アポロンの弓〜その3
夕闇の迫る裏路地に、人影があった。
黒のロングコートに身を包み、じっと立ち尽くしている。
ロングヘアから垣間見える目が、
やがて暗闇の中から、人の輪郭が浮き出た。
肩にリュックを背負った若い男性だ。
疲れたように引きずる足が、一瞬止まる。
「誰?」
聞き覚えのある声が、あたりに木霊する。
アーチェリー部副将──野々村だった。
「僕に何か用ですか?」
街灯が逆光となり、その人物の顔がよく見えない。
「あの言葉、覚えてる?」
「……えっ!?」
唐突に放たれたひと言に、ギクリとなる野々村。
「ワタシを……好きだと言った」
「……き、君は!?」
その瞬間、野々村は声の主に気付いた。
「アナタに、その資格は無いっ!」
一喝したかと思うと、突然飛びかかってくる。
その手に、光るものが見えた。
「なっ……!?」
叫ぶ間もなく、あっと言う間に目前に迫られる。
同時に、焼け付くような痛みが肩口に走った。
「つうっ!……な、何をする?」
身をよじり回避しながら、野々村は叫んだ。
肩を押さえた指の間から、血が
それを見て、その人物の顔に笑みが浮かんだ。
それ以上追撃する事なく、身を
月明かりにほんの一瞬、その顔が映し出された。
それは
************
「それで、怪我の具合はどうなの!?」
早朝の研究室に、クイーンの声が響く。
野々村が怪我をしたという情報は、翌日にはドイルのSNSにあがってきていた。
「右肩を負傷したようだね。周囲の者には、帰りにうっかり転んでしまったと言ってるらしい。僕のメル友が、包帯に血が
「……と言う事は、殺傷痕か……転んでつくような傷では無いな」
自らの携帯を見ながら語るドイルに、私はポツリと呟いた。
「それって……誰か加害者がいるって事?」
クイーンが、
「その可能性は高いだろな」
「そんな……一体、誰に!?」
私の言葉に、なおも食い下がるクイーン。
それには答えず、私はドイルの顔を見た。
「ドイル、ひとつ探ってほしいんだが……」
「それは、野々村さんと麗菜ちゃんについてかい?」
ドイルは、にっこり笑って答えた。
「知ってたのか」
「あったり前さぁ。ぼかぁこれでも、SNS上じゃ【恋愛マスター】の異名で通ってるんだ。野々村さんの話ぶりで、あの二人には何かあると一発で見抜いたね」
当然だと言わんばかりに、片目を
「恋愛マスターねぇ……」
「ぷぅ!」
懐疑的な視線を送るクイーンの後ろで、思わずクリスが吹き出す。
「それでは、事件の前日の二人について調べてくれ……恋愛マスター」
「ちょっと、ポーまで……」
「ぷ、ぷぅー!」
呆れ顔でクイーンが言うと、クリスがまた吹き出した。
困った連中である……
ドイルは親指を立て頷くと、携帯を操作し始めた。
彼の最大の特技──
星の数ほどのメル友に、情報提供を依頼しているのだ。
ほどなく、その顔が得意げな表情に変化した。
「分かったよ……野々村さん、あの日の前日に麗菜ちゃんに告白したみたい。校舎裏でやり取りしてるのを、僕のメル友がたまたま目撃したらしい」
「あの二人が付き合ってるってこと!?」
ドイルの報告に、驚き顔のクイーンが声を上げる。
「さあ、それはどうかな。メル友の話では、その時の麗菜ちゃんの顔色は真っ青だったとある。驚いたというより、困った表情をしていたって……」
画面に目を走らせながら呟くドイル。
得意の速読で、次々とメールを読み取っていく。
「それに二人が一緒にいる場面は、ほとんど目撃されていないね……これは僕の勘だけど、野々村さんの一方的な片想いなんじゃないかな」
そう言って、ドイルは肩をすくめた。
「なるほど……野々村さんに事故前日の事を尋ねた際、言葉を
私の言葉に、室内が静まり返る。
「でも、それと今回の件と何の関係があるの?」
我慢し切れず、クイーンが切り出す。
「もし野々村さんの怪我が誰かに負わされたものなら、警察なり学校なりに通報するはずだ。だが、そうしなかった……それは、なぜか?」
「……相手の事を、知られたくなかった!?」
私の誘い水に、クイーンが答える。
「そして現時点で、【その相手】の最有力候補が神城麗菜という事だ」
私は小さく頷きながら言い放った。
全員の顔に緊張が走る。
「そんな、麗菜が……でもなぜ?」
信じられないと言った顔で呟くクイーン。
「分からない……だが先日、彼女が漏らした言葉が関係しているのは間違いない」
「アルテミスをとめて……」
私の説明を受けて、ドイルがその言葉を復唱する。
同時に、全員の目がクイーンに向けられた。
「……アルテミスは、ギリシャ神話に出てくる女神の名前よ」
クイーンは、自らの専攻する歴史学の知識を紐解いた。
「全能の神ゼウスの息子アポロンの双子の妹で、狩猟を
「ひぇ〜!ヒドイなそれ……」
淡々と語るクイーンの横で、ドイルは眉をしかめた。
「ちょっと待て……今、アポロンと言ったか?」
私は片手を上げてクイーンを制すと、パソコンに指を走らせた。
ほどなく、画面を皆の方に向ける。
そこには、アーチェリー部のホームページが映し出されていた。
その中で
そしてそれに連なる紹介文に、全員の目が釘付けとなった。
「『アポロンの弓』……!?」
「弓に黄金の塗装がされているため、そう呼ばれているらしい」
そう言って、私は写真の弓を指差した。
グリップとリムが、金色に輝いている。
「さっきお前は、アルテミスはアポロンの双子の妹だと言ったな。アポロンが神城麗児とするなら、アルテミスというのは……」
「神城麗菜!」
横から声を上げるドイルに、私は頷いてみせた。
「もしそうなら、彼女が言った『アルテミスをとめて』とは、神城麗菜……つまり、『自分をとめて』という意味になる。そして、今回の野々村さんの一件……」
私は立ち上がると、ゆっくり室内を歩き始めた。
皆の視線が、私の後を追う。
「仮に野々村さんを襲ったのが麗菜とするなら、話の
「でもどうして、麗菜が野々村さんを……いえ、それよりも、なぜ自分からやめようとしなかったの!?」
クイーンが、息せき切って質問を浴びせる。
その表情は、極度の困惑でやや青ざめていた。
「何か、やめられない理由があったんだ」
私は抑揚を抑えた声で、ポツリと答えた。
その淡々とした口調は、クイーンの気を鎮めるのに効果的だった。
「考えられる可能性は二つある。一つは、彼女が何らかの脅迫を受けているケースだ。誰かに自分を止めてもらいたいが、直接的な言葉で伝える事はできない。だが何とかしなければ、野々村さんを傷つけてしまう……その葛藤が、あのような遠回しの表現となって現れた。同じ歴史学専攻のクイーンなら、気付いてくれると期待したのだろう」
「脅迫って……一体、誰に……?」
クイーンの問いただすような視線に、私は首を横に振った。
「それで……もう一つの可能性は?」
沈痛な面持ちで、ドイルが先を促す。
「彼女が……パーソナリティ障害を
その言葉を聴いた途端、全員の顔が驚きに歪む。
まさか、精神疾患を持ち出すとは思わなかったようだ。
「パーソナリティ障害は、症状により幾つかのパターンに分れている。その中で麗菜に該当するのは、【統合失調型】と呼ばれるものだろう。親密な関係に強い不快感を抱き、正常行動と異常行動が交互に現出するのが特徴だ」
私は、自らの知りうる情報を披露した。
人の異常行動に関する知識なら、誰にも負けぬ自信がある。
「麗菜自身がこの事を自覚していたとするなら、クイーンに助けを求めたのも頷ける。自分で自分が制御できないからだ。また、野々村さんの告白に不快感を抱いた事が、襲った要因と考えられなくもない……まあ、これも可能性としては高いだろな」
私は、両手を広げ締め
クイーンは悔恨の表情を浮かべ、ドイルとクリスは揃って目を丸くした。
「それで……」
疲れたように、クイーンが口を開く。
「この後は、どうするつもり?」
私は再び椅子に座ると、ぐるりと皆を見回した。
どの顔も、まるで指示を待つ兵士のようだ。
「野々村さんに会って、真実を話してもらうとしよう。どうするかは、それからだ」
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