第2話

 日に照らされた境内の白玉砂利は、しっかりと熱を溜め込んでいた。昼過ぎに撒かれた打ち水は疾うに乾いている。俺は焼けた砂利をきしませながら、肩を落として歩いた。無念だ。奴には逃げられてしまった。思った以上に素早い奴だった。どうやら、相当に訓練を積んでいるようだ。俺が自慢の「切れ物」を両手に一気に飛び掛ると、奴は横飛びしてかわし、華麗に逃げた。しかも、撃ってきた。俺が空中で身を捻るのが少しでも遅れていたら、今頃はお陀仏だっただろう。ここが寺の境内だけに洒落にならん。俺はそのまま幹にぶつかって落下したが、反射的に両手の「切れ物」を幹に突き立てたので、何とかそこに留まる事ができた。護身用の武器が功を奏したというところか……。それにしても、かなりヤバかった。いや、落下しそうになった事ではない。俺が幹に張り付いたまま見上げると、イチョウの葉に囲われた緑の薄闇の中に、奴と同じ黒尽くめの恰好をした奇妙な連中が他にも大勢いたからだ。皆、赤い大きなレンズの目でこちらをじっと見ていた。気が付けば俺は完全に囲まれていた。身の危険を察した俺は、慌てて幹を滑り降り、玉砂利の上に着地した。と言うより衝突した。腰を庇いながら立ち上がり、素早く身構えて上を見たが、奴らの姿は無かった。まさか、チームで動いていたとは……。これは結構な強敵だ。手強い。だから今回は、さすがの俺も解説しながら撃退する余裕は無かった。申し訳ない。


 俺は、周囲に用心しながら、一旦、いつものルートで事務所兼住居に帰ることにした。とは言っても、すぐそこだ。この塀の向こう。俺はいつも、この低い塀を飛び越えて裏庭に入る。家の表は「ホッカリ弁当」という屋号の弁当屋だ。俺はここで二人の女性と暮らしながら、探偵業を営んでいる。一人はここの経営者である陽子ようこさんで、シングルマザー。もう一人はその娘の美歩みほちゃんだ。二人とも俺の恩人である。陽子さんは、とにかく真面目でいい人だ。料理も上手で、店の弁当も向かいの信用金庫の職員さんたちや大通りの向こうの警察署の職員さんたちから大人気。つまり、「ホッカリ弁当」は客筋がいい。そんな店の前を俺みたいな胡散臭い流れ者の探偵が出入りしては、これまで陽子さんが築いてきた信用と評判が台無しになる。それでは恩を仇で返すようなものだ。だから俺は、なるべく人目に付かないよう建物の裏手から回ることにしている。


 この木造二階建ての建物の裏手には左右の端に二つのドアがある。左のドアが店の厨房へと通じるドアでスチール製だ。右のドアは少しだけ気取ったデザインの木製。開けると狭い玄関があり、その奥に二階の住居へ上がる階段がある。この二つのドアの間には、スチール製の倉庫が置かれている。訳があって閉店した近所の喫茶店のおじさんから、使わなくなった業務用の保管庫を譲り受けた。おじさんは新品の倉庫を陽子さんに買い与えようとしたが、陽子さんがこれでいいと言ったようだ。で、この中には使用前の弁当容器が厳重に保管されている。俺はこの倉庫の扉も、左のドアも開ける事はない。今日のように、探偵は汚れることが多い。ここはお弁当屋だ。人様の口に入れる物を販売しているのだ。元来育ちがいい陽子さんは、衛生面にも人一倍に気を使っている。俺も汚れた手や衣服を着たままで厨房に入ってはいけないから、左のドアは開けないし、容器が入っている倉庫にも手は掛けない。俺は行動派の探偵で、さっきのように無鉄砲なところもあるから、よく服に泥や草が……ん? なんじゃ、こりゃ。俺の大切なベストが破れているぞ。せっかく陽子さんからプレゼントしてもらった夏用のベストなのに。通気性のいい物をと、わざわざメッシュのベストを探してきてくれたんだ。赤のメッシュはなかなか無いから大事に着ていたのだが。ああ、さっきイチョウの木を滑り降りた時かあ……。


「あ、桃太郎さん。ただいま」


「よう、美歩ちゃん、お帰り。随分と日焼けしたな。プールは楽しかったか」


「あれれ。ベストが破れてるよ」


 この可愛らしい子が陽子さんの一人娘の美歩ちゃんだ。今年の春から小学生になったばかりで、今は夏休み。今日はお昼ご飯の後、友達と公園のプールに行っていた。自分の体とほとんど同じ大きさのビニールの巾着袋を前後に振りながら、俺の破れたベストを覗いている。


「転んでしまってね。参った、参った」


 と言って俺が頭を掻いていると、玄関のドアが開いた。


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