第7話 愛馬を殺した
世間が夏休みに入ると、店は1年でいちばんの繁忙期を迎える。豊で独特な自然を持つこの島の人気は高く、日本国内に限らず、世界各国から、観光客や学者が訪れる。
美波が親の食堂で本格的に働きだしてから3か月が経とうとしている。学生の時は厨房奥で、皿洗いばかりをしていた美波も、いまでは接客もこなせるようになった。学校が休みになった山岳部の美月は、屋久島へ長期合宿へ出ていて不在だ。長女の美海も、仕事が忙しくて、帰って来られない。最近になり腰を患った美紀子に立ち仕事は無理なので、店の出入り口付近に新しく建設されたレトロ感漂うレジカウンターに、大きな座りやすい椅子を置いて、会計担当をしている。祖母はこの場所をなかなか気に入っている様だ。
尊が調理全般を担い。調理補助と洗い場は美浜が担当した。この頃はじめてリースした業務用の食器洗浄機がフル稼働し、重宝している。
「美波ちゃん、また可愛くなったんじゃない」
尊の同級生の滝田と百地が、忙しく店内を動き回る美波をからかう。
「いつもありがとう、誉めてくれて」
最近は美波もこうした軽口が叩ける様になった。
「やっぱり眼鏡をかけてない方がかわいいな。あんなに美形だったとは思わなかったよね、髪型だってハイカラになっちゃってさ」
「羨ましいだろう、モモちゃんには髪の毛が生えていないからね」
「うるさいな、20歳まではフサフサだったんだよ。生えてないんじゃない。抜けたんだ」
「苦労が多いねえ、モモちゃんは」
「本当に、俺は苦労ばかりさ」
百地が禿た頭を触った時、尊が手に着いた水をふたりに掛けた。
「お前たちに無駄話ばかりしてないで、さっさと食べて帰ってよ。外にもお客さんが待ってるんだからさ」
「あんた、お客様に向かってお前はないだろう」
美浜が上がった唐揚げを更に盛り付けながらそういった。
「いいんだよ、俺たちはおぎゃーって生まれた時からの幼馴染なんだから」
一人っ子の尊は、このふたりとは本当の兄弟の様に育った。
「わかったよ帰るよ尊。また夜に来るけど」
ズボンの後ろポケットに入れてある財布を取り出した滝田は、財布の中を確認しながら話しだした。
「そういえばさ、馬の寧音が死んだって知ってたか?」
「ああ、知ってるよ。4月だろう」
「その話しが、密かに犯人捜しに発展しているらしいよ」
「犯人捜しってなんだよ」
百地にいわれれると、滝田はちらりと美波を見て、また今度話すわといった。美波は、カウンター奥にある場所で、お冷を注いでいたので、滝田の話しは聞こえていない。
昼の営業が終わり、夜営業も終わりの時間帯になり、久しぶりに凌馬が顔を出した。凌馬は週に1回のペースで店に来ている。
「いらっしゃい凌馬さん。きょうは遅いんですね」
美波が凌馬に気づき、満面の笑みを見せた。カウンターに座る凌馬が「いつもので」というので、美波は店の廊下手前にあるショーケースからビール瓶を取り出した。
「あっやっぱり大瓶で」
凌馬は片手を上げて、遠慮がちにそういった。彼と入れ替わりに他の客が帰り、ひとりになった。
「良かったら、一緒に飲んで下さいませんか」
凌馬はビール瓶を両手で持ち、尊と美浜を交互に見た。美紀子は21時には自宅の部屋に戻るので、酒を飲める年齢の人間は他にいない。
「美波ちゃんもなんかジュースでも飲んで」
「いえ、わたしは大丈夫です」
店内の隅っこの方に立っていた美波は、お盆を手前で抱え、美波は首を振った。
「そんなこといわないで、咽喉、渇いたでしょう」
「美波、こうおっしゃって下さるんだ、いただいたら?」
「たったの140円です。飲んで下さい」
この店のソフトドリンクは140円と安く、小瓶なので殆ど利益がない。
「では、お言葉に甘えて」
美波はオレンジジュースを選んで、自分でグラスに注いだ。
「いただきます」
遠い所から、グラスを持ち上げて、そういった。
凌馬はきょうのお造りと、タコと鶏軟骨の唐揚げを頼み、酒のつまみにした。
「ここのレモンは美味しいですね」
瓶ビールを2本飲んだ後、凌馬はレモンチューハイを頼んだ。輸送費が高い離島なので、広い敷地を有する坂口家では、レモンや野菜を自家栽培している。
「なんかいいことでもあった?」
尊が聞いた。きょうの後片付けも終わり、明日の仕込みの準備をしている。
「いいえ何も。寧ろ、嫌なことの方が多いいです」
チューハイを一気に流し込み、凌馬はおかわりを頼んだ。
「時間、大丈夫ですか?」
そういって凌馬は壁の時計を見た。時計の針は21時半を指している。
「大丈夫だよ。閉店は22時だからね。この時間に他に客がいないのは店の責任だよ。そうだ、きょうは早めに終わったから、良かったら付き合うよ」
夏休み期間中ということで朝営業がない分、夜更かしも出来る。
「ありがとうございます。僕も明日は休みなので、少しだけ付き合って貰ってもいいですか」
凌馬は乗馬クラブのスタッフが多く住んでいる、近所のアパートを借りていた。ここまでは徒歩で来ている。
「美波、良かったら、ここに来て夜食を食べないか」
同じ場所で突っ立っている美波に、尊は声を掛けた。
「はい」
美波は夜食の準備をはじめた。美浜は片付けが終わると風呂に入りに行くので、夜食当番は美波ひとりで担当した。手慣れたもので、3品くらいは10分以内で拵えてしまう。
「何があったの」
カウンターの中で椅子に座り、尊は足を組んで、焼酎の水割りを飲んでいる。調理場には大きな窓が3つあり、窓は全て開け放たれ、網戸に無数の虫がふっついている。カエルや虫の音が騒がしく、それが風流でもあった。
「たぶん、お聞きだとおもうのですが、馬の寧音が亡くなりまして」
「そうだったね」
尊は斜め上を眺めた。そこには、家族写真が飾ってある。尊の視線を追って、凌馬も写真を見た。額縁に入った写真は家族みんな笑顔だった。
「照之さんから聞きました。寧音を取り上げたのは慎一郎さんだって」
「そうなんだよ、あの子は本当に動物が好きでね。特に馬は大好きで、寧音を、まるで自分が産んだ子供かの様に可愛がってた」
尊はそういって笑い、焼酎を飲んだ。目尻の皺に、涙が光っている。
「寧音が死んだって聞いた時は哀しかったな」
尊は今度、娘を見た。美波は必死に料理を作っているが、話しは聞こえているだろう。寧音が死んだと聞いた時、美波は暫く言葉を発することができなくなった。表情も失い、涙に暮れる日々を送っていた。いまでも泣きながら眠る日がある。
「それで、嫌なことに、寧音の死が絡んでいるのかい?」
「腑に落ちないことがありまして」
「ふーん、それはどんな?」
足を組みなおし、尊は身を乗り出した。
「寧音が、脚を骨折していたの知ってますか?」
「いや、知らなかった」
料理の手を止め、美波がこちらを見た。
「骨折だったの?」
「はい、なんて聞いていたのですか?」
「病死だと、感冒と聞いていた」
「そうだったんですか。僕は、クラブ以外にはこのお店にしか来ないので、人との関わりが狭く、世間にどう伝わっているのか知らなかった」
「それで、寧音はなんで骨折したんだい?」
「それがわからないんです」
「わからない」
「はい。早朝、照之さんが馬房に行くと、寧音は既に骨折していて」
照之から聞いた話を、凌馬は丁寧に説明した。
話しを聞き終えると、尊は顎に手を置いて、考え込んだ。夜食を作り終えた美波は、それを盆に乗せて、尊や、凌馬に出した。
アボカドと海老のサラダ、ほうれん草とベーコンの焼きビーフン、ささみの叩きの3品だ。美波は未成年なので酒は飲めないが、酒のつまみは大好物だった。
「すみません、僕までご馳走になって」
「たくさん作ったので、食べて下さると助かります。母はお風呂から出てからヨガをするので、2時間は戻りませんし、ダイエットとかで余り食べないの」
「美紀子さんは?」
「うふふ、もう寝てます。お祖母ちゃんは9時に上がるので、その時になんか食べているみたい。凌馬さんが来たって聞いたら悔しがりますわ」
「そうですか、僕も美紀子さんに会いたかったです。どうか、くれぐれもよろしくお伝え下さい」
「わかりました」
どうぞというように、隣り合わせに座る美波は、料理に手を差し伸べた。
「それでね、さっきの話しに戻っていいかい?」
尊に聞かれ、飲み込んだ食べ物を喉でつかえた凌馬は胸をたたいた。美波は急いで水を注いで来ると、凌馬に手渡した。
「ありがとうございます。ああ、苦しかった」
「ごめん、急に話し掛けたから」
「いえ、器官が弱いだけです」
凌馬はもう一度、水を飲んでから話した。
「寧音の死因は骨折による転倒だと、いいましたが、なんせ骨折した理由がわからない。しかし、照之さんの話しによると、馬場に馬が放たれた跡が」
「誰かが、乗ってたってことかい」
美波の食事に手をつけず、尊は聞き入っていた。
「そうなんです。しかしスタッフの誰も首を振り、迷宮入りで」
「スタッフ以外が乗ってたってことは?」
「鍵を持ってる人間ということになります」
「多いの、鍵を持ってる人?」
「はい。スタッフは全員ですが、他に優子ちゃんの会社の役員が数名。あとは、出入り業者ですかね」
「昔、働いてた人も持ってるんだね」
「基本的には返して貰ってるらしいのですが、返し忘れた人の場合、そのままで、設立以来、鍵を変えていないので」
「それじゃあ、何十人も鍵を持ってるんだね」
尊は酒のおかわりを作った。
「凌馬さんも飲まれますか?」
美波が聞いた。これまでの話しを顔色も変えず、黙って聞いていた。
「じゃあ、もう1杯だけ」
「1杯だけなんて言わずに、まだまだ飲もうよ。まだ10時半だよ」
「ああ、はあ」
「どうぞ、新しいレモンにしときましたね」
「ありがとうございます」
凌馬は丁寧に頭を下げた。
「そうだ!」
尊は立ち上がった。
「美波は鍵、返したの?」
「わたし……」
答えようとした時、凌馬が遮った。
「すぐに返してくれたと、照之さんがいってました」
「そっか、それじゃあ、美波は容疑者から外れたな」
「容疑者だなんて、美波さんは関係ないです」
「わたし……」
「美波ちゃん、ごめんね。変な話を聞かせちゃって」
「いいえ、でもわたし……」
「最近、こんな話で、クラブが盛り上がってて、みんないやに楽しそうで、遣りきれないんです。馬が死んだ話なのに」
「それが、あったまきちゃったんだね、わかるよ」
「あの」
美波が少し、大きな声を出した。そして店のレジを開け、中から鍵を取り出した。
「これ、クラブの鍵です。わたし、未だ、返してないんです」
「美波」
尊も、凌馬も立ち上がり、美波の持つ鍵を見つめた。
湿度が高く、凄まじく暑いのある日の午後、店の休憩時間を見計らって、優子が美波を呼び出した。場所は店と乗馬クラブの中間地点にある公園の前だ。クラブの鍵を返せとメールに書いてあった。鍵のことは、どうやら凌馬から聞いたらしい。
「優子ちゃん、どうしたの急に」
美波は優子の乗る車の窓を覗いた。
「ちょっとー遅いじゃない。まあいいわ、車に乗って」
優子は自分の車の助手席を顎で指した。
「えっ、何処に行くの。わたし、夕方からお店があるし」
「何処にも行かないわよ、外が暑すぎるから車に乗れっていってんの。冷房が効いてるし」
「あっそうか」
美波は自転車を公園の入り口付近に停めてから優子の車に乗った。
「鍵」
優子はこちらも見ずに掌を出した。
「はい」
店のエプロンのポケットから鍵を取り出し、優子の掌に落とした。優子がジロリ睨む。
「なんで落とすのよ」
「えっ」
「丁寧じゃないわね、その態度」
「ああ、ごめん」
「もういいわよ、ほんとにもう」
優子は鍵をダッシュボードの中に入れると、片肘をボードの上に乗せ、ジロジロと美波を見た。
「もういいですか。ご飯も食べてないので」
「メールちゃんと見た」
「はい、読んだけど」
「そこになんて書いてあった?」
「えっと」
ポケットを探り、美波は首を傾げた。
「スマホ、忘れてきちゃった」
優子は頭を抱えている。
「あんたって、本当に、どんくさいよね」
「うーん」
「あのメールに、書いたのよ。馬の寧音が死んだ日の朝、何をしてたかって」
「寧音ちゃんが亡くなった日は、わたし、海岸通りをランニングしてました。高校を卒業してからの毎朝の日課だから」
「毎朝」
「はい」
「雨の日も」
「……」
美波は考え込んだ。
「台風の日も」
「台風の時は休みますけど、雨は、小雨なら走ってます」
「ああ、そう」
「はい、それが何か、寧音と関係が」
「馬鹿なの」
間近で指をさされたので、美波は一瞬、目を閉じた。
「疑われているの、あなた」
「わたしが、なにを?」
「美波ちゃんが、馬を殺した犯人じゃないかって。みんないってるよ!」
「そうなんだ」
美波はうつむいていた顔をゆっくり上げ、優子を睨んだ。
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