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三人並んでの帰り道。
晩秋の風が吹きつけ、泉結が「さぶっ」と肩を縮めた。自分のストールをふわっとかけてやる怜王に一言「あんがとお」と笑った泉結は、そういえばと唇に手を当てた。
「レオくんてドジっ子なの?」
「えっ」
怜王は意外そうに瞳をぱちくりと瞬き、咄嗟の返答に窮してか俺の方をそっと覗ってきた。
「……どうだ? 一純」
「うーん。まあ、ちょっとだけ、たまに……不器用なとこもある、かな」
「はは。だそうだ……」
泉結に向け肩を竦めた彼女はノーダメージを装っているが、半音だけ声の音程が落ちている。本音では気にしていたのかもしれない。
怜王の不器用は昨日のような突発的ドジだけではない。彼女は初めて我が家に来たとき片手で生卵を割ろうとして失敗していたし、学校の定期試験では範囲を思い切り間違えたこともあった。あんなに完璧なレモン捌きについてはかつての教育によりああいう技能を身につけたとのことだが。レモン捌きの教育って何?
ともかく俺としては完璧すぎないところも含めて怜王の魅力だと思っているのだが、完璧主義者の彼女にとってそんな欠点を褒められるのは嬉しいことじゃないのでは……という憂慮によって口に出すことができずにいた。
そんな気まずさを感じ取ったわけではないだろうが、泉結がにゃは~と明るい笑い声を上げる。
「だいじょーぶだよ、オタクから言わしてもらうと、ギャップに魅力を感ずる価値観、つまりギャップ萌えってのはもう不動の地位に君臨してるしさ!」
すげえ。文脈はかなり違うが、俺が言いたかったことに近しいことを言っている。俺はこくこくと過剰にならない程度に頷くが、怜王は「そうか……」とあまりぴんと来ていない様子だ。
俺がかける言葉を迷っているうちに、帰り道の分岐路に辿り着いてしまった。泉結側の信号が青になるなり、彼女はたたたと駆けだしていく。信号の向こうで一回振り返った彼女が声を張り上げる。
「じゃ~ね! イズミン、レオくん!」
「おう、また」
「ああ。またな」
俺たちが手を振ると、泉結はにんまり笑って軽そうなスクールバックをくるくると振り回しながら遠ざかっていく。ありゃ今日も置き勉ぽいなと目を細めていると、隣の怜王が何の遠慮もすることなく指を絡めてきた。俺は少し照れながらも手をそっと握り返す。信号が青になって、二人で足を踏み出した。前に伸びる影は一応、俺の方が長くはある。怜王がぽつりと二人だけの会話を始める。
「今日の夕飯、お父様が秋刀魚を焼いてくれるのだったな」
「あ、うん。そうだっけ」
「楽しみだ」
とは言うが、怜王は魚を食べるのがあまり得意ではない。綺麗に食べはするのだが、そのために恐ろしく時間がかかる。同じことを怜王も思い出したのだろう、先程ギャップについて会話していた時と同じ翳りを目線に乗せて、向こうへ羽ばたいていく烏を見つめた。
「……いつもありがとう、一純」
「んぇ?」
予想外かつ突然の礼に、思わず彼女の顔を見返した。怜王は淡く笑って、絡めた指にわずかに力を込めた。
「キミは、こんなボクを素直に愛してくれているようだから」
「怜王……」
怜王は、時々こうしてびっくりするくらい些細なことを引きずってしまう。色々超越した精神性に見えて案外繊細なところがあり、その本質を分かっているのはきっとあの学校で俺だけだ。
美しくて格好良くて気遣い上手で誰より俺を大事にしてくれて──ほんのちょっとだけドジで、時々驚くくらいに繊細。それが俺の彼女、獅子崎怜王という最高の女で──全てが彼女を構成する魅力、なのだ。
それを伝えるためになんて言ってあげればいいのか分からない。本当は今みたいに喉を詰まらせて俯かず、素直に好きとかかわいいとか言ってあげたいのに。些細な恐れが俺のことを決定的には動かしてくれない。沈黙の数分はとても長く感じられた。その停滞を破ったのは、怜王の控えめな発音だ。
「……一純。ボクは、キミに……」
それきり、よく通るアルトは夕焼けの中に消えてしまった。
「え……なに?」
俺の問いに、また沈黙が渡る。怜王がゆっくりと瞬きをした。赤々とした睫毛の下、トパーズの瞳が夕日に煌めく。
「……いや。後で話そう。ご家族もいる席で」
*
実は怜王との付き合いは、まだそんなには長くはない。出会った時のことは忘れもしない、高二に上がって少しした激しいゲリラ豪雨の日のこと。
漫画研究部の活動がある泉結を置いて一人帰路につき、俺は当時通っていた公園に急ぎ足で進んでいた。数日前そこに捨てられているのを見つけた子猫の様子を見に行くためである。俄雨の予報は前日に出ていたから箱の上には申し訳程度にレジャーシートを被せて屋根を作っておいたが、こう雨が酷くては効果も知れたものである。
学ランのズボンがどんどん水を吸っていく。スニーカーの防水も突き抜けて雨が侵入してきて、気持ち悪いことこの上ない。そんな劣悪な状況でようやっと駆けつけた公園には、思いも寄らなすぎる先客がいた。
宝塚か、そうでなければテーマパークのキャストさんか。そういうフィクション世界から抜け出してきたような煌びやかな──まるでファンタジー映画の王子様みたいな衣装を身につけた美形が、傘も差さずに立っていた。一瞬「彼」かと見まがった彼女は不思議な憂いを帯びたまなざしで、昨日俺が応急処置を施した猫の段ボールを見下ろしていた。
「────」
その横顔の美しさに、俺は学ランの汚れも靴下のぐしょぐしょも、猫のことさえも一瞬忘れてその場に立ち尽くしてしまう。彼女はこちらに気づくこともなく、王子が姫にプロポーズするように片膝をつきびしょびしょの猫を抱き上げた。
「キミも……ひとり、なのか」
見た目通りの良く通るアルトが、雨音もものともせずにあたりに響いた。ひとり、という発音を聞いただけで「独り」だと分かったのは、後にも先にもこれ一度きりである。
我に返った俺は人生最大の勇気を振り絞り、雨に負けないように声を張り上げた。
「あの! 傘、持ってないんすか!!」
顔を上げた彼女の瞳が、濡れた赤毛の下で金色に輝く。美しい外見に似合わないどこか寂しげな眼光が、俺を捕らえて離さなかった。
なんだか、ものすごくドキドキした。そこには別次元の美しい存在が俺に干渉してきた非日常感も無論あったろうが、何よりも多分、俺はその時恋をしたのだ。彼女の内面など、「ひとり」を「独り」と読ませることくらいしかわからなかったし、その服装からしてフィクションかヤバい次元のどちらかに足を突っ込んでいる人物であるのは明らかだったのに。猫と一緒にびしょびしょの状況に甘んじている、彼女の力になりたいと思ったのだ。
とりあえず近くのバス停に猫たちと一緒に避難して、俺の持参したカリカリを貪る猫たちの目の前で話をした。まずは自己紹介から始めたコミュニケーションの中で、獅子崎怜王と名乗った彼女から無戸籍者であるという告白を受けた。奇跡的にその日は運良く、我らが恩が原市の無戸籍者に対するいやに手厚い政策を学んだ日だったため、俺は彼女に一緒に市役所に行くことを提案し、ついでに彼女の居所として我が家の空き部屋を提供できると伝えた。その時一緒に市役所に連れて行った猫は、窓口で話している最中に通りがかった職員らしき愛猫家のお姉さんが去勢手術代をぽんと出してくれた。おかげで今は無事、市内で元気に地域猫として愛されているらしい。
かくして、俺と怜王は現在一つ屋根の下で暮らしている。
とはいえ実家だし怜王がああなのでエッチなイベントなんてのは一切なく、俺たちは今まで健全で健康的なお付き合いをずっと続けていた。
めでたくお付き合いが成った時の経緯は、まあ、今は問題じゃない。なお、彼女の戸籍がなかった理由、そしてあの日着ていた王子様のような服の意味は、知ることができないままでいる。
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