胡蝶の夢

 夢を見ている。瞬は夢の中でそう認識した。

 暗くて周囲の様子が分からなかったが、段々と夜目にも慣れてきた。おそらくここは路地裏だ。人は誰もらず、足元に猫がすり寄っている。

 不気味な気配を感じるのはその先、ゴミ袋に群がっている小さい飛んでいる何か。ブーン、と音を出しては飛んだり、ゴミ袋に止まったりを繰り返している。

 これは悪夢か。

 そう認識しても瞬は冷静でいられた。しかしその冷静さも次の瞬間に消えることとなる。


「やあ。君が高木瞬だな」

「なっ」


 女だ。女の声がした。周囲を見回してもそれらしい人物はどこにもいない。頭の中に直接響いてくる未知の女の声は、瞬にとって恐怖であり嫌悪感であった。


「だ、誰だお前は」

「初対面の人に誰だお前は、とは。礼儀のなってないガキだな。……まあその質問には答えられない。いつか答えるときが来るだろうが、それは今じゃない」

「はあ……」


 意味ありげな女の発言に苛立ちが募る。言葉を交わすごとに恐怖は薄れていく。瞬は頭を抱えた。


「意味分かんねえ……」

「まあそれも仕方ない。あたしが説明してないからな」


 足元にいる猫に手を伸ばして抱きかかえる。頭を少し撫でてやると喉を鳴らした。


「まあ、どうでもいいか。夢だし」

「夢、か」

「なんだよ」

「プログラムが夢を見るのか? それにあたしは夢の中でこれは夢だと認識したらすぐに目が覚めてしまうんだが、これは人によって違うのかな。明晰夢、なんてのもあるみたいだし。それとも君たちがプログラムだから?」

「は? 何またわけの分からないことを言って……」

「高木瞬。君はこの世界の真実を知りたがっている。そうだろう?」

「っ!?」


 この女は一体何者なんだ。どこまで俺のことを知ってる。どこまでこの世界のことを知ってる。

 薄れていた恐怖が再燃して、猫を抱いていた手が力なく解ける。猫は華麗に着地し、軽快なステップを踏んで遠くへ行ってしまった。


「あたしたちは君たちの言うこの世界の神だ。創造主だ。だが、君たちと同じ人間でもある」

「……わざわざ神様がどうして俺にそれを?」

「君は好奇心の塊だ。君の好奇心はいずれ世界に変革をもたらす。それは、阻止しなければならない」

「俺を消すのか」

「それは君の返答次第だ。君みたいに知恵が回るやつを殺すのは惜しい。性格もなかなかに面白いしな」

「……返答って?」

「君も、この世界の神にならないか?」


 さすればこの世界の真実を知ることができる。そんなニュアンスを持った女の言葉に、瞬の返答は、


「誰が夢の中に出てきた怪しい女の話を信じるかよ」

「ふっ、それもそうだな」


 瞬間、景色が一変した。

 瞬は立ち上がって辺りを見回す。青くなった空、鬱蒼とした木々、遠くに見える都市部。

 ここは天文台だ。瞬は結局あのまま眠ってしまっていたらしい。普段は家に帰って寝るのだが、雪が先に眠っていたし、仕方ない。


「それにしても変な夢を見たな」


 と、そこで違和感を覚えた。


「あれ? 雪は?」


 昨夜一緒にいた雪がどこにも見当たらない。何も言わずに瞬から離れることはないから、これはおかしいことだ。嫌な予感がする。

 瞬はプログラムを起動することを意識する。すると手元にホログラフィーの画面が浮かび上がった。


「メールは届いてないか」


 辺りを見回しても、書き置きのようなものはない。雪にメールをすることにしよう。そう思い立ち、簡素な文を書いて、送信する。しかし、画面に表示されたのは送信に失敗したという文字。


「は? ネットが繋がってないだと?」


 ありえない。今までに通信トラブルが起こったことは一度もなかった。世界中にネットワークが張り巡らされて、いつでもどこでも繋がることができる。それが当たり前だった。なのに……


「おい! 雪! どこにいる、雪!」


 瞬は焦燥感に支配され、それを吐き出すように叫んだ。

 無論反応はなく、焦りのままに走り出す。もしかしたら家に帰ってるだけかもしれない、と儚い希望を胸に、屋上のドアに手をかけた。


「あれ? なんで、なんで開かないんだよ」


 だが何度ドアノブを捻っても、ドアは永久に凍結されたかのようにびくともない。


「なんで! なんで!」


 瞬は両の拳を叩きつけた。鈍い音が空虚な世界に寂しく響く。


「随分とやつれているな。君の性格上、恐怖はあまり感じないはずなんだが……ネットワークを切り離した弊害か? これはある種のバグなのかもな」


 また、あの声だ。夢の中で聞いたあの声が背後から聞こえた。


「……なんなんだよお前」

「言ったろ? あたしは神だ。まあ詳しい話は現実世界でするから待ってろ」


 瞬が振り向くと、短髪で長身の女の姿があった。白いシャツの上に紺のジャケットをぴっちりと着こなしているスーツ姿の女は、口に白い棒状の何かを咥えている。「チッ、電脳世界のタバコは味気ねえな」

 そのまま『タバコ』と言うらしい白い棒状のものを地べたに吐き捨て、女は瞬を見る。


「あー、あたしのこと、信じられるか?」

「なんだよ急に」

「これで怪しい女じゃなくなっただろ?」


 そういえば、と夢の中でした会話を思い出す。あのときはただの夢だと思っていたが、そうではないらしい。


「急に姿を現した時点で怪しいだろ……」

「えー、まじ? それじゃ骨折り損になってしまう」


 加えて自分のことを神だと自称する。怪しさの塊ではないか。


「まあ、いいけど。俺はお前のことを信じる。だから質問に答えろ」


 実際、心の奥底では信用していない。けれど瞬には致命的に情報が足りていないのだ。下手なことはできない。

 瞬の問いに女は軽く答える。


「現実世界に行ったらね」

「今答えろ」

「ふむ……」


『現実世界』それがなんなのか瞬には分からない。瞬にとっての現実は今、この世界だし。


「分かった。でも時間がないから少しだけな」


 ため息混じりに女はそう言った。


「雪は、どこにいる?」


 瞬はその眼光を女へ向けた。女は真摯に受け止める。

 正直、瞬は自分でもこの質問の意図が分からない。瞬は雪のことを特段愛してはいないのだ。だからどうして人の心配なんかを……


「それについては問題ない。逢坂雪は生きてるさ」


 どうして瞬や雪の名前を知っているのか疑問に思ったが、そこまで重要なことではないと判断し、思考の片隅に置くことにした。


「本当か? なら――」

「どうして雪がいないのかって? それは君をローカルネットワークに切り離したからだ」

「……どういう意味だ?」

「この世界はネットワークで繋がれている。君をその繋がっているネットワークから排した。それだけのことさ。だからこの世界には今、君とあたししかいない」

「つまりは俺を全く別の世界に入れたってことか」

「そうだ。君は賢いな」


 女は視線を瞬から外し、遠くの高層ビル群を見る。それにつられて瞬もそちらに視線を向けた。


 幻想的だった。


 ビルが光の粒子に変わって天へと昇っていく。世界が美しく崩壊していく。

 やがてそれは四方八方、見渡す限り、全ての物質が同じように消え始めた。森が、住居が、建物が、全て光の粒子となって、澄み渡る青い空へ還っていく。


「そういえば、君の返答を聞いてなかったな」


 女の視線が再び瞬を捉える。


「俺は、この世界の全てを知る神になる」


 強く、心に誓った。女は優しく微笑んで、


「現実世界でまた会おう」


 光の粒子となって消えていった。




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