一番最初に我に返ったのはやはり怜王だった。彼女は俺を立ち上がらせて「すまない」と正面から抱き締めて深呼吸をした後、元通り食卓に座らせてくれた。両親もそれではっとしてばたばたと席につく。

「そう! 大事そうなお話の途中だったわね」

「まさか、アントレッドに関係が……?」

 だからアントレッドって何?

 みんなが共通認識しているらしい言葉すら分からず眉を顰める俺に、怜王が不思議そうに視線を向けてくる。え、知らない方がおかしいのか? 困惑をさらに深める俺の手の甲に指先を置いて、彼女は神妙に言葉を紡ぎ始めた。

「ご配慮、痛み入ります。お言葉に甘えて、少々語らせていただこうかと。……ボクの、身の上の話です」

「怜王の、身の上……?」

 呟いた俺を、怜王は真摯に見返した。とんでもない告白をされる気がして、俺は身を竦ませる。彼女は先程、聞いたことない国の王様のことを、聞き違いでなければ『父上』と呼んでいた。

 家の外から先程の両親とよく似た雰囲気の喧噪が聞こえるのを一瞥し、怜王は厳かに口を開いた。

「端的に申し上げます。ボクはこの世界の人間ではありません。アントレッド王国の王子の一人です」

「「なんだって……!?」」

 両親は驚きの事実を告げられたように息を呑むが、俺としてはどこが驚愕に値するかすら分からない。俺はこれ以上置いてきぼりを食らわないよう、恥を忍んで手を挙げた。

「その、アントレッドって何?」

 怜王が今度こそ本気で意外そうな顔を向けてきた。しかし彼女は俺の無知を糾弾することもなく、優しい口調で説明を始めてくれる。

「……この世界の隣の座標には、もう一つ世界が存在する。異世界、と言うと分かりやすいかな」

 いつだか、泉結が聞いてもないのに毎週俺に感想をお届けしていたWeb小説のことを思い出す。主人公が死やら何やらがきっかけで転移し、多くの場合は無双する作品群。サブカル界に跋扈する、異世界転生モノ、というジャンル。あの時話半分でも泉結の話を聞いておいてよかったと、初めて本気で思った。

 現実として信じられるかどうかはともかくイメージ自体はできて、俺は小さく頷いた。怜王はほっとしたように息を吐いて、続ける。

「ボクはその異世界にある、アントレッドという名の王国から来た者だ。キミと出会ったあの日、公園で一人燻っていたのはそういうわけ」

 そういうわけ、と言われても飲み込めない。俺は話の流れにだけでも振り落とされないように、とりあえずはフィクションの話として彼女の言葉を聞くことにした。ここまで大丈夫かな、という確認の後、怜王が指先でテーブルを叩いた。

「アントレッドでは、現任する王が『神託』を受けた段階で『総ての国民の長を決める選挙』──『総選挙』を行い、次の王を決定することとなっている。総選挙はここ──恩が原を会場に、一人の王子が勝ち抜くまで行われる」

「……はあ」

「アントレッドの貴族の中で、紋章の表れた者だけが総選挙への参加資格を持つ。ほら」

 そう言って怜王はやにわにブラウスのボタンを外す。な、何!? とドキドキしていると、ちらりと捲った鎖骨あたりにライオンを象った紋章が浮かんでいた。刺青やボディペイントのような人工的な感じではない。痣のように見えるそれは、皮膚の内側からぼんやりと光を放っているように見える。

「ええ、と……?」

 紋章だの神託だのあまりにファンタジーな話で、また頭がごちゃごちゃしてきた。数々の疑問が浮かんでは消える中、口をついたのはそこまで核心には当たらない質問だ。

「総選挙、っていうからには投票で決めるんだよな。どんな基準で投票されるんだ?」

 怜王はよくぞ聞いてくれたとばかりに力強く頷く。

「『スパダリ度』だ」

「スパダリ度」

 ちょうど今日聞いた単語だったお陰で、彼女の言葉はきっちりカタカナと漢字に変換できた。怜王は大きく頷いて、続ける。

「アントレッド有史以来、ボクらの国では『真のスーパーダーリン』が最も王に相応しいとされている」

「しんのすーぱーだーりん……」

「ああ。これまでもその名が最も相応しい候補者が、それぞれの時代に最も相応しい方法で選ばれてきた。現行の詳しいルールは総選挙が始まればゆくゆくは分かっていくだろうが……」

「ああ、駄目ね。まだ準備中だわ」

 怜王から一瞥を向けられた母が掌にSFで見るようなホログラム画面を浮かべていて、思わず二度見した。何それ俺もやりたい。試しに掌を広げ念じてみるが何も浮かび上がらない。

 心配いらない、とでも言うように、困惑する俺の手を怜王がつなぎ止めた。そして不審そうな目を両親に向ける。

「……以上の話は恩が原市民の常識だと認識していたのだけれど……」

 何故教えなかったのですか、と主張する彼女の言外に、あはは~と曖昧に笑う両親。

「ええ、まあ」

「一純は我々の実の子供じゃないからなあ」

「ふーん……うん?」

 今ものすごい出生の秘密をあっさりばらされた気がするが、そんなわけないから気のせいだろう。俺は今までに聞いた話をどうにか頭の中で咀嚼して、「つまり……」ととりあえず声を出した。

「怜王は異世界人で、その異世界の王さまを何故かこの恩が原市で決める……ズブズブの癒着状態になってる、ってこと……?」

「表現の生々しさが気になるが、まあそういうことだ」

 深く頷いた怜王は俺の手をきゅっと握り締める。俺はその体温を有り難く感じながら控えめに声を放った。

「それで……怜王は、参加するのか? その、総選挙に……」

「ああ。ボクは、総選挙に参加する」

 少し間があったのは気のせいだろうか。その声は、俺にというよりは彼女自身に言い聞かせるような響きだった。それをどう解釈するか悩みながら、俺はもう一度刻むように声を上げる。

「怜王は」

 彼女の肩がぴくりと動く。俺を見つめる金の眼光に揺らぎが見えた。

「怜王は……王様に、なりたい……?」

 今度こそ確かに生じた少しの沈黙。怜王らしからぬ迷うような雰囲気に言い知れぬ不安を抱きそうになったとき、彼女の僅かに掠れた声が応えた。

「なりたい、とも」

 まただ。己の言葉の内容を自分に課すような声に、最初に王が神託を受けたという放送が流れた時の彼女の様子を思い出す。何とも言えない歯痒さが浮き上がって、俺は心中で唇を噛みしめた。

 気がかりなことがあるなら共有してほしいと思うのは我が儘なのだろうか。

 俺が黙り込んでいる間に、怜王が室内の時計を見上げた。時刻は二十時三十分。大会開始という二十二時までは、まだ一時間三十分の猶予がある。といっても何をどう備えればいいのかも分からないが。

 未知への不安を見すかしたように、怜王が「さて」と声の調子を切り替える。

「アントレッドから既にこちらに移住している転移者は多くはない。総選挙とはいえ、こんなに夜遅くではアントレッドからこちらへのゲートも簡単には潜れない……今日のところはしっかり休養を取り、明日以降の戦いに備えておこう」

 そして改めて手を合わせてから箸を取り、すっかり冷めてしまった秋刀魚に切り込みを入れる。俺もそれに倣って秋刀魚を解し、白飯と共に口に詰め込んでいく。母親がぽん、と手を叩いた。

「あ! テレビ点けるわね。何か特集やってるはずだから」

 彼女のリモコンの操作によりチャンネルがローカルチャンネル、ガハラ・オンTVに合わされる。液晶の中ではよく言えば平均的、悪く言えばモブ顔の女性が、職員のひしめく立派な建物の前でフリップを手にルールの説明を今し方終えたところだった。

「あら残念! もう少し早く点けていたほうがよかったかしら」

 母が頬を押さえるが、まあそれはタイミングの問題だし仕方ない。そんな大層な大会だと言うのなら、きっとこれから飽きるほどルール説明の機会があるはずだ。

 それより気になるのはどっかで見たことあるようなこの建物である。

「これ、どこ? 市役所ではないよな」

「大使館よ。アントレッド大使館。アントレッドから繋がるゲートはここにあるし、決勝戦の会場でもあるからね」

「ふーん」

 母の解説に返すべき言葉は本来ふーんではないのだが、なんだか俺もだんだん麻痺してきているようだ。

 俺は脂の乗った身を頬張りながら横目で怜王を見る。トパーズの瞳はテレビではないどこか遠くを見つめていて、その横顔は美しくも言葉にならない寂しさを醸し出していた。

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