アポロンの弓〜その8
取り出したのは、一枚の写真だった。
そこには、黒いウィッグ、ロングコート、そして渦巻き状の羽の付いた矢が写っていた。
「まさにシミュレーション通りの形状です。つまりこれが、麗菜さんを射抜いた矢という事になります」
「き、きさま!……なぜ、これを!?」
私の説明に、思わず口を滑らせてしまう麗児。
赤く充血した両眼が、満月のように見開く。
「麗菜さんに教えてもらいました。駅前のロッカーに保管されていたのを、うちのメンバーが解錠し、写真を撮らせてもらったのです……勿論、入れたのはアナタですね、麗児さん」
「麗菜が……だが、そんな事はできないはず……」
今までとは違い、激しく動揺する麗児。
まだ信じられないといった表情だ。
「そうです。麗菜さんが、自分からは話せないのは分かっています。ですので私たちが、別の方法で聴き出しました」
そう言って、私はチラリとクイーンに目を向けた。
クイーンは神妙な顔で、微かに頷いた。
「ずっと不思議だったんです。なぜ、麗菜さんはあれほど
そこまで説明し、私は
盗聴器の話を出した途端、麗児の眉が一瞬反応したのを、私は見逃さなかった。
「……だから、何だと言うんだ!」
気を取り直した麗児が、虚勢を張るように叫ぶ。
「盗聴器の事など知らん!俺がアイツに渡したという証拠でもあるのか!?」
威嚇するように否定する麗児。
体を揺するたびに、額から冷や汗が飛び散る。
「ロッカーの衣装にしてもそうだ!仮に俺が入れたとして、それが何の証拠になる。そんなもの、ただの趣味だと言えばおしまいの話だ。俺がそれを着て、野々村を襲ったという証拠にはならない!」
荒い息を吐きながら、麗児は
まだ、大丈夫だ──
まだ、逃れられる──
「確かに衣装そのものは、決め手にはならないかもしれません。しかしもし、その衣装に……そう、血痕が付いていたとしたらどうでしょう?そしてもしそれが、アナタが野々村さんを襲った時の返り血だとしたら……」
そう言って、私は写真を麗児の眼前に差し出した。
「なん……だとっ!?」
それをひったくるように受け取ると、麗児は顔を近づけた。
コートの胸元に、小さな赤い斑点が付着している。
食い入るように見つめる麗児の顔が、見る見る蒼白になっていく。
「アナタの指紋の付いたコートに、付着した野々村さんの血痕……私の認識が正しければ、これ以上の証拠は不要だと思いますが」
その台詞が、トドメとなった。
麗児はその場にガクリと膝を落とすと、激しく震え出した。
「そ、そんな……なぜ……」
苦しげな呻き声が、喉から漏れる。
目は、写真に釘付けとなったままだ。
「私たちは最初、麗菜さんの異常行動を、パーソナリティ障害によるものと疑っていました。だが、それは間違いでした。パーソナリティ障害だったのは彼女では無く、アナタだったんですね……麗児さん」
その言葉に、呆然とした麗児の顔がゆっくりともち上がる。
「これはあくまで推測ですが、もしかしてアナタは、自分がパーソナリティ障害だと自覚してたんじゃないですか?だから麗菜さんが自分から離れてしまうのを恐れ、凶行に及んだ……違いますか?」
「違う……違う……俺は、そんなものでは……」
何度も首を振りながら、否定する麗児。
その様子を眺めながら、私は少しずつ歩を進めた。
「私には、アナタの心の動きが読めます、神城麗児さん。歪んだ心の闇が……それは、純粋で、醜悪で、独善的で、そして……」
私は麗児の顔を覗き込み、皮肉な笑みを浮かべた。
「……超ぉぉ面白い!」
そう呟き、瞳を
それは、見る者の心を凍りつかせる悪魔の眼差しだった。
「み、見るな!そ、そんな目で……俺を見ないでくれ!」
両手で顔を覆い、後退りしながら麗児は叫んだ。
「お、俺は……怖かったんだ」
観念したように、自ら語り始める麗児。
声に合わせ、顔に当てた手が小刻みに揺れる。
「時々、欲望の自制が効かなくなる。自分が自分で無くなるんだ……野々村が麗菜に寄せる想いも、俺たち兄妹の仲を裂く障害としか思えなかった……」
心中に湧き立つ本心が、口をついて溢れ出る。
「麗菜がいなくなっては、もう誰も俺を止めてはくれない。俺を理解してくれる者がいなくなってしまう……そう考えたら、居ても立っても居られなかった。衝動を抑えられなかった……」
それはまるで、体内に溜まった
聴いている方の表情も、自然と険しさが増していく。
「俺の中の何かが、俺の意思とは関係なく勝手に体を動かすんだ……俺の知らぬうちに……勝手に……」
最後の台詞は、
焦点の定まらぬ目を見開き、何やらブツブツと呟き始める。
もはやそこに、神城麗児の姿は無かった。
そんな麗児に対し、誰一人声をかける者はいなかった。
************
「ありがとう……姫華」
「いいのよ。お兄さんは、あれからどうなったの?」
クイーンが、玄関先で麗菜に問いかける。
「すっかり気力が無くなって、魂が抜けたみたいになってる……クラブにも退部届を出したわ。今度知り合いの紹介で、心理療法士のカウンセリングを受ける事になったの。それと……」
一瞬、言葉を詰まらせる麗菜。
「……野々村さんには、私も一緒にお詫びをさせてもらった。警察沙汰にしてもらって構わないと言ったんだけど、怒りもせず許してくれた。それどころか、私の事をひどく心配してくれて……」
そう言って、麗菜は目を潤ませた。
心中の安堵感が、手に取るように伝わってくる。
「ホント、いい人ね」
「ええ……」
「……好きだったの?」
その問いに、哀しげな微笑みで返す麗菜。
これから先も、この女性の口から答えを聞く事は無いだろう。
クイーンは目を細め、それ以上追求しない事にした。
「……それにしても『アルテミス』とは、よく咄嗟に思いついたわね」
クイーンは、大袈裟な口調で話題を変えた。
「アナタたちが兄と喋ってるのを聴いて、この人たちなら……って思ったの。でも盗聴器があるし、いつ兄が引き返して来るかも分からないから、あんな暗号みたいな事しか言えなくて……」
「『アルテミスを止めて』……アルテミスはアポロンの双子の妹……アポロンが麗児さんだから、この場合のアルテミスはアナタになるんだけど、アナタはアルテミスみたいに冷酷でも非道でも無い。だからアナタが言いたかったのは、『神城麗菜に化けた
「姫華なら、きっと感づいてくれると信じてた。だから、アナタが訪ねて来て『アルテミスを見つけた』と言ってくれた時は、嬉しかった。そして、アナタが渡してくれたあの本……」
そう言って、麗菜は小さな本を差し出した。
『ゼウスの系譜』のタイトルがついている。
麗菜が表紙をめくると、メモが挟んであった。
そこには、こう書かれていた。
【あなたの事情は分かっている。麗児さんがアナタに化けた衣装が、どこに隠してあるか教えて。声を出さずに、口だけ動かしてくれればいいから】
「ここに書かれた通りに、口だけ動かしたんだけど……あれでよく分かったわね」
「アナタには言って無かったけど、実は私……読唇術が得意なの」
そう言って、クイーンは満面の笑みを浮かべた。
「また講義には出て来るんでしょ?待ってるから」
そう言って、手を差し出すクイーン。
麗菜は一瞬戸惑った後、頷きながらその手を握った。
************
「世話になったね」
練習場をぼんやり眺めながら、野々村が呟く。
包帯の巻かれていない手には、弓が握られている。
「それは?」
その横に並び立つと、私は尋ねた。
金色に輝くアポロンの弓──
神城麗児のリカーブボウだ。
「退部した主将の形見だ。僕に預かって欲しいと、麗菜さんから頼まれた。これから主将は病院通いだし、もう復帰する事も無いだろうって……」
悲哀に満ちた表情で、じっと弓を見つめる野々村。
「麗菜さんの事は、もういいんでか?」
その問いに、野々村はハッとしたように私を
何か言いかけたが、結局言葉は出てこなかった。
この人物の性格上、今回の件については自分にも責任があると思っているに違いない。
そして、結果的に麗菜を傷つけてしまった。
もう、逢うのはやめよう……
野々村が、そう決断したとしても不思議では無い。
だが……
「……どうだい。一回やってみるかい?」
そう言って、野々村は私に弓を差し出した。
顔には、精一杯の笑みが浮かんでいる。
私は暫し悩んだ後、それを受け取った。
射ち方を指導しかけた野々村を手で制し、射場に立つ。
グリップを握り、
「君は……どこで、そんな……!?」
キリキリというストリングの音が、後の言葉を打ち消した。
全ては時間が解決してくれるだろう。
今は……そう信じるしかない……
精神を集中し、標的を見定め、一気に手を開く。
勢いよく放たれた矢は、真っ直ぐに
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