第2話 後輩の部屋夜試合(ルームナイター)1
わたし、茶髪の後輩は部屋の時計を確認し、衝撃を受けた。まだ〇時は過ぎていないだろうという甘い感覚で時計を確認せずに家までの道のりを満喫してしまった。ほんのり酔いが回った身体に水を流し込む。冷たい水がこんなにも美味しいとは久しぶりに思ったような気がするのだ。
生きていくのは面倒くさい事で、辛い事ばかりで、世間からわたしばかりが淘汰されていくその感覚が嫌で、わたしは今日久々のお酒を摂取したのだ。溜まった洗い物と洗濯ものとゴミたちを見るのが嫌で目を瞑ってて来たけれど、流石に目を瞑っても瞑り切れない有様だ。仕事が忙しいから、友達の繰りに付き合ったから、多くの言い訳でそれらを包みだすのだけれど、結局はわたし自身が放棄しているせいだと分かっているのだ。畳むのが面倒くさくて放棄されている服も下着も、床に落っこちているお酒の空き缶も空き瓶もわたしの本性を見ているようで実に気持ちの悪い気分だ。テレビなんて付ける気分でもなくて、代わりに冷蔵庫に一本残っていたビールを開けてみた。こうして嫌な事から逃げていかなければ日常を生きていくことなど到底できないというものだ。充電切れのワイヤレスイヤフォンを付け続けるのも最近は疲れてきてしまったのだ。
わたしの半趣味である気まぐれ日記もこうして何度も筆が止まってしまう。感情なんてものを振り切る速度で言葉が出てくればこの夜を越していけるのだと思う。鏡に口紅で馬鹿バカ馬鹿馬鹿バカと書いてみた。何だか、感情の速度を振り切っているようで心地がとてもいいのだ。
私の住む部屋はマンションの三階。ベランダからの景色は見ごたえのある方だ。わたしは煙草とライター片手にベランダに出てみた。すると、同じタイミングで隣の部屋のシャボンさんが顔を出した。シャボンさんは一礼するといつものようにシャボン玉を煙草のように持ち、虹色に輝く丸い泡を夜に吐き出し始めた。
「今日のシャボン玉、美味しいですか?」
「極上と言えるでしょうね。茶髪の後輩さんは煙草美味しいですか?」
今日の煙草はあまり美味しいとは言えませんね、とわたしが答えるとシャボンさんはそうですか、と低いトーンで答えた。
「煙草を美味しく吸うにはこの夜に溶け込む事が大事なのでは?」
「シャボン玉吸ってる人だと説得力ありませんよぉ!」
しかし、シャボンさんはわたしの何倍も美味しそうにシャボンを吹いている。それが何だか不思議かつ違和感があった。
「昼間働く人にとって夜は社会から逃げられる時間です。寝るなんて勿体ない」
それが夜の魔力だ。寝なければ明日出る社会がきつくなるだけだ。しかし、夜の魔力には抗えない絶対的な間合いが存在する。
「今日のシャボン玉、いつもより少々高いんです。奮発してよかった」
突っ込みどころはいくらでも見つかるけれど、本人は本当に美味しそうに吹いているから、そっとしておく事にした。
「シャボンさんは嫌な事とかないんですか?」
珍しくシャボンさんはその質問に言葉を詰まらせているようだった。シャボンさんも人間だ、わたしと同じように嫌な事や話したくないことも当然にあるのだろう。
「だから、シャボン玉を吹いているんですよ」
シャボンさんは直ぐにこう続けた。茶髪の後輩さんが煙草を吸うのと同じですよ、と。隣の部屋同士なのにどこか距離を感じていたシャボンさんは今はとても近くに感じるのは、シャボンさんの人間的一面を伺えたからに違いない。微かにパトカーのサイレンが聞こえると、シャボンさんは部屋の時計を確認し、部屋に戻っていった。シャボンさんとの時間は本当に少ないけれど、だからきっとこの時間がわたしは楽しみなのだ。
後輩の夜試合(ナイター) 真辺透名 @tona_manabe
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