アポロンの弓〜その1
極限まで張られたストリングが
狙うは七十メートル先の
息を止め、精神を集中する。
腹が決まったら、
大気を震わす音と共に、
勝負は一瞬──
鈍い打撃音が鳴り、
期せずして湧き起こる
大きく息を吐き出し振り返ると、自然と笑みがこぼれた。
「お見事です!主将」
称賛の声を上げ、数名の部員が駆け寄ってきた。
「絶好調じゃないですか!この分なら、今年の全国大会もいただきですね」
目を輝かせ絶賛するのは、副将の野々村だ。
人の良さそうな表情が、さらに
「ああ。今年は皆揃って優勝狙うぞ!」
主将らしい
はい!という力強い返事に、満足そうに頷く。
ここK大アーチェリー部は、全国大会二連覇の強豪チームだった。
特に麗児が三回生で主将になってからは、県内の公式試合でも二位以下に落ちた事が無い。
部員の質の向上もあるが、麗児の
「まさに『アポロンの弓』の異名も、ダテじゃないって事ですね」
野々村が、さらに
その言葉に、麗児は己れの弓に目をやった。
競技用のリカーブボウには、グリップとリムに
陽光に輝くその姿が、ギリシャ神話のアポロンの弓を想起させるとかで、こんな異名がついたのだった。
「さあ、練習再開だ!」
野々村の掛け声で、部員たちが各々の射場に向かう。
麗児はチラリと、斜め後方に目を向けた。
そこには、もうひとりの自分がいた。
双子の妹の
二卵性双生児だが、体格と髪型を除けば瓜二つだった。
食い入るように眺めていた顔が、麗児の視線に気付き緩む。
久しぶりに兄の練習が見たいと見学に来ているのだ。
麗児が手を振ると、妹もニッコリ笑って振り返す。
再び標的に向き直り構えると、斜め前方に走っていく野々村の姿が見えた。
「どうした!?野々村」
「なんか
麗児の問いに、走りながら答える野々村。
落書きだと……
全く、どこのどいつだ!?
気にはなったが、麗児は練習を続ける事にした。
野々村の向かった標的は、麗児のそれから数メートル離れている。
誤って当たる心配は無い。
麗児は気を取り直して構えた。
目を閉じ、気持ちを落ち着かせる。
ふと脳裏に、微笑む妹の姿が浮かんだ。
グリップを柔らかく握り、
先ほどよりも、
キリキリと音をたて、半月形になるストリング。
標的を見定め、一気に手を開く。
放たれた矢は、想定通りの軌道を飛ぶ
……はずだった
実際には、
あたりに悲鳴が轟く。
愕然とする麗児の目が、地面にうずくまる人影に釘付けとなった。
それは腕に刺さった矢で
************
「それじゃその麗菜ちゃんは、自分から当たりにいったって言うのかい!?」
「顔も知らないのに、いきなりの『ちゃん付け』ね……まあ、そういう事になるわね」
大げさに驚くドイルに、クイーンは肩をすくめてみせた。
「『そういう事になる』とは……納得していないようだな」
私は、卓上でパソコンをいじりながら口を挟んだ。
「麗菜とは、同じ歴史学科専攻の友達なの。だから今回事故にあったと聞いて、すぐ病院に行ったんだけど……」
クイーンはそこで言葉を詰まらすと、困惑の表情を浮かべた。
暫しの沈黙の中、クリスがコーヒーを配り出す。
「……ありがとう」
自分の前に置かれたコーヒーに気付き、クリスに優しく微笑むクイーン。
少女は恥ずかしそうに頷くと、カップを抱えて席についた。
「彼女、何も話そうとしないのよ……お見舞いのお礼は口にするんだけど、なぜあんな事したのか聞いても一切答えようとしない」
クイーンは気を取り直すと、また話し始めた。
「自分から矢の前に飛び込んだのは、間違いないんだな」
パソコンに目を向けたまま、私は質問した。
「それは確かよ。お兄さんはもとより、部員のほとんどが目撃してるから」
「悩みやストレスは抱えていなかったか?」
「私の知る限り無いと思う。成績も良いし、学園生活も楽しいって言ってたから……兄妹仲も良くて、お兄さんの試合や練習にも、よく顔を出してたわ」
話し続けるクイーンの表情が、再び険しくなっていく。
「勿論、お兄さんの麗児さんにも聞いてみた。でも全く心当たりが無いって、ひどく動揺してた。今は付きっ切りで看病してるわ」
「なるほど……では、自殺が目的だった可能性は低い訳だ」
話の合間を
【自殺】という言葉に、全員がギクリと顔を歪める。
「ねえ……なんとかならないかしら、ポー」
クイーンが、懇願するような口調で言った。
世話好きで友達思いの彼女にとって、どうしてもこのままにはしておけないのだろう。
皆の視線を感じながら、私は顎に手を当てた。
「原因不明の自傷行為か……確かに、異常行動ではあるな」
私はパソコンから顔を上げると、結論を言い放った。
「では、これを今回の研究対象としよう。何か異論のある者は?」
その言葉に、全員が顔を見合わせる。
わが【異常心理学研究会】のモットーは、異常行動をとる者の心理を探り、その仕組みを解明する事。
そのためなら、学内外を問わずどこにでも足を運ぶ。
どんなに難解で非現実的な案件であろうと、そこには必ず理由がある。
だから絶対に諦めない。
その精神は、ここにいる部員の共有理念なのだ。
その理念を推重する私の決断に、誰も異存は無かった。
口にこそ出さないが、そこに強い信頼と尊敬の念がある事を私は知っていた。
「……しゃーねーなあ。まだ見ぬ麗菜姫のため、スカイウォーカーの私めが一肌脱ぎますか」
ドイルが
横に座ったクリスが、キョトンとした顔をする。
「あれれ?クリちゃん、知らない?『スターウォーズ』……SF映画の金字塔だよ」
ドイルの言葉に、すぐさま
どうやら、全く知らないらしい。
「あ、いや、今回の件には全く関係ないから……大丈夫だから……と、とにかく、クリちゃんも一緒に頑張ろうよ……ね!ね!」
ドイルの懸命のフォローに、クリスは小さく頷いた。
それを見たクイーンの顔に、笑みがこぼれる。
「ありがとう。ポー……みんな」
そう言って、安堵の表情を浮かべるクイーン。
ドイルはウィンクしながらVサインを出し、クリスは何度も頷いて見せた。
「それでは、早速調査開始だ」
私はそう宣言すると、今まで見ていたパソコンを全員の方に向けた。
画面に幾つかのグラフが表示されている。
「これは?」
クイーンが不思議そうに首を傾げる。
「お前の話を聴きながら調べてみた。現代の若者の自傷行為に関するデータを、ざっとまとめたものだ」
「現代の若者の……自傷行為……」
クイーンは画面を見つめ、私の言葉を反復した。
「最初に言っておくが、【自殺】と【自傷】では意味合いが全く異なる。【自殺】が【自らの意識の完全消滅】……つまり【死】が最終目的であるのに対し、【自傷】は【目先の苦痛を緩和する事】を目的としている。それは、【生きる願望の屈折した形】であり、根底にあるのは【生への執着】だ」
私は
「先ほどの話だけで確定はできないが、神城麗菜が自殺を計ったとは考えにくい。本当に命を断ちたいなら、他に確実な方法が幾らでもあるからだ。タイミングの難しい弓矢に体を投げ出すなど、あまりに非合理的過ぎる」
朗々と語る私の声が、室内に木霊する。
皆黙って聞き入っていた。
「つまり麗菜は死にたかったのではなく、死ぬ覚悟で何かをしたかったんだ。それが、はたして何なのか……」
そこで言葉を切ると、私はパソコンの画面を睨んだ。
「このデータによると、自傷行為の原因として最も多いのが【クライシスコール】と呼ばれるものだ。【自傷】する事で、己れの苦痛・苦悩に気付いてもらいたいという一種の警鐘だ」
「苦悩って言っても……麗菜が何かに悩んでたようには見えなかったけど……」
私の説明に、
私は再び椅子に座ると、両手を広げてみせた。
「人の心理ってヤツは計り知れない。お前が気付かないだけで、強固な仮面を被っていたのかもしれん」
そう返答した私の脳裏に、一瞬の影が走る。
私は顎に手をやると、ひとり熟考の深淵に沈んだ。
「あるいは……それしか方法が無かったのか……」
ポツリと呟く私を、皆黙って見つめた。
室内が重苦しい空気に包まれる。
「……それで、これからどうする?」
珍しく神妙な面持ちで、ドイルが沈黙を破る。
全員の視線が私に集中する。
私は顔を上げると、静かに口を開いた。
「とりあえず、現場確認からだ。まずはイメージを描く事が重要だ」
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