生命
紗知と共に一階の会議室へ移動した。会議室には廉が一人、黒いソファーに座っている。二つのソファーに囲まれる形で長机があり、その上にはカップが添えられている。
「おう、様になってるな。二人共、座り給え」
廉が瞬を一瞥し、向かいのソファーに促す。
「はい!」「ああ」
二人はソファーに腰を下ろした。
机に置かれているコップは三つで、なみなみと水が注がれている。
廉はコップを手に取ると口元へ持っていき、中に注がれていた水を体の中に流し込んだ。
「え、何してるんですか……」
「水分補給だ。飲む、とも言う」
透明に澄み渡る水。正直、瞬にとってなんらかの物質を体の中に入れることは違和感でしかない。川や海を見たときに飲もうとは思えないだろう。
「この世界の常識だ。飲み物を飲み、食べ物を食べる。そうしないと生き物は生きていけない。そのはずなんだ」
どこか愁いを帯びた目をして廉は言う。その意味があまり分からなかったが、紗知が黙り込んだ。
瞬はコップの中になみなみと注がれた水を見て思う。自分は本当に何も知らないのだと。飲み物を飲むことが常識らしい。食べ物を食べるのが常識らしい。瞬は何一つ分からない。生物がどうして生命活動を全うできるのか、分からない。けれど、その知らないことを知れるチャンスが到来したのだ。どうしてこの世界に来たのか。それは全てを知るためだろう。
瞬は目の前に置かれたコップを豪快に掴み取ると、グビグビと水を飲み干した。
「ふう。なんか、力が溢れ出てくる気がする」
「疲れてたんだろう。あるいは喉が渇いていたか。暑い日は特にな」
廉はニカッと笑った。
「さて、本題に入るぞ。高木瞬くん。まずは君にこの世界について軽く説明しよう。まあ今までのあたしたちの会話でなんとなく理解できてる部分もあるかと思うが」
「頼む」
「ああ」
とてもワクワクする。ドキドキする。瞬が初めて
「全てはプログラムで創られ、人間が忌避する全てのものを、争いの火種になるであろう全てのものを取り除いたのが君がいた世界だ。あたしたちは電脳世界と呼んでる。そして人間の情報をコピーし、電気信号で架空の世界に送る。現実世界の肉体は医療技術で生かす。これが基礎だな」
「難しくてあまり分からないが……要は肉体はこの世界にあるけど意識はあっちの世界にある、という解釈でいいか?」
「ああ、それで構わない。こっからは質疑応答でいこう。全てを説明するのも難しいからな」
「分かった」
質問は溢れるほどあるが、まず知っておかないといけないのは、
「神様ってのはなんなんだ?」
「ああ、それは比喩だ。まあほとんど神様みたいなもんだし、あっちの住民が勝手に崇めてるだけだけどな。あたしたちはあの世界を監視し、管理している。まあ世界は完成してるから、その仕事のほとんどは危険思想を見つけ、対応することだな。君のようにこの現実世界に招くこともあれば殺すこともある。この二つの基準になってくるのはそいつがどれだけ電脳世界と現実世界で影響を与えるか、だ。できるだけ殺したくはないが、
「なるほど。ちなみに俺がこの世界に来たのはその危険思想ってやつがあったからか?」
「ああ、そうだ。君はこの世界に疑問を抱いている。それが世界全体に、日本人全てが抱いてしまうなんてことがあれば均衡が保たれない。人間は高い知性を持っているから、この世界がプログラムされたものだと解明する者が現れる可能性がある。もしそうなれば我々の管理をあちらから妨害したり、新たにプログラムを構築されかねないんだ」
正直、考えすぎだろと瞬は思う。もし世界の真実を知る人間が現れ、全ての人間にそれが広まったとしても、この管理社会が崩壊するなんてことは万に一つもないだろう、と。けれど世界を管理している廉が危惧しているのだ。もともと電脳世界にいた瞬なんかよりよっぽど知識があるし知恵も回るだろう。これは考えても無駄なことだな、と一旦置いて、瞬はもう一つの疑問を投げかけることにした。
「じゃあ神様に祈ったら子供ができるってのは?」
「んっ!」
今までだんまりを決め込んでいた紗知が急に声を漏らした。訪れる静寂。紗知の顔が段々と赤くなっていく。少しして、ちびちびと飲んでいた水をゆっくりと机の上に置いた。
「……すみません」
「ふふっ。紗知は可愛いな」
「もう、やめてください……」
「えーと、どうかしたのか?」
「なんでもないですぅ」
とうとう
「えーと……」
「質問に答えるよ。まあ子供がどうしてできるのかは説明したら長くなるけど、第一に受精をしないといけない。けれど電脳世界にいる人たちは受精ができないのさ。だからあたしたちが変わりに人工授精をしてあげて、この世界に産まれた赤ちゃんを電脳世界に届けている」
「うーん、分ったような分からないような」
「まあ、この近くに図書館がある。あの世界にも本は少しだがあったろう? この世界には星の数ほど本があるからな。些細な疑問は自分で調べてみるといい」
「本、か」
「もちろん一人での行動は禁じている。行きたければ仕事がないときにでも紗知を連れて行き給え」
「仕事、とは?」
「あー、そうか。仕事という概念もないんだよな、あそこは。まあそれについては追々説明する。一先ず質疑応答はこれで終わってもいいか?」
「ああ、分かった」
廉は水を飲むと、手を組み目を細めた。瞬の勘違いでなければ、悲壮感を漂わせている。
「少し、あたしの話に付き合ってくれ」
「なんだ?」
廉は瞬の瞳を見る。今までと比べて、一層堅苦しい雰囲気だ。
「これは、あたしの思想の問題だ。だから君にとってどうということではない。けれど、聞いてほしいんだ」と前置きをし、話し出す。
「まず、人間は、生物はどうして生きていると思う?」
「えっと、命を授かったから?」
「それも一つの答えだろう。だが、それは個人の問題で、種としての問題ではない」
この時点で、瞬は話の内容についていけなくなっていたが、廉は話し続ける。瞬が理解できないと知りながらも、自らの理念を確認するように。
「生きるというのは、種の繁栄と進化を続けることだとあたしは思っている。これがもしも終わるとしたら、その種が絶滅したときだけだ。けれど今や人間をコールドスリープさせ、電脳世界で永遠の命を手に入れようと国際的に動いている。日本は人間をコールドスリープなどせず、未だ死が待ち受け、あたしたちがこうして管理しているが、他国ではそれすらもなく、本当の楽園を築いているところもあるんだ。もしもそれが世界の当たり前となれば、その時点で人類の、ホモ・サピエンスの進化は途絶えることとなる。それはあってはならないんだ」
物を言わせぬ迫力があった。廉の根幹に触れた気がする。
瞬は何一つとして理解できなかったが、同時に理解したいとも思った。
一泊置いて廉はまた口を開く。
「君は、生きていると強く実感したことはあるか?」
「生きている……そりゃあ生きてるんだから、実感も何も――」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ。
君は痛みを感じたことはあるか? 空腹を感じたことはあるか? 満腹を感じたことはあるか? 理性の歯止めが聞かないくらいの性欲と暴力的な思考にその身を支配されたことはあるか?
あたしはな、肉を食ってるときが一番生を実感するんだ。あたしは、生きてるんだ! て。高木瞬くん、もう一度聞くぞ。君は生きてると、強く実感したことはあるか?」
痛みなら、会議室に来る前に覚えた。けれど廉の言いたいことはそういうことではないだろう。
「……ない、な」
「そうだろうな。あんな世界で生きてりゃ」
廉は胸ポケットからタバコを取り出す。
「途中からどうでもいい話を長々としてしまったな。すまない。話はこれで終わりだから、紗知に部屋まで案内してもらいな」
「……ああ」
それでは行きましょう、と紗知が先行し、瞬は後を追う。会議室から出て扉を閉めるとき、なんとはなしに廉を見ると、どこか遠い目をして白い煙を吐き出していた。
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