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オジサンは珍しく缶ビールを飲んでいる。僕はパソコンのデスクの上に置かれた本をめくっている。「お前も飲んだらいいだろう。今日は久しぶりの酒盛りなんだから」
「酒は合わなくて」と僕が答えると「酒は昔から神聖なものなんだ」とオジサンが言った。
「今でもそうだよね」
「神棚に酒をあげたりするからか。でも、今じゃ歪んできてしまっている。根っこは変わってないはずだけど。社会そのものが歪んできてるからしかたないか。伝統なんてしょせん壊されるものだから。必要がなければみんなぶっ壊されちまうのさ」
「でも、それも文化だよね」
「そう、保存するばかりが文化じゃない」
「性の意識を歪めてしまったのはキリスト教なんだ」いつだったかオジサンがそんなことを言っていた。「でも僕にはキリスト教なんて関係ないよ」僕が言うと「キリスト教は西洋の文化そのものなんだ。西洋の文化が文明開化で日本に入り込んできたと同時にキリスト教の精神もオレたちの心に忍び込んできているのさ」
「マックス・ウェーバーって知ってるか」
「プロ倫」
「そう、そうオレたちは資本主義の中でもがいているだけなんだ」
「どうやったら抜け出せるんだろうね」と僕がきくと、オジサンは「あんまり深く考えないこと」とだけ言った。僕は学校の先生がマックス・ウェーバーの言ったことはかならずしも正しくないと言っていたことを思いだしていた。
僕はパソコンのデスクの上に置かれたニーチェの「ツァラトゥストラ」のページをゆっくりとめくっている。ページをめくるたびに体になじんだ匂いを感じた。
「この世の中に絶対正しいことってないんだって。問題はあたしが何を正しいと思うかどうかなんだって。だから、あたしが正しいと思えば他の人がどう思おうとそのことは正しいの。あたしに中ではね」
「誰がそんなこと言ったの」
「オジサンに決まってるじゃない」ヒーコの明るい声を聞いたとき、アイスコーヒーをすするストローの先が少し震えた。
「あまり深く考えるな」オジサンの言葉が僕の頭の中に響いた。多分その方が幸せなんだろうけど、どうも僕にはできそうもなかった。僕は本を閉じて、オジサンが差し出した缶ビールを開けた。夏の空が赤く染まり始めている。開け放たれた窓からは都会の騒音だけが部屋の中に入り込んでいた。風は全くなかった。のどが渇いていたせいだろうか、僕は缶ビールを一気に飲み干した。飲み干したビールはすべて汗となって体から吹き出してしまう。全然酔っ払った気がしなかった。
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