第18話

 おっとイカン。熟睡していた。ま、それもそのはずだ。今日は随分と走ったり歩いたりドロップキックしたりしたからな。つい居眠りしてしまった。ああ、もうこんな時間か。美歩ちゃんは、とっくにご就寝だな。陽子さんはお風呂か。そうだ、そろそろ幽霊が出る時間だな。昨夜もこのくらいの時間だったからな。どれ、鑑識のお兄さんが言っていた事が本当かどうか、確かめに行ってみるか。






 イチョウの木が月光に照らされ、輪郭を顕にしている。暗い境内は静かで何者の気配もない。黛青たいせいに包まれた敷地を奥に進むと、凸凹の角張った影が並んでいる。月夜のしじまに並ぶ墓群の隅で、その人影は腰を折ったまま、擦れた低い音を短く何度も鳴らす。


 幽霊の正体は大内住職だった。夏のご住職は白い浴衣ゆかたが部屋着だそうで、その恰好のまま、日中の日照りを避けて深夜に墓場の雑草むしりをしているのだ。頭部の輪郭がぼやけて見えたのはツルピカ頭のせいだろう。月明かりか、手許の懐中電灯の光が反射して、そう見えるんだ。人魂とか火の玉の正体は、その懐中電灯の光だ。ご住職は墓石に傷をつけてはいけないと、墓地内での草刈機の使用を禁じていた。だから手作業で雑草を取り除いているのだが、日中はご住職も若いお坊さんたちも、いろいろと忙しいらしく、それに、この暑さだから熱中症で倒れてしまうかもしれない。だから、日が沈んでから取り掛かるのだが、お坊さんというのも今は職業だから、若い人たちは皆、定時で帰る。当直している若いお坊さんもいるようだが、無理に仕事をさせる訳にはいかない、そんな変な世の中だ。それで、ここに住んでいる大内ご住職が夜中に一人で、この広い墓場の雑草をむしっているらしい。毎晩、少しずつやって、お盆のお墓参りシーズンまでには、この墓地全体を綺麗にしてくれるのだそうだ。朝方にも若いお坊さんたちが少しは刈っているが、あまり身が入っていないように見える。除草しているのは間の通路だけで、それぞれの墓の敷地の中は所有者の責任に任せているという感じだ。彼らはきっと、大内ご住職が夜中に一人で墓の敷地の中の草を取っている事は知らないのだろう。大内住職は敢えて修行中の若いお坊さんたちには、それを言わない。彼は、そんな人だ。近所の人の為に毎日欠かさず、消火訓練を一人でやっている事も、自治会のゴミ捨て場を人知れず掃除している事も、他人には言わない。モナミ美容室でツルピカの頭を「洗髪」してもらっている事も言わないし、保管を任されていた大太鼓を壊されてしまった心苦しさから、着慣れない軽装で祭りの準備に参加して積極的に力仕事を引き受けた事も口にしない。普通にしゃべる人だけど、「寡黙な人」とはこういう人のことを言うのだろう。それに、きっと自らの行動で若いお坊さんたちに模範を示しているんだ。立派な僧侶だ。ああ、今夜はもう終わりだな。腰を叩きながら、草の入ったビニール袋を提げて帰っていく。お疲れ様。ああして、疲れた手をプラプラと振っている。あの恰好が幽霊に見えるんだな。腰も少し曲がっているし。――ご高齢のご住職にこんな無理を続けさせる訳にはいかないな。俺も出来る範囲で少しずつ手伝うとするか。こっそりと。それに草は好きだしな。自前の「切れ物」でこうやって掘り起こせば、よし、根本から抜けるぞ。知らない人の墓だが、雑草を取っても文句は言われないだろう。今夜は、この墓から向こうの角の墓までだ。よし、やるぞ。


 湿気がひんやりとした風に乗る。海や山の風と違って、本当に気持ちいいぜ。






 いやあ、良いことをした朝は気分爽快だ。昨夜は張り切って、予定より少し多めに雑草を取ってしまった。朝方に、真っ黒に汚れて帰ってきた俺を見て、陽子さんも美歩ちゃんも驚いていたが、事情は話さない。これが男の美学ってやつさ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る