第4話 恋のはじまり
店が終わり、家族が夜食を取るのはいつも深夜11時になる。その前にひとりひとりづつ交代で夕方から8時までの間に夕食を食べる。調理が中心の尊は、休憩で厨房を抜ける訳にもいかないので、店がはじまる前に夕飯をいただく。なので昼食と夕食が一緒になってしまう。
凌馬が自分の家の食堂で働いてくれていると聞いてから、結局、美波は一睡も出来ずにいた。母親の話しによると、倒れた美波を車で店まで連れて来てくれた時、美波は凌馬に抱きかかえられていたらしい。それから医者を呼び診察をしたが、詳しいことはわからず、疲労だろうと診断された。近くの診療所の医師はもう90歳で、どんな時も「疲労」と「胃腸風邪」しかいわない。なので、ここら辺の人間は、一応は診療所で診て貰い、紹介状を取って内地の病院に行くのだ。今回、美波もそうするつもりだと、母親はいっていた。
「なんで、こんなことに」
恥ずかしい。恥ずかしくて仕方がなかった。どういう風に倒れたのだろう。巫女のバイトの後だったから、髪型は整えていたが、口紅のひとつもつけていない。真昼間に素顔をどの距離で見られたのだろう。よだれは垂らしていなかっただろうか。口をぽかんと開けていなかったか。寝ながらオナラなんてしてないか。考えれば考える程、頭がおかしくなりそうだった。
しかももうすぐ、母親が上がって来るだろう。ごはんは何が食べたいか聞かれる筈だ。洋風なハイカラなものを注文しようか。大好きな、納豆ネバネバ丼なんて死んでも凌馬の前では食べたくない。
「ちょっと待って」
美波はがばっと起き上がった。
「どうして凌馬さんが、ここで働いてるの」
そこまで考えてなかった。ただただ頭の中の整理ができずに右往左往していた。悩んでいたら廊下を走る足音が聞こえた。ドシドシとした足取りなので母親だと想像した。散々、荒々しい音を出していたくせに、部屋の前に来ると急に静かになる。
「美波」
襖の向うから声をかける。
「はい」
「開けるよ」
「うん」
そっと襖を開けた母親は、ニコニコ笑いながら四つん這いで入って来た。そして美波の額に手をあて、熱はないねといった。
「顔色、だいぶ良くなった」
「顔色悪かったの?」
「運ばれて来た時は真っ白で、死んじゃってるんじゃないかと、お父さんパニックよ」
「なんか想像つく」
「娘、命の人だからね」
美波は知っていた。仕事の合間中、何度も尊が部屋を覗きに来ていたことを。
「ごはん、食べられる?」
「うん、たぶん」
「良かった。お父さんがね、美波のためにと大好きな納豆ネバネバ丼を作ってくれたから、持って来るね」
「ちょっと待ってお母さん」
美波は凄い勢いで起き上がり、正座をして母親を凝視した。
「どういうこと?」
「どいうことって、あんたが好きだからさ」
「そこに、そこに凌馬さんいた?」
正座のまま、美波は母親に顔を近づけた。母親は眉尻を下げ、首をかしげている。女の子3人の母親にしては珍しく、乙女心が理解できないのが美浜である。
「そりゃいるわよ。凌馬くん、納豆ネバネバ丼てなんですかって聞いてたもの」
「それで」
「説明したわよ。ご飯の上に山芋を敷いて、納豆、茹でたオクラ、マグロのお刺身、味付け刻みのりの上に生卵の黄身を乗せたものだと」
「まじで。凌馬さん引いてなかった?、ねえお母さん」
あまりに顔が近いので、美浜が娘の肩を押して、真っすぐ座らせた。
「ううん、引いてるところが、それが食べたいって」
「えっ」
「それでお父さん喜んじゃって、2人前こしらえたのよ。でもさ、凌馬くん男の子だから、それだけじゃ足りないだろうと、ヒレカツ大盛も付けてね」
「そう、そうか…」
美波はほっと息を吐いた。そしてすぐに他のことを思い出した。
「そうそうお母さん、聞きたかったんだけど、どうして凌馬さんがうちで働いてるの?」
「それは、あんたが倒れたからその代わりにって、凌馬さんがいってくれたの。どうせ時間が余ってるらしくてね」
美浜は、店で一緒にご飯を食べるかと聞いて来たが、美波は、未だ調子が戻らないからと断った。身体の調子は良かったが、好きな人の前でご飯を食べるのが、なんだかとても恥ずかしい気がしていた。ネバネバ丼はいいとしても、
口を開けるのが恥ずかしい。口を開けた顔を見られるのが恥ずかしいのだ。こんな感情ははじめてだった。
ご飯が運ばれてきた。どんぶりの他に、刻んだ白ネギが散りばめられたラーメンのスープと、ぬか漬けが添えられていた。
「お祖母ちゃんのぬか漬け」
美波は祖母のぬか漬けが大好きだ。小さな頃から、キュウリやニンジンを鷲掴みにして食べていた。どんなおやつよりも好物だった。その姿を見て、大人たちは、将来、酒飲みになるぞと予想した。
「ごちそうさまでした」
ご飯を全部平らげると、美波はそれを厨房に運ぼうかどうか迷った。店内からは賑やかな声が聞こえてくる。どうやら尊と凌馬と母、珍しく祖母も加わり酒盛りがはじまったようだ。正月中は朝食をしていないので、明日は昼近くまで寝ていられる。買い出しは昨年中に終えているし、出す物も限られているので仕込みに時間がかからないのだ。
「行きづらい」
取り敢えず食器は家の台所に片づけた。そして顔を洗い、髪の毛を整えた。
「いきなり、部屋に挨拶に来るかも知れないからね」
パジャマも新しいものに着替え、準備をしてから、布団に入った。
しかし酒盛りは続き、深夜12時を過ぎても笑い声が聞こえた。姉や妹はとっくに自室で寝ていて、祖母も11時には床についた。ほろ酔い気味の祖母をはじめて見た美波は、孫を失った悲しみの深さを改めて知った。
「何の話で盛り上がっているのかな?凌馬さん、泊まるの?」
まさか、と忍び足で店内に続く廊下を歩いた。3人の話し声が鮮明に聞こえる。どうやら亡くなった慎一郎の話題になった様だ。湿っぽい話しではないが、時折母の、泣き笑いが聞こえてくる。もしかしたら両親も祖母も、凌馬に慎一郎を投影しているのかも知れない。
美波は部屋に戻ることにした。布団に入ると、1日の疲れが身体に一気にのしかかり、1分もしないうちに眠りに落ちた。
翌朝、朝から母の元気な声が響く。元来陽気な人だが、今朝はとてもパワフルだ。襖を少しだけ開け、外の様子を見た。凌馬の姿は見えないが、ダイニングルームにいるのだろう。美浜の話し声が次々と、途切れることなく聞こえてくる。凌馬に見られない様に、美波は忍者の様な体勢になり、二階の自分の部屋に上がった。そこで着替えの服を選び、胸に抱えて下に降りた。最善の注意を払い、風呂場に行ったら、凌馬と遭遇した。
「すっすみません」
美波は凌馬に背中を向けて謝った。というのも凌馬は下着姿で、上半身に何も着ていなかったからだ。眼鏡をかけてないが、それくらいはわかる。
「いえ、いいんです。こちらこそお邪魔して」
凌馬は脱衣所の着替えを取ると、「どうぞ」といって去って行った。
「なんてこった。ダイニングにいたんじゃないの。いつの間にお風呂に」
脱衣所に座り込んだ美波は暫く放心状態だった。
「あっちに行ったってことは、二階の客間に寝てたんだ。良かった、昨日は下で寝て」
洗濯機を背もたれにして、美波は顔を上げて考えた。自然と笑みになる。凌馬が、自分がいちばん知っている場所で、自分の大切な人たちと関わってくれている。それがとても嬉しかった。
身体を流し、身支度を済ませた美波は、いつもより少しだけお洒落をしていた。薄く色のつくリップもひいている。心が弾み、緊張の糸もほぐれて来た。
「美波、準備できたの、朝ご飯一緒に食べられるね」
母親は次々と料理をテーブルに運んでいる。明らかにいつもとは違う。豪華な朝食が並んでいた。
「なにこれ、ホテルのバイキングじゃん」
二階から降りて来た美海は、大袈裟に身振り手振りを加えた。美月はテーブルの定位置にちょこんと座り、次々と運ばれてくる料理に興奮していた。
祖母は美浜を手伝い、楽しそうに助手を務めている。尊はいつもの様にソファーに座っていたが新聞は読んでいない。凌馬と競馬の話しで盛り上がっている。この光景は1年前まではふうつのことだった。今朝のように、ホテルのバイキングを真似た料理はそうそう出て来ないが、慎一郎がいた時は、いつもこうやって、みんな笑っていた。いまは笑顔の中に喪失感が漂う。
「おお、美波、おいで」
美波に気づいた尊が手招きをした。
「はい」
「座って座って」
どちら側に座るべきか、美波が迷っていたので、尊は凌馬の隣を指した。
「なんだ美波さん。今朝はいちだんと美しいですな」
「そんな、からかわないで、お父ちゃん」
美波はソファーの端に座り直した凌馬とは、反対側の端に腰を下ろした。
「凌馬くんね、きょうもうちに泊まってくれるんだって、そして明後日帰るらしいんだけど、その時は、フェリー乗り場まで送ってあげようね」
「いえ、そんな。車を借りているので大丈夫ですよ」
「そんな寂しいこといわないでよ。2台で行けばいいじゃないの」
「ではお言葉に甘えて」
凌馬はペコリと頭を下げた。
「さあさあ、ご飯ができたわよ。みんなこっちに座って。
美浜の号令のような呼びかけで、みんながダイニングテーブルに座った。
「凌馬くんはね、一度は帰るけど、3月になったらまたこの島に戻って来てくれるらしいよ」
尊は嬉しそうにそういった。
「へえー、いいなあ、いいなあ」
美月がとんちんかんな声を上げている。
美波は黙って凌馬の横顔を見た。凌馬は食事をしながらうなずいている。
「その時は、美しの島乗馬クラブで働くんだって」
「えっ」
凌馬が自分と同じ時期から、まさか同じ会社で働くなんて、思ってもみなかった。これは夢か現実か、美波はわからなくなっていた。
「どうした。驚いているのか美波。お父さんも驚いたよ。こんないい青年が、この島で働いてくれるなんてね。なんならうちの娘のどれかと結婚して一生いてくれたらいいのに」
「凌馬くんには彼女がいるのよ」
食事で口の中をいっぱいにした美海がいった。
「えっ?」
といったのは凌馬であった。自分の鼻に指先を向け、美海を見ている。
「あれ、違うの?わたしたちてっきり優子ちゃんと付き合っているのだと」
「いいえ、それは違います」
「あらそう?」
優子ちゃんとは付き合っていない。美波は目を丸く開き、凌馬を見ていた。
「彼女はとても素敵な女性です。聡明ですし、人への気遣いも素晴らしい。何より、僕を死の縁から救ってくれた人です。感謝しています」
「それなら付き合っちゃえば」
美月がそうぶっきらぼうにいった。
「優子ちゃんは未だ高校生です」
「じゃあ、高校を卒業したら付き合うの?」
今度は美海が聞く。
「それは、その…」
この言葉を聞いて、先程の浮つきは一気に冷めて行った。凌馬は優子を気にしている。問題は年齢なのだ。
「はいはい、そんな話はもういいから、早く食べようよ、もう9時になっちゃうよ」
母親にそう急かされたので、その話しはここで終わった。
神社のバイトも店の手伝いも、きょう一日だけは休めと強く言われたので、もちろん乗馬に行くことも叶わず、美波は退屈な時間を過ごしていた。いつも話し相手になってくれる祖母も会計係をしているし、唯一のペット、ボタンインコのメゴセンパイを構うしかない。しかしメゴセンパイは、母親にしか懐いておらず、他の家族が触ろうとすると、指に穴が開く程噛みつく。狂暴インコである。
「ねえ、メゴセンパイ、凌馬さんは、優子ちゃんのことが好きなんだよね」
「チュッ!」
メゴセンパイが高い声で返事をした。
「それは、そうってこと。違うってこと?」
和室の縁側にうつ伏せに寝転んで、鳥かごの隅を指先でつついて遊んだ。
「わたしね、別に自分の恋が成就するなんて思ってなかったのよ」
美波は仰向けになった。
「小さな頃から大きな夢もないし、このままなんとなく時を過ごして生きて行くのだろうと思っていたから」
そんな時、ふと現れた人が凌馬で、夢や希望を持たなかった少女の胸を突き破って入って来た。最初はただ見ていたいと思っていた。それなのに、手を伸ばせば触れられる位置に彼がいると思うと、違う思いが湧いて来た。傍にいたい、もっと近くで関わりたい。出来る事なら、他の人の元に行って欲しくない。
涙が流れた。こんな贅沢を思い描いてはいけないのだ。恋をするには、わたしは地味すぎる。いまこの場所で、恋の感覚を味わえることが精一杯のしあわせなのだから。多くを求めれば、必ず、何かが壊れる。
そう、最愛の兄を失ったように。
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