アポロンの弓〜その5
神城麗菜が体調不良で学校を休んでから、三日が経過していた。
兄の麗児に確認すると、部屋に
医者を呼ぼうとしたが、一切寄せ付けないため、しばらく様子を見る事にしたそうだ。
当然、見舞いに行ったクイーンにも会おうとはしなかった。
学校を休むというメールを最後に、今なお音信は途絶えている。
誰もいない研究室で、私はひとり熟考の深淵に沈んでいた。
神城麗菜が兄・麗児の矢に射抜かれた事から始まった今回の事件──
その前日に、麗菜は野々村から求愛されている。
それについては、イエスともノーとも答えていない。
そして当日、彼女はアーチェリー部の見学に現れた。
最中、イタズラ書きされた標的に部員が気付く。
練習を続ける麗児の前に、突然麗菜が飛び出す。
そして、矢は麗菜に命中した。
麗児が自分の標的を狙って放った矢が、彼女に当たったのだ。
という事は……
麗菜が矢に射抜かれた位置は、麗児と標的を結ぶ直線上という事になる。
彼女が矢を受けたのは背後からだ。
弓を射る兄の方を向いていない事から、矢に当たるのが目的だったとは考えにくい。
ん……?
矢を受ける気が無いなら、なぜそんな位置まで飛び出したんだ?
一体、何をしたかったんだ?
いや……そもそも麗児は、途中で動作を止める事はできなかったのか?
突然だったとは言え、彼の後ろから真正面まで麗菜が移動するには、一呼吸の間はあったはずだ。
麗児ほどの実力なら、咄嗟に手を止める事もできたのではないか。
だが、そうしなかった……
なぜだ?
考えうる可能性は……二つある。
ワザと止めなかったか……
それとも……
そこまで黙考していた私は、ハッとしたように顔を上げた。
まさか……!?
「出来るのか……そんな事が!?」
私は、思わず声に出して叫んでしまった。
だがもしそうなら……全ての説明がつく!
これまでに得た情報の数々が、私の中を駆け巡る。
落書きされた標的──
兄の矢に射抜かれた妹──
野々村の麗菜への求愛──
麗菜に襲われた野々村──
パーソナリティ障害──
何も話そうとしない麗菜──
そして
アポロンとアルテミス──
事象を時系列に並べ、一つ一つを自らの推理に当てはめていく。
パズルが完成した事を確認すると、私は目を閉じ大きく深呼吸した。
「あとは、合理的根拠だけか……」
私はパソコンを開くと、リズミカルな打音を響かせた。
************
アーチェリー練習場に、相変わらず
あたりを見回す私の横で、クリスが何やらビデオカメラのような物を覗き込んでいる。
「方位角測量終わりました」
機器を操作しながら報告するクリス。
彼女が手にしているのは、トランシットと呼ばれる測量機器の一種だ。
望遠レンズで視準した点、または方角に対する角度を計測する事ができる。
今は私の依頼で、この練習場の任意の地点を測量してくれていた。
通常は建築土木分野で使用される光学機器だが、クリスが一部プログラム変更し、測量精度を飛躍的にバージョンアップさせてある。
並外れた情報処理スキルを持つ、彼女ならではの特技だ。
「このデータをもとに、早速シミュレーション解析してみます」
いつもの人見知り要素のカケラも無い口調で、クリスが言い放つ。
この少女は、自分の得意分野には驚くほど雄弁になるのだ。
この場にドイルがいたら、「クリちゅわ〜ん」とか言って、また
連れて来なくて正解だった。
「ああ、頼む」
頷きながら、私は遠方の一点を凝視した。
落書きで
************
玄関の呼び鈴を鳴らす。
「……はい」
何度目かで、ようやくインターホンから声がした。
か細い、女性のものだ。
「麗菜、私よ……話したい事があるの」
返事は無い。
クイーンは
「アルテミスを見つけたわ」
インターホンの向こうで、微かに息を呑む音が聞こえた。
「……どうぞ」
やがて、また消え入りそうな声がした。
玄関先まで進むと、静かにドアが開いた。
神城麗菜の青白い顔が覗く。
一見して、憔悴し切っているのが分かった。
「麗菜……体調はどうなの?」
「ありがとう……ごめんね、心配かけて」
心配顔で尋ねるクイーンに、声を震わせる麗菜。
伏し目がちだが、その瞳には僅かに生気が見られる。
それは、何かを期待している者の目だった。
「これ、アナタから頼まれてた本よ。」
そう言って、クイーンは一冊の文庫本を差し出した。
『ゼウスの系譜』のタイトルがついている。
「きっとアナタの役に立つと思うわ」
クイーンの言葉に、麗菜は何気なく表紙をめくる。
すると、その目が見る見る大きく見開いた。
何か言いたげな表情で、クイーンを見返す麗菜。
しばらくして、ブツブツと呟き始める。
だが、全く声に出てはいなかった。
「……それじゃ、無理しないでね。用があればいつでも言って」
クイーンはそう言って、ニッコリ微笑んだ。
麗菜の変化には、何の反応も示さない。
「ありがとう……姫華」
麗菜も微笑みながら、頷き返す。
その目には、光るものがあった。
クイーンは
そして後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にした。
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