましたが、彼女はまだ心配そうな様子だった。

「お客さん、着きましたよ。」

運転手に言われて、車は製鉄所の前で止まった。製鉄所といっても名前の通り鉄をどうにかする場所ではない。ただ、居場所がなくなったり、心が病んでしまっている人たちが、通ったり泊まり込んだりして、一時的に、ここで休んでいくための場所である。利用者は、ここで勉強したり仕事したりできる他、中には、懸賞に応募する小説を書いたりしている人もいる。利用者の八割強が女性であるが、中には男性の利用者もいた。

杉ちゃんたちが、製鉄所のインターフォンのない玄関の引き戸を開けると、玄関の入り口で、製鉄所を管理している曾我正輝さんことジョチさんが待っていた。

「ようこそいらっしゃいました。一部屋開いている部屋がありましたから、そこでゆっくり休養してくださいな。」

そう言ってジョチさんは、貞子さんを、開いている部屋へ案内する。六畳くらいの小さな部屋だけど、テーブルと椅子もあり、布団もちゃんと用意されていた。貞子さんは、とりあえず、布団を部屋に敷いて、横になった。布団は、手縫いの手作りの昔ながらの布団で、柔らかくて、ふんわりとしていて、良い寝心地だった。低反発のマットレスよりも、よほど良かった。

しばらく、布団で横になって、どれくらい時間が経ったのかわからないけど、目が覚めたときは、夕方になっていた。いくらなんでも帰らなきゃと思って、貞子さんは布団から起きて、急いで居室を出て、廊下を歩いてみたものの、廊下が長いので、どこを歩いているのかわからなくなってしまった。すると、廊下を伝わってきたのはカレーのにおいだった。彼女は匂いがする方へ行ってみると、何台かテーブルと椅子が設置されている部屋へ到着した。料理しているのは、杉ちゃんだった。蘭も影浦も、もう帰ってしまったのだろうか、姿はなかった。

「何だ。今夕食食べろと呼び出すつもりだったのに。」

杉ちゃんはそう言って、ご飯を盛り付けたお皿にカレーを掛けた。そんな手作りのカレーなんて、食べたのは何年ぶりだろう?カレーなんて、レトルトカレーばかり食べていたから。

「まあそこへ座りな。もうすぐ利用者さんたちも来るよ。」

杉ちゃんに言われたとおり、貞子さんはそこに座った。すると、その前にカレーライスのお皿がでんと置かれた。

「みんなご飯だよ!」

杉ちゃんに言われて、三人の女性が食堂に入ってきた。三人とも、手首に大きな傷があったり、所々に刺青をしていたり、なんだかいかにも訳ありそうな人だった。でも、怖い雰囲気はどこにもなく、優しそうな人であった。

「紹介するね。この人は、新しくこの施設を利用することになった、えーと名前は。」

杉ちゃんがいいかけると、貞子さんは、

「重信貞子です。」

と小さな声で言った。

「よろしくおねがいします。重信貞子さん。」

三人の女性たちは、にこやかに笑ってそう返してくれた。

「じゃあいただきます!杉ちゃんのカレーはとても美味しいのよ。」

彼女たちがカレーを食べるのを見て、貞子さんもカレーを口にしたが、それはとても美味しいカレーだった。本当にカレーの味は、こんなに美味しいのだろうかと思われるほど美味しかった。

「何があったかは、話すのは辛いだろうから、今はしないけどさ。ここで思いっきり羽を伸ばして、ゆっくりしていくといいわよ。」

女性たちがそう言うので、貞子さんは少し安心した。なんだか龍宮城へこさせてもらったような気がした。

みんなはカレーを食べ終えると、それぞれの居室に戻ったり、仕事を食堂で再開したりし始めた。特に製鉄所には、規則づく目ということはなく、利用者さんたちのペースで過ごしてもいいことになっている。それを見た杉ちゃんが、さて、水穂さんにご飯くれるか、と言って、カレーを、ご飯の上にかけた。それを見た貞子さんは、私も手伝いますと言って、杉ちゃんのあとをついていった。なんだか、その態度を見ると、普通の女性とまるで変わらなかった。ただ、あまりにも人為的なものが多かったために、不安になってしまっただけなのではないか、と思われる感じの様子だった。

「水穂さん。ご飯だよ。」

と、杉ちゃんは製鉄所の一番奥の部屋である四畳半に入った。貞子さんも一緒にその部屋に入ると、なんとも言えない美しい男性が、せんべい布団で横になっていたが、杉ちゃんの声を聞いて、咳き込みながら布団に座った。

「さて、今日は、新入りが来たからカレーだよ。お残しは許さんで。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんと言われた男性は、

「はい。」

と言って、サイドテーブルに置かれたカレーのスプーンを取って、カレーを食べ始めた。でも、カレーの辛さで、咳き込んでしまうようなのだ。それに気がついた、貞子さんは、

「大丈夫ですか?お苦しいなら、なにか別のものを持ってきましょうか?」

と、思わず言ってしまう。

「いや。大丈夫だ。栄養をとらないと、みんなだめになっちまうよ。だから、ちゃんとカレーを食べてもらわないと。」

杉ちゃんがそう言うが、

「でも、苦しそうだから。なにか他に、食べ物は無いのですか?」

貞子さんは、急いで答えた。

「まあ、りんごと蜂蜜くらいならあるけどさ。」

杉ちゃんが言うと、

「じゃあ、りんごと蜂蜜で、なにか作りましょうか?私、子供の頃、風邪を引いて寝ていたときに、母が作ってくださった料理を覚えているんです。それでよろしければ作れます。20分ほどかかりますけど。」

と言って彼女は、台所へ向かった。そして、冷蔵庫に入っていたりんごと蜂蜜を見つけ出して、まずりんごの芯をフルーツナイフで切り抜き、りんごを鍋に入れて芯を抜いた切り口に蜂蜜を入れて、20分ほど煮る。りんごの蜂蜜煮の完成だ。それを深めのお皿に煮汁と一緒に入れて、改めて、水穂さんのところに持っていく。

「りんごの蜂蜜煮です。この方がカレーより食べやすいのでは無いかな。私も、風邪を引いたときはそうでした。」

と彼女はサイドテーブルの上に、りんごの蜂蜜煮を置いた。りんごは、すごく柔らかく煮えていたから、水穂さんもそんなに苦労せず食べることができた。貞子さんはなぜ、水穂さんがあのようなふわふわの布団を使用していないのか気になった。水穂さんに、布団を変えようかと提案しようと思ったが、せんべい布団が赤く汚れているのを見て、びっくりした。でも、それは口にしなかった。きっとこれだけきれいな人で、こんな生活しているのは、何か事情があるんだなと思った。部屋には、小さなグランドピアノと、貞子さんが知らない作曲家の楽譜が本箱に置かれていた。その隣にはタンスが置いてあり、銘仙の着物がハンガーに掛かっていた。それを見て、貞子さんは、水穂さんもなにか事情があってここにいるということをしった。

「水穂さんは、ここで間借りしてるんだよな。」

杉ちゃんにそう言われて、貞子さんは持っている疑問点などは言わず、水穂さんのことを受け入れようと思った。口に出して言わないほうが、かえって平穏につながることも、貞子さんは知っていた。

「りんごの蜂蜜煮、美味しかったです。ありがとうございました。」

そう頭を下げられて、

「いいえ、この程度のことで、私が役に立てるなら、何でも言ってください。」

貞子さんは、にこやかに笑って、水穂さんに言った。

「本当は、貞子さんだってできることはあると思うんだけどな。それを見つけられるといいね。」

杉ちゃんが、貞子さんに呟いた。

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りんごの蜂蜜煮 増田朋美 @masubuchi4996

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