8 おユキさん

8 おユキさん


 食堂の床に倒れたままのおユキさんを見た時、ふたりは息が出来なくなった。

胸を押さえたおユキさんは青白い顔で、もう二度と目を開かないように見えたのだ。

「いいか、動かすんじゃねえぞ。月の水を飲ませて、しばらく様子を見るんだ。絶対にゆすったり、無理にベッドに寝かせようなんて思うなよ」

 ずしりと響く厳しい口調で、ヤマト親分が釘を刺した。

 ウン、喉に絡む声でようやく答えて、ルッカとロケロは足音を忍ばせておユキさんのそばに膝をついた。

 リュックを開いて、月の水が入った小瓶を取り出す。その手がみっともないくらいに震えていた。ルッカもロケロもそんなことは気にならなかった。

なんとかしなきゃ。おユキさんを助けなきゃ。躰の中を、ゴオーッ、ゴオーッと熱い風が吹き荒れている。耳がキーンと鳴って、零下三十度の世界に放り出されたように心が冷たかった。

「あわてるなよ、いいか。一滴ずつ、そうっとおユキさんに飲ませてやるんだ。一度にたくさん飲ませると、せっかくの月の水を吐いちまうからな」

 ヤマト親分が、二人の間に割り込んで静かに言った。

「わかった。そっと、ひとしずくずつだね」

「そうだ」

 ルッカは深呼吸すると、月の水が入った小瓶のふたを開き、おユキさんの口に近づけた。

 最初のひとしずくが、ぎらっと光を撥ねおユキさんの唇に落ちた。

 おユキさんが眉をよせ、乾いた熱風のような息を吐き、月の水を嚥み下した。

「ああ……のんでくれた」

 ロケロの声はへなへなだ。

「ようし、いいぞ。少し様子を見て、それからまたひとしずく」

 ヤマト親分が指示する。

「ウン」

 やっと落ち着いてきたルッカは、力強くうなずいた。

 しばらくして、ひとしずく。そして、またひとしずく。

 時がたつのも忘れ、ルッカとロケロはヤマト親分の指示のもと、月の水をおユキさんに飲ませていった。

 夢中になっていたルッカとロケロは、なぜヤマト親分が月の水のことを知っているのかさえ気づいていなかった。

 おユキさんの顔に血の気がもどり、呼吸が落ち着いてきたのはすっかり夜が明けてからだった。

「これでなんとか峠は越えたようだな。もう動かしても構わねえだろう。みんなでおユキさんをベッドに運ぶぜ」

 ヤマト親分が、ほっと尻尾の力を抜いて言った。

 おユキさんをベッドに寝かせる頃には、ルッカやロケロだけでなくヤマト親分でさえぐったりと疲れていた。

「小僧、いやルッカにロケロ、この通りだ、おユキさんを助けてくれて礼を言う」

 ヤマト親分は二人に向き直ると、きちんと頭を下げて言った。

 ふたりは本当に困ってしまった。謝らなければならないのは、自分達の方だと今ははっきりと分かっていたからだ。変にこそばゆいような、申し訳ないような心持ちだった。

「あのヤマト親分、お礼を言われると、僕たち困ってしまうんですけど」

「そんなことはない。ふたりの大切な月の水を、おユキさんの為に使わせてしまった。そのおかげで、おユキさんは助かるんだ。いくら頭を下げて礼を言っても言い足りねえよ」

 ヤマト親分がまた頭を下げそうになったので、ふたりはあわてて止めた。

「これからは何をすればいいの? ヤマト親分教えてください」

 今度は、真剣な気持ちでルッカとロケロが頭をさげた。

「ありがとうよ、ふたりとも。病院が開く時間になったら、お医者に連絡して貰って、お医者が来るまでこのままそっと見守ることにしよう」

 ヤマト親分が何とも言えない、優しい顔で言った。

 ルッカとロケロはどきっとして、ヤマト親分の顔を見た。ヤマト親分の目の奥で、なにかがきらりと光ったように見えたからだ。

「お医者さんがくるまで、僕たち月の水をおユキさんに飲ませてるよ」

「ウン、その方がずっと早く治りそうだしな」

 ルッカに続いてロケロが言った。

「だが、月の水はもうほとんど残ってねえじゃねえか。そいつは……」

 小瓶のなかをじろりと覗いて、ヤマト親分が言った。

 ルッカとロケロは、照れ臭そうに顔を見合わせた。

「いいんだ。おユキさんの病気が治るなら、全部おユキさんに飲んでほしいんだ」

「俺、すごく嫌な奴だったんだ。だから、おユキさんの為に月の水を使えて、なんだかほっとしてるんだ」

 ロケロが神妙な顔で言った。

 ふうむ、ヤマト親分はふたりの顔をかわるがわる見ていたが、

「今は何も聞かねえでおこうか。お前達が気のすむようにやってくれ」

 にやりとして答えた。

 お医者さんが来るまで、ルッカとロケロは交代でおユキさんの口に月の水をたらし続けた。ひとしずく、ひとしずく、丁寧に、祈りをこめて。

「うむ、相当疲れが蓄積していたようだね。残暑が厳しいなか、毎日出掛けていたのじゃ当り前のことかもしれないが。しばらく、休んでいた方がいいでしょう」

 お医者さんは、おユキさんの診察を終えてそう言った。

「あの、心臓はどうでしょうか? 見つけた時、苦しそうだったんですけど」

 ルッカはおそるおそる尋ねてみた。

「心臓? そうだね、診察した限りでは、心臓は問題ないようだが。前から心臓が弱かったのかな?」

 お医者さんは首をかしげた。

「あ、いえ。問題がなければ、良いんです。ただちょっと心配で」

「大丈夫でしょう。心音もしっかりしているし、不整脈もないし。ちょっと無理して、暑気当たりと疲労で体調が崩れた以外は、特別問題はないようだよ」

「ありがとうございました!」

 ルッカとロケロは、これ以上ないくらい深々と頭を下げた。

 お医者さんが帰ると、アトリエはしんとなった。

 空っぽになった月の水の小瓶が、ベッドの脇にぽつんと置かれている。

 蝉の鳴き声も少なくなり、木々のあいだを渡る風もカサコソと葉っぱを鳴らし、どこか寂しげだった。

 その日一日、ルッカとロケロはおユキさんのそばに付きっきりだった。静かに時間が流れ、ふたりはいつの間にか眠っていた。おユキさんの看病で夜通し起きていたふたりは、我慢出来なかったのだ。

 ふたりが目を覚ました時、辺りは暗くなっていて、おユキさんの安らかな寝息だけが聞こえた。

「もう大丈夫だ。目が覚めるまでそっとしておこう」

 夜にまぎれて、床にうずくまっていたヤマト親分が言った。

 ふたりはもう一度おユキさんの顔を覗きこむと、ほっとして安堵の笑いを浮かべた。

「お前達、腹が空いたろう? 冷蔵庫にサンドイッチがあった。昨日おユキさんが倒れる前に、作っておいたらしい」

 ルッカとロケロは、かぶりを振った。

 お腹は空いているようだが、まだ何も食べる気がしなかった。

「無理にでも食べておけ。今度はお前達が参っちまうぞ」

 いいな? ヤマト親分が尻尾をパタンと鳴らした。

「うん、ありがとう」

 ルッカとロケロはそっとおユキさんの部屋を出て、食堂へ行った。

 サンドイッチを持ったふたりは、庭の平たい石の上に腰をおろした。

「よかったね、おユキさんの心臓なんともなくて」ルッカが言った。

「そうだな。月の水が効いたのかな。まあ、そんなのどっちでもいいや。おユキさんが治ればそれでいい」

 ロケロがサンドイッチにパクリと喰いついた。

 ルッカもひとくちかじった。

「おいしいな……」

 ロケロがぐずぐずの声で言った。

「ウン、おいしい……」

 ルッカもぐずぐずだ。

 なぜだか、ひどく涙がこぼれる。とめどなく涙があふれてくる。

 おユキさんは苦しいのになぜ、僕たちのためにサンドイッチを作ってくれたのだろう。むりしなくていいのに。ぼくたちのこと、こんなに大切にしてくれて。こう言う気持ちを切ないって言うのかな?

「俺たち、底なしの馬鹿だな」

 ロケロが言った。弱々しい声だ。

「こんないい加減な気持ちじゃ、苺が見つかるはずないよね」

 ルッカは自分に腹を立てていた。

「明日の夜は満月だ」

「帰ったら、ちゃんと謝ろうね」

「ウン、謝らなくちゃな。どんなに怒られたって俺たちが悪いんだ」

「ウン」

 ルッカとロケロは、涙でくしゃくしゃの顔を見合わせて笑った。心が軽くなっていた。

「小僧ども、これをまだ見ていないのか?」

 後ろでヤマト親分の少し呆れた声がした。

 ヤマト親分がルッカとロケロの前に出したのは、一枚のメモだった。

「これは?」

「見てみな」

 ふたりはメモを受け取ると、頭を突き合わせて覗きこんだ。

「苺の地図だ!」

 ロケロが素っ頓狂な叫びをあげた。

「これ、おユキさんが……」

 ルッカはぽかんとして聞いた。

「そうだ。おユキさんがさがしあてた、苺の地図だ」

 ヤマト親分はにこりともせずに言った。

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