サイクロプスの眼〜その1
崩れかけた玄関から入ると、カビ臭い臭気が鼻をついた。
当たり前のように、中は真っ暗だ。
足元の瓦礫を踏み締めながら、慎重に歩を進める。
ここは、街外れのとある廃工場──
数年前から稼働しておらず、錆びた器材があちこちに放置されている。
いわゆる、【廃墟】というやつだ。
二つの閃光が、ひび割れた壁を
懐中電灯の
ギシギシと床を
「この奥だな」
携帯を見ながら男が呟いた。
黒いマスクの上の両眼が、きらりと輝く。
「この図によると、女子トイレはそこだ」
画面には、先ほど入り口で撮った建物内の案内図が映し出されていた。
「分かった」
男に追従していた別の男が囁く。
自分の白いマスクを、神経質そうに
「大丈夫か?
黒マスクの男が、振り向いて声をかける。
白マスクの男のさらに後ろに、女性の姿があった。
ロングヘアを揺らし、小さく頷くのが見えた。
それを確認すると、黒マスクの男は再び前に向き直った。
部品と紙片の散乱する通路の先に、目的の場所が見えた。
この廃工場の女子トイレ──
最近、霊の目撃情報の多発している場所だ。
三人はその入り口の前で、足を止めた。
「ここの情報で一番多かったのは何だ?
黒マスクが、懐中電灯で中を照らしながら問いかける。
「頻度的には、『黒い影』の目撃が最多だな。二メートルを超える巨大な影が現れるらしい」
風間と呼ばれた白マスクが、携帯を操作しながら答える。
「巨大な黒い影か……」
黒マスクはそう呟くと、もう一度背後を
せわしなくマスクを弄る風間と、不安そうに見つめる香澄……
「行くぞ」
そう呟くと、先頭立って中に踏み入った。
一歩入った途端、白い
僅かな空気の振動で、床の砂塵が舞ったようだ。
懐中電灯に照らされたそれは、まるで深海を浮遊するプランクトンだった。
「いかにもって雰囲気だな」
黒マスクが独り言のように呟く。
それには答えず、白マスク──風間がまわりを照らし見る。
室内には、左右に三つずつの個室があった。
どの扉も閉じられているが、最奥の一室だけ半開きになっている。
黒マスクが黙って振り返る。
すぐ背後にいた風間が、緊張の
そのまま黒マスクの前に進み出て、準備を始めた。
どうやら、定点カメラを設置するらしい。
ウウっ……
突然、低い唸り声のようなものが空気を揺るがした。
聞き間違いでは無い。
確かに【声】だ。
反射的に風間が顔を上げる。
今しがたまで真っ暗だった箇所が、淡い光に覆われている。
そして、その中心にそれはいた。
室内の最奥部に立つ黒い影──
ともすれば、天井に届きそうな程の巨体──
風間が声にならない叫び声を上げる。
見開いた両眼が、恐怖の色に染まる。
逃げ出そうと
続いて訪れた頭部への激しい衝撃──
生ぬるい液体が、額から流れ落ちるのを感じた。
激痛が走り、目が霞む。
遠のく意識の中、最後に目にしたのは、影の中心で怪しく光る
************
「その風間さんて、クリちゃんの先輩なの!?」
室内にドイルの驚き声が響き渡る。
ここはK大、【異常心理学研究会】の研究室──
いつものように、個性的なメンバーが思い思いの格好で座っている。
皆にコーヒーを配っていたクリスの手が止まる。
少女は黙ったまま、コクリと頷いた。
「SNSでも、チョー話題になってるよ!廃工場で化け物に襲われたって」
「化け物?」
携帯を見ながら騒ぎ立てるドイルに、クイーンが
彼の有する星の数ほどのメル友が、盛んにやり取りしているのだろう。
「なんでも、一つ目の巨人らしいよ。突然現れたと思ったら殴られて……何針も縫う大怪我で、今も入院中だって」
携帯を操作しながら呟くドイル。
「一つ目の巨人て……まるで、サイクロプスね」
「サイクロプス?」
不思議そうに復唱するドイルに、クイーンは今まで読んでいた冊子を差し上げた。
『神話と技工士』のタイトルが付いている。
「ギリシャ神話に出てくる隻眼の神よ。天空神ウラノスと大地母神ガイアの息子で、父神の計略により奈落の底に幽閉された哀れなキャラ。ゼウスにより解放されてからは、神々の神具を作る優れた鍛冶屋として重宝されたらしいわ」
書物を開く事無く、伝承を語って聴かせるクイーン。
さすが、歴史学専攻の面目躍如といったところか。
「じゃあ、そんなに悪いヤツじゃ無いってこと?」
ドイルは首を
「そうとも言えないわね。実はこの神には、二つの伝説が存在しているの。一つは、さっき話した卓越した鍛冶屋としての伝承、もう一つは粗野で野蛮な神としての伝承……特に後者は、知能が低くて人肉を好む、文字通り【怪物】として語られている」
淡々と語るクイーンの声が、室内に静かに木霊する。
「へえー。じゃあこの風間さんを襲ったのは、その性格の曲がった方の神サマって事か」
「まあ、それが本当にサイクロプスならね」
感心したように目を丸くするドイルに、クイーンは肩をすくめてみせた。
「面白いのは、日本神話にも
二人とも、そんなものは実在しないと分かった上でのやり取りだった。
今回の件は、あくまで暴漢や
「レビー小体型認知症だな」
今までパソコンを
全員が、ハッとしたような表情で
「認知症って……まだ二十代の学生よ」
呆れたような口調で、クイーンが否定する。
「確かに発症の大半は高齢者だが、三十代で発症する例もある。年齢だけに囚われると、視野が狭くなるぞ」
「レビー小体型認知症の特徴は、幻視が非常にはっきりしている事だ。人や動物など細部に至るまで鮮明に認識され、本人はその存在を確信してしまう。さらに進むと、その存在が自分に危害を加えるなどの妄想に結び付いていく。今の話にあった、巨大な隻眼の怪物が襲いかかるといったような……」
「で、でも、風間氏は実際に怪我をしてるんだよ」
必死に食らいつくドイルに、私は両手を広げて見せた。
「そこは何とも言えんな。心的障害からくる自傷行為の可能性もあるし……いずれにせよ、情報不足だ」
「……あ、あの!」
私の言葉が終わるや否や、唐突にクリスが声を上げた。
全員の目が、一斉に少女に注がれる。
「……けて……さい」
両手を組み、懸命に言葉を
その顔は真剣そのものだ。
「どうしたの?クリス」
クイーンが優しく声をかける。
尋常ならざる少女の様子に、何か感じたようだ。
「せん……ぱいを……風間さんを……助けて」
その台詞を聞いた全員の顔に、緊張が走る。
「お、お願いします!」
言い終えた少女の目には、薄っすらと光るものがあった。
口下手な彼女にとって、たったそれだけの台詞でも重労働だったようだ。
それが分かるだけに、皆の胸には打たれるものがあった。
クイーン、ドイル、そして私の三人は顔を見合わせた。
「……分かった」
やがて、私は静かに囁いた。
「詳しい事情を話してくれ、クリス」
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