第3話 笑顔のすてきな人

元日、美波は巫女の手伝いで近所の神社にいた。参拝は、年が明けてすぐに家族で済ませている。

数年前のアニメ放送でこの神社がモデルとなったことから、毎年、住民を超える数の観光客が集まるようになった。人手不足になっても離島のため、容易に人材を確保できず、美波に白羽の矢が立ったということだ。美月では幼すぎて頼りないし、美海は巫女にしては派手ということで却下になった。

「美波ちゃん、学校がお休みの時にごめんね」

宮司の奥さんはそういってみかんを一個、手渡した。

「休憩しよう」

「はい」

巫女姿の美波は、慣れない足取りで社務所の奥にある休憩室に向かった。

「あったかい」

美波は腕まですっぽり炬燵布団の中に入れた。電気は入ってないが、真冬の雰囲気は楽しめる。

「寒かったの?朝が早いと、この季節は冷えるわよね。巫女装束は寒いし。わかるわ。わたしも若い時は寒がりだったもの。いまは暑いくらいだけど」

「大丈夫です」

「ほっぺが冷たい」

宮司の奥さんは美波の顔を両手で挟んでグニュグニュ撫でた。

「松子さんの手、あったかいですね」

「美波ちゃんのおてては冷たいでしょう。若い証拠よ。わたしも若い時は冷たかったもの。それでいつも主人が温めてくれたのよ。遠い昔の話しだけど」

「松子さんだってお若いですよ」

「そんなことないよー、見た目だけよ若いのは。アハハハハハハ」

豪快に笑う松子は今年40歳になる。夫婦に子供はいないが、おしどり夫婦として知られている。この神社も縁結びで有名だ。

「ところでさ、美波ちゃん来年卒業だよね、いくつになったの?」

「先月17になりました」

「あらやだ、誕生日だったの?」

「はい、でも」

「あっそうか、ごめんね喪中だったね」

「気にしないで下さい。家族でささやかに祝いましたので」

そういって美波は首をふった。

「そっそうね、そうよね」

「すみません、なんか」

しょぼんと肩を落とした美波は再び、炬燵布団の中に腕を入れ、座椅子に寄り掛かり、顔だけ出している。子供の時から慣れ親しんだ家なので、安心しているのだ。

「それで、話しは変わるんだけど、卒業したらどうするの?大学には進学しないんでしょう?」

「うん、もう学校はいいかな。高校に馴染むのだって2年もかかっちゃったし、大学に行ったらまた同じことだから」

「高校では友達はできたんでしょう?」

「いるよ、その子たちはみんな大学に行くんだけどね」

美波は炬燵から上半身を出して、きちんと座り直した。松子がお茶を煎れてくれたからだ。茶碗を手の中で温め、咽喉を鳴らして飲んだ。美波が猫舌なので、松子が気を使って水を混ぜて冷ましたのだ。

「その子たちと同じ学校に行けば良かったのに」

「勉強したくないもん」

「そんな、美波ちゃんは成績が良いじゃない。高校だって近場を選んだから、そうでもなくても、本来なら相当、偏差値の良い所にいけたのよ」

美波は首を振った。

「小学生の頃から他にすることがなかったから勉強だけしてたの」

「いまは他にしたいことが見つかったの?」

「うん」

「なになに教えて」

松子は美波に身体をにじり寄せて来た。ほのかに香水のいい香りがして、美波は目を瞑って吸い込んだ。

「乗馬クラブで馬と一緒に働くの」

「ああ、あそこの?」

松子は乗馬クラブのある方向を指さした。

「うん、あそこの」

「決まったの?」

「去年の夏にね、もう決まってたの。親には未だいってないけど」

「あら、どうして?」

「うーん」

美波は頭を抱える恰好でテーブルを見つめた。

「お兄ちゃんのことがあったから、馬に携わる仕事は嫌かなと思って」

「そっか、そっか、そうだよね。悩みどころだよね。美波ちゃんが実家に残ってくれるのは嬉しいだろうけど乗馬は」

そうだ!といって松子が手を叩くので、美波はどきりと身体をびくつかせた。

「乗馬クラブが駄目だったら、うちで巫女しなよ」

「ん、うん。考えとく」

「なーにが考えとくよ、生意気だー」

松子に首を絞められたので、美波は舌を出しておどけた。

神社のバイトは9時から午後2時までの5時間。それが終わると美波は乗馬をしに行き、5時からは家の手伝いをした。

乗馬クラブは年末年始は休みなので、馬小屋の掃除をしてから馬を牧場へ放した。ここの馬の中で美波が最もお気に入りなのは、2歳の牝馬で寧音ねねという名の栗毛色だ。他の馬に比べ、一回り身体が小さく、内向的な性格。自分に似ているところが気になるのも事実だが、それより、この馬はこの乗馬クラブで産まれており、出産には兄の慎一郎が立会い、取り上げた特別な馬なのである。

「ねえ、寧音ちゃん、優子ちゃんはなんであんなこといったのかな」

寧音とう名前は、クレヨンしんちゃんを好きだった慎一郎が名付けた。牡馬だったら、しんのすけにする予定だったらしい。美波は寧音の身体をゴムブラシでグルーミングしている。

あのクリスマスの夜、優子は凌馬の隣で楽しそうに談笑していた。凌馬の隣の席がまるで定位置のように周りの人間も扱っていて、ふたりの親密な関係が伺えた。優子が来てから数分後に、美波は二階の自室に上がって行ったが、楽しそうな声は、ずっと聞こえて来ていた。

美波は優子の発言が信じられず、布団を頭まで被り、漏れ聞こえる声を遮断した。翌日、寝起きの美波が台所へ行くと、両親と姉妹がその話題で盛り上がっていた。

「あの優子ちゃんがね、瞬時の判断で命を救うとはね」

「違うよお母さん、あの優子ちゃんじゃなくて、優子ちゃんだからできたの」

美海は味噌汁をお椀についでいたが、常に喋っているはいつものことだ。

「そうよね、優子ちゃんは子供の頃から優秀だったのも。スポーツも勉強もできて、それに美人でやさしくて」

美浜は、美波の存在に気づき、顔を洗ってくるよういった。

「もう洗ったよ」

ぼそぼそっといいながら、美波はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

寝ぐせがついた髪はボサボサで、眼鏡も下がっている。そんな妹の様子を見て、美海は溜息をついた。

「あんたもう、そんなんじゃ彼氏もできないよ」

「彼氏……」美波は人差し指で眼鏡を上げ、いただきますと手を合わせた。

「いいんだよ。美波は彼氏なんていらないな」

「お父さん、美波は初心だから、恋をして傷付いたら大変なことになるんだよ。少しは免疫をつけないとね」

「免疫ってなんだよ」

先に食事を済ませた尊はリビングのソファーで朝刊を読んでいる手を下げ、一緒に老眼鏡も下げた。

「恋をすることよ。だれかを好きになり、思い悩む事。成就しなくてもいいけど、それも青春じゃない」

「そうよ美波」

美浜は娘に焼きたてのパンを運んできて、そういった。

「優子ちゃんを見なさい。あなたと同じ年なのにもう恋人がいるじゃない」

「優子ちゃんは美波よりも半年年上だけどね」

美海はそういって美波の隣に座った。お味噌汁とパンと卵料理。これが坂口家の朝ご飯の定番だ。美波は自分の手前にある醤油を姉の皿の横に置いた。美海は何をいわず、目玉焼きに醤油をかけ、美波の前に戻した。

「恋人って……」

小さな声で美波がささやいた。「えっなんていった!」と姉が耳に手をあてる。

「ううん、なんでもない」

「あっそう。ところでさ、優子ちゃんの彼氏、なんて名前だっけお母さん?」

「凌馬くん」

いままで黙って食事をしていた美月が目をキラキラさせていった。若干12歳だというのに、この家、いちばんの早起きだ。

「凌馬くんだった。男前だよね彼、なんていうか、すっきりした顔立ちで、

日本的な美男子。好みだなあ」

「だめよお姉ちゃんは、気が強すぎるから」

「これこれ」

美海は真向いに座る美月の前に手を伸ばして指先でとんとんとテーブルを打った。

「それよりも何よりも、自分の命を救ってくれた人と恋をするなんて、なんだかシンデレラストーリーみたいでいいじゃない。王子様的な」

「王子様か、わたしにも王子様が現れるかな?」

コーンスープのスプーンを頬の横に持ってゆき、美月は夢見がちに瞳を輝かせた。この家で味噌汁は絶対だが、美月だけは本人の要望に応え、味噌汁とコーンスープの両方を与えられている。

「ごちそうさまでした」

食べ終えた自分の皿を持ち、美波が立ち上がった。

「あら美波、ぜんぜん食べてないじゃない」

母親が心配そうに近づいて来た。

「残してごめんなさい。食欲がなくて」

「どうしたの、熱でもあるの、風邪ひいた?」

美浜は娘の額に掌をあてた後、自分の額をふっつけた。

「熱はないようね。体調が悪いのなら、きょうは寝ていなさい」

「はい」

部屋に戻り、美波は鏡台の椅子に腰掛け、鏡を覆っている布を上げた。そこには髪の毛はグシャグシャで眼鏡もズレている情けない顔の少女が映っている。

「これじゃあ、王子様なんて来ないよね。来る筈ない」

あの日から1週間、美波は部屋の鏡台を覗いたことがない。洗面所にあるものは、どうしても目に入ってしまうのだが、わざわざ見る気になれない。

「決っして美人になりたいと思ってるんじゃないのよ。ただ、いまの自分の顔がとても嫌いなの。だって、意地悪な顔してる」

美波はブラッシングの手を止め、馬の横腹に頬をふっつけた。目を瞑ると、あの日の光景が浮かび上がる。夕日の中を、颯爽と走る凌馬の姿が。涙が流れ落ち、美波は微かに微笑んだ。

「無事で、本当に良かった」

「こんにちは」

突然、声をかけられ、美波は背中を向け、相手にわからないように涙を拭った。

「はい」

振り返ると、そこには凌馬がいた。腰を少しだけ折り曲げ、美波の視線の位置に顔を合わせようとしている。

「あ、えっ」

美波はすぐにうつむいた。

「事務所にだれもいなくて、もしかして、お正月休みでした?」

「ああ、そうなんです。4日から再開するみたいで」

「そうか、参ったな。きょう島に着いたんですけど、3日には帰るんです」

凌馬は手前に下げているボストンバッグを見下ろした。

「それは、大変で」

「ここの牧場に泊まらせて貰う予定だったんだけど、日にちが曖昧でして、いつ来てもいいよっていわれてたんです。まさかの正月休みとは」

「泊まる所、ないんですか?」

美波は漸く顔を上げ、凌馬と目を合わせたが、すぐに視線を逸らし、寧音のブラッシングを再開した。そのぎこちない動きに、凌馬はくすくすと笑いだしてしまった。

「えっ」

笑われている。人に笑われるのは慣れていた。美波は手を止めた。

「あっごめんなさい。美波ちゃんだよね?」

「えっ」

「驚かせたらすみません。僕のこと」

凌馬は深く頭を下げた。美波の動作を笑ったことを失礼だったと後悔している様だ。

「覚えてらっしゃらないと思いますが」

美波の手からブラシが落ちた。

「おぼ、覚えてます」

美波は未だうつむいている。

「そっか、良かったー。もう忘れられたのかと思って」

「いいえ、忘れるなんて、忘れるなんてありえません」

顔を上げた美波は勇気を振り絞り、凌馬の目を見た。一重だが大きい切れ長で、鼻筋が通り、口角は上がっている。色白の肌、繊細な動作が、彼の実直さを表して見えた。

「はじめて目が合った」

彼は大きく微笑んだ。目尻が垂れ、男だが愛らしかった。美波の胸の鼓動が限界を迎えている。

「美波ちゃん、25日の夜はありがとうね。馬が好きだと聞いたから、無理やりお客の前に出させることになって」

「……あ」

「そう君のご両親のお店で」

「うん、はい」

凌馬は唇を軽く噛み、視線を横にずらした。

「そうだ、美波ちゃんて、優子ちゃんのお友達なんだよね」

「は、はい」

「幼馴染なの?」

「そうです、幼稚園からの」

「それは凄いよね。僕にはそういう長い友達がいないから。最長でこの間、来たとしと、げんちゃんかな?としは小学生からで、げんちゃんは中学から」

凌馬の話声がハウリングして聞き難い。声が遠のき、頭がぐらぐらと揺れ出した。

「美波ちゃん、どうかした?気分でも悪いの」

その言葉を最後に、美波は意識を失った。


目覚めた時、美波は自宅の居間で横になっていた。坂口家にはリビングが2つあり、ひとつはキッチン横、もうひとつは祖母の部屋と繋がる和式の部屋だ。ここに仏壇が置かれている。今回、美波は仏壇の前に寝ていた。

「おきた?」

母の顔が真上にあり、それもかなり近かったので、美波は肩をすぼめた。

「疲労だって、お医者様が」

「疲労?ぜんぜん疲れてないのに」

「ごめんね。美波に甘えて働かせすぎたわ。巫女と食堂の両方じゃね」

母親は尻をストンと落とし、頭を落とした。

「気にしないでお母さん。わたしぜんぜん疲れてないって」

身体を起こそうとした美波を母親が制した。

「寝てなさい。何も気にすることないよ」

「お店は?開いてる時間でしょう」

「うふふふ」

「なーに気持ち悪いよ、その笑い方」

「あ、ごめんごめん。家に美波を運んできてくれた、あの凌馬くんがね、手伝ってくれてるのよ」

美波は直ぐには母親の言葉の意味が理解できず、ぼーっとしていた。


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