第19話

 さて、良いことをした後は良いことがあるもので、破れた俺のお気に入りのベストが補修されて帰ってきた。陽子さんは目の関係で針仕事はできないので、萌奈美さんが代わりに縫ってくれた。後でお礼を言っておこう。やっぱり赤いメッシュは最高だ。通気性も抜群。自然と背筋も伸びるぜ。朝の散歩も順調、順調。後は大通りの西側を北と南に……あ、信用金庫の前のバス停で路線バスから誰か降りてきた。なんじゃ? この男、真夏なのにロングコートを着ているぞ。しかも、コートの中は背広だ。黒革の手袋に黒のスーツケース。ニット帽まで被っている。だから、暑くないのか。夏だぞ、夏。薄っすらと伸ばした髭に丸くて黒いサングラスをした顔で、周囲を注意深く見回している。疑いなく怪しい男だ。もしかして、こいつが例の殺し屋か。そう思えば、それっぽく見えるな。南の空き地の方に歩いて行く。さり気なく周囲を見回している、という事は、下調べをしているのか。腕のいい殺し屋は……こんな事に「腕がいい」という言葉をあてて良いのか分からんが、とにかく、そういう殺し屋は、入念に下調べをすると刑事ドラマでやっていた。全く嘘じゃないだろう。あ、空き地の中に入っていったぞ。いかん、あそこには夕方に組み立てる予定の簡易テントや折り畳みテーブルとか、焼きそば用のコンロなんかが置いてあるんだ。何か仕掛けをするつもりかもしれん。待て、待て、待てえい。――と、何をしているんだ。昨日運び込まれたガスボンベを見回している。あれは可燃性のガスのボンベではなかったか。チラチラと通りの向こうの警察署の方も見ている。あ、戻ってきた。口笛を吹きながら空を眺めて創作に悩む小説家のふりをして。気持ち悪い。やり過ごそう。よし、通り過ぎていった。今度は北へ、地方銀行の方に歩いて行くぞ。やはり、周囲を見回している。土佐山田薬局の前で立ち止まった。し、しまった、ターゲットは土佐山田さんだったのか! そう言えば昨日、東地区の連中は、「時代も変わった」とか「用済みには消えてもらう」と言っていた。それは、土佐山田さんのことなのか。土佐山田さんは歳だ。大内ご住職の少し下くらい。土佐山田薬局は昔ながらの薬屋さんで、流行りのドラッグストアーみたいな店じゃない。この地域一帯の人たちの健康にも長年に渡り貢献してきた。しかし、もう用済みという事か。ひどいじゃないか。あんまりだ。待て、待て、待てえい! 土佐山田さんを殺させは……あれ、また歩き始めたぞ。また北に歩いて行く。ターゲットは土佐山田さんではないのか。安心した。お、立ち止まって――振り返った、隠れろ! 咄嗟に信用金庫の入り口の植え込みに身を隠してみたが、気づかれたか。――いや、大丈夫みたいだ。何事も無かったように、また歩いている。横断歩道の前で速度を上げて歩いて……ああ! 点滅する青の歩行者信号の下を走って横断していく。しまった、歩行者信号が赤に替わった。これでは、横断歩道を渡れない。チクショウ、うまく撒かれたか!


 奴は通りの東側の歩道の上を南へと歩いていく。随分と速足な野郎だ。ああ、やっぱり。ハンバーガー屋さんに入っていった。組織への連絡は、あのハンバーガー屋さんが窓口となっているのか。間違いない、奴が送り込まれた殺し屋だ。マズイ、これは超絶にマズイぞ。本気で夏祭りの時に何かを実行するつもりだ。しかも、俺の尾行に気付いたという事は、奴はかなり凄腕の殺し屋。どげんかせんといかん! しかし、どうすればいいんだ。警察に通報しようにも、証拠が無い。さすがに、真夏に厚着しているというだけでは逮捕できないはずだ。しかもプロの殺し屋なら、常にそういう時の事も想定して動いているだろう。いったいどうすれば……ん? プロ……そうだ、プロだ。毒を以って毒を制す。ハブにマングースと同じだ。プロの殺し屋にはプロの犯罪集団、と決め付けるのは彼らに悪いが、あの黒尽くめの連中なら、装備も実力も十分だと思われる。悪者に力を借りるのは気が引けるが、まだ彼らが悪者と決まった訳ではないから大丈夫だろう。とにかく、話だけでもしてみるか。






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