「たまたまだよ」僕がこのことヒーコに話したとき、ヒーコはこう答えた。たしかにたまたまなのかもしれない。ヒーコと行くはずだった美術館のまわりには、暇を持て余した人たちがうんざりするくらい長い列を作っているし、そんな人たちがぜんいんがいこくじんってことはありえない。今日ピカソを見に行く気はなくなってしまっていた。あんな列に並んでまで今日見る必要はなかったし、ヒーコだって「どうせあたしわからないから」っていうような気がするから。そんなことを考えるとやはり、上野じゃなくてもよかったのかもしれない。でも、ヒーコはいつも上野がいいという。今日はお昼を食べるところを探すだけでもたいへんそうだ。もう、待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。何度かケータイに電話を入れたけど、留守番電話サービスにつながってしまったのでそのまま切ってしまった。ヒーコにはよくあることだけれど、電源が入っていないらしい。ヒーコにはよく「何で伝言入れてくれないのよ」と言われるけれど、どうも僕は聞いてもいないはずの相手に話をするのは苦手だった。

 灰皿のあるベンチのところまで行って、タバコに火をつけた。高い丘の上から駅のほうを眺めながら、口から吐き出されたたばこの煙の行方を追っている。空に吸い込まれそうになったとき、僕は自分に向けられた視線を背中に感じた。ヒーコかなと思って振り返ってみたけれど、誰一人として僕のことを気にしている様子はない。目を下におろしてみると、ベンチで寝ころんでいるオジサンが僕のことをじっと見ている。オジサンは起き上がると、僕のすわるところを空けて手招きをした。なんとな気が進まなかったけれど、オジサンに手招きされるままベンチに腰を下ろした。オジサンは吸いかけのタバコを指さす。どうもタバコが欲しかったようだ。手招きされたわけが分かったので少しだけほっとした。カバンからタバコの箱を取り出して、オジサンに渡した。オジサンは、箱からタバコを一本取り出すと箱を僕のほうに返してきた。

「いいよ、それそのままあげるから」と僕が言うと「一本だけでいいんだよ。ちょっと切らしただけだから」と言ってタバコの箱を僕の体に押し付けてきた。

「本当にいいの」そう言いながら僕は胸のポケットからライターを取り出した。オジサンはそれを手で制して、自分のズボンのポケットからライターを取り出してタバコに火をつけた。かなり高そうなライターのように見えたけど、オジサンはすぐにポケットにしまってしまう。

「オジサン、それブランド品じゃない」僕がそう聞いても、ただにやにやと笑っているだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る