脂の乗った秋刀魚の匂いがダイニングに立ちこめる。黒いブラウスと母親のお下がりのエプロンを身につけ華麗に配膳をこなす怜王は、今夜もプロのギャルソンのように輝いていた。母親がうっとりと両頬に手を当てる。

「本当にレオくんはかっこよくてかわいくて最高に素敵ね……!」

「ぜひとも一純をもらってほしいものだ」

 そんな父の発言に、いつもならば「ボクで良ければ」とか「当然です」とか、そういう不敵な台詞が出てきたはずだ。なのに怜王は黙り込むと、最後の皿を手にしたままで動きを止めてしまった。どうしたんだろう。帰り道に何かを言いかけていたこともあって、俺の中に彼女への心配が膨らむ。

「……怜王」

 名前を呼ぶと怜王ははっと顔をあげ、ぎこちなく唇を綻ばせた。

「いや、違うんだ。ボクは一純のことを変わらず愛しているよ」

 そういうことじゃないんだけれど。心配させてごめんね、と頬を指先で撫でられると普通にときめかざるを得ないのが俺の弱いところだ。怜王は気を取り直し今度こそ配膳を終えると、両親と俺の椅子を引き着席を促した後で、自らも腰を下ろした。

 俺たちはいただきますを後回しに、いつになく真剣な彼女に注目する。怜王は俺の隣で長い睫毛を少し下向いて、膝の上の拳をきゅっと握りしめた。そう経たないうち意を決したように顔を上げ、俺たちのほうを順々に見回す。

「……楽しいお食事の席を邪魔してしまい申し訳ありません。お時間は取らせないよう心がけます」

 俺らは三人揃って大丈夫だよと首を横に振った。怜王はほっと息を吐くと、真剣なまなざしを強くした。

「ボクは、ボクの身の上について……皆様に言っておかなければいけないことがあります」

 ごくりと、鹿川家三人揃って息を呑む。怜王もこくりと喉を鳴らし、すぅ、と細く息を吐いた。

「それは──」

 固唾を飲んで次の言葉を待ち受けようとした、その時である。

 ウウゥ~~~~ン!! と大音量のサイレンが開いた窓から鳴り響いた。がたた、と椅子からずり落ちた父がいち早くテーブルの下に隠れ母も続くが、地震や災害にしては携帯は鳴らないし警報は悠長だ。光化学スモッグ警報のイメージに近いが、今は絶賛晩秋の夕方である。誤作動か何かかと訝しんでいると、男性の声が高らかに鳴り響いた。

『速報! 速報!! 恩が原市役所より、市民の皆様にお知らせです!』

 その放送はなかなか事態の核心に迫らない。いくらなんでも危険なことであれば、前置きを優先することはないと思うが……。

「一純、ボクに捕まって!」

 分からない以上は備えることを選び取ったらしい。怜王が床に屈みながら俺の身をスマートに抱え、主に頭部を抱き締める。こんな時だというのに控えめな胸の気配にドキリとしてしまう、思春期特有のスケベ心。

 そんな浮つきを引き戻すように、いよいよ肝心なニュースが鳴り響いた。

『恩が原市の姉妹都市であるアントレッド王国国王陛下が、アントレッド歴540年、西暦2022年1月24日、日本時間19時54分神託をお受けになりました。繰り返します──』

 あ? 何が、何だって?

 聞き慣れない言葉と想像のどれとも違う内容が、脳をざらっと通り過ぎていく。理解不能な俺とは違い、両親は「えぇ!?」と揃って声を上げテーブルの下から抜け出した。

「アントレッド国王陛下が……!?」

「まさか、ついに神託を……!?」

 両親はそう慌てふためき、胸の前で見たことのないハンドサインを作って同じ方角に向け頭を垂れている。マジで何?

「あ、アントレッドってどこ!? 国王って……」

 困惑のあまり声を上げた時、自分を抱き締める怜王の指先が硬くこわばっていることにようやく気がついた。彼女の声がか細く囁く。

「……父上……」

 え?

 見上げると、怜王の瞳は頼りなく揺れ、薄い唇は不安げに震えていた。俺たちの間にしか漂わない凍り付いた空気など勿論知る由もなく、放送は続ける。

『つきましてはアントレッド王国・恩が原市姉妹都市相互扶助条例第二十四条にて定められた規程に則り、本日22時より──』

 勿体ぶるような間に続いて、音割れ寸前の爆音が夜の空気を切り裂いた。

『ここ! 恩が原市内にて、第36回アントレッド国王総選挙を開始いたします!!』

 いやマジで何!?

 もしかして素人を巻き込んだドッキリ企画か何かか、と周囲にカメラを探すが、それらしきものはどこにもない。助けを求めるように怜王をうかがうも、彼女自身が「そうか、ついにこの日が……」とシリアスに唇を噛みしめているのでどうにもならない。両親もなんだか知らないが喜んだり謎の印を結んだりで忙しいようだ。

 俺は怜王の腕の中で、やや無理な体勢になりながらもとりあえず沈黙に徹することを選択した。

 時間よ経て。みんな落ち着け。そしてとにかく誰か俺にこの状況を説明してくれ。

 願わくば、全てドッキリでしたという方向で。

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